一塁に走者が出ると、守備側のベンチから控えの選手たちが一斉に飛び出してくる。ベンチ前では、これから捕手のポジションにつく選手を囲んで、レガースやプロテクターを素早く装着する手伝いをする。そしてもうひとつのグループは、捕手から野手に守備位置が変わる選手のレガースやマスクを素早く外す。

 右足のレガースをつける係、左足のレガースを外す係、プロテクター係、ヘルメットを被らせる係など、担当制を敷いており、着脱作業にかかった時間はわずか20秒。まさに神業レベルである。

 とにかく走者が出ると、毎回この作業が繰り返される。そのたびにスタンドからはどよめきが起きた。


ランナーが出るたび部員総出でポジション変更の準備をする海老名の選手たち

勝つための最善策

 これは9月4日、横須賀スタジアムで行なわれた神奈川県秋季大会の海老名高校と横浜創学館高校との試合でのひと幕だ。

 試合開始直後、シード校・横浜創学館の先頭打者が出塁すると、即座に捕手の角谷楓太(1年)がセカンドへ、セカンドの後藤宏基(2年)がショートへ、ショートの斉藤澪生(2年)が捕手へポジションチェンジした。

 そしてランナーがいなくなると、また元のポジションに戻る。このポジション変更が、試合終了(7回コールド)までなんと14回も繰り返された。スコアブックをつけている人、場内アナウンスは大変だったに違いない。

 ではなぜ、海老名高校はこのポジション変更を頻繁に行なったのか。川崎真一監督は次のように語った。

「選手たちが『どうしても勝ちたい』というので、それならばこういう戦法もあるよと提案しました。すると選手たちが『そのやり方で勝ちたいです』と全員が納得したので、取り入れることにしました。あとはいかに時間をかけず、ゲームを壊さずに実行することができるか、観客からクレームがないようにするか。そのために着脱の練習にはかなりの時間を割きました」

 そもそも、この戦法を取り入れた理由はこういうことだ。

「平塚シニアで主軸を打っていた捕手の角谷が入学してきましたが、肩の関節が外れて送球できない状態でした。そうかといって、彼は中心選手ですからメンバーから外すわけには行きません。そこで相手の走者が出たら、その時だけ捕手を替えようと思いました。肩の強い斉藤を捕手にして、多少のミスは目をつぶる覚悟で勝負しました。

 選手たちは忙しく動き回り、相手チームにも大変失礼なことをしているなということは承知しています。ただ、チームとしてこれでいくと決めた以上はやり遂げないといけない。テストケースとして、大会前の練習試合でもこの戦法をやって慣れさせました」

ルール的には問題なし

 川崎監督はその成果について、次のように語る。

「前日(3日)の川崎北高戦でも10回ポジション替えをして、延長11回にやっと勝てました。公式戦では地区大会と今回の県大会で計5試合、この戦法でやらせてもらいました。結果3勝あげることができ、生徒たちも喜んでいるので、それなりに答えは出せたんじゃないかと思っています。相手チームや周りのみなさんのご理解があってのことで、本当に感謝しています」

 この戦法をこれからも続けていくのか。川崎監督に聞くと、こんな答えが返ってきた。

「毎回、毎回、この戦法を使うわけにはいきません。角谷も1年かけて、肩を完治させるつもりです。それまでに次の捕手を育てないといけませんし、いろいろと考えながらやっていければと思っています。いたずらに試合を長引かせるつもりはありません」

 では、海老名の"奇策"とも思えるこの頻繁なポジション変更を、対戦した横浜創学館の森田誠一監督はどのような印象を受けたのだろうか。

「これだけ何度も捕手が交代するのは、私にとっても初めての経験です。初回に2点をとったものの、なかなかリズムをつかみきれず苦戦しました。公立高校で部員数も少ないでしょうから、今回のようなケースは仕方ないと思います」

 この日、主審を務めた審判歴10年の佐藤秀幸氏の感想はこうだ。

「長い間、審判をやらせてもらっていますが、こんなに目まぐるしく選手交代するのは初めての経験です。ゲーム中、選手交代用にメモ用紙を持っているのですが、何度も書き加えるので用紙が足りなくなりました。もちろん、ルール的にはなんの問題もありませんし、それぞれのチーム事情があるので仕方ないですよね。選手たちも全員でキビキビ動いて対応していたので、『ケガしないように頑張れ!』と思わず声をかけてしまいました」

 試合はシード校の横浜創学館が7対0で海老名を下した。1試合14回のポジション変更が、はたして功を奏したのかどうかはわからない。しかし、勝つための最善の策として考えて、最後までやり遂げたところに海老名高校の信念と覚悟を見たような気がした。