日本には古代から大量のニセ金が!?政府非公認でも普通に使われていたお金「私鋳銭」とは?

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違法だが大量に流通していた私鋳銭

日本の貨幣の歴史を調べてみると、必ず登場するのが「私鋳銭(しちゅうせん)」です。

これは、政府が発行した貨幣とは異なるもので、昔はごく普通に流通していました。

まず、そもそも日本で貨幣の流通が始まったのは、708年に武蔵国で銅が見つかったのがきっかけでした。

元明天皇はこの年に改元して「和同」とし、日本初の貨幣である「和同開珎」が発行されています。

埼玉県秩父市黒谷の和銅採掘露天掘跡の近くにある、和同開珎を模した巨大モニュメント

和同開珎のような銭貨は鋳銭司(じゅせんし)と呼ばれる役所で鋳造されました。こういった公的な施設以外の場所で作られる銭貨のことを私鋳銭と言います。

現代の感覚で言えば「ニセ金」ですね。

私鋳銭は材料である銅の取引の妨げになったり、粗悪なつくりであることも多かったことから、官銭の価値を下げてしまうおそれがありました。この点も現代のニセ金と同じです。

そのため、私鋳銭を製造する者には死刑や流刑になるほどの厳罰が科されましたが、鋳造が止むことはなく、多くの私鋳銭が市中に出回ることになります。

和同開珎が発行された約50年後には、市中に流通する銭貨の約半分が私鋳銭だったとも言われています。

後戻りできない「貨幣社会」

さて、貨幣は和同開珎の他にも12種類が発行されており、これを皇朝十二銭と言います。とてもかっこいい呼び名ですね。

皇朝十二銭と関連銭貨。左上は和同開珎銀銭。金銭の開基勝寳は模造。なお、銀銭の大平元宝は現物が発見されていない(Wikipediaより)

しかし材料である銅が不足したり、粗悪なものが作られたりするようになり、官銭は次第に貨幣としての信頼を失っていきます。こうして貨幣作りはいったん打ち切られ、日本はいわば「無貨幣社会」に戻ることになります。

しかし、貨幣は一度流通すれば、円滑な商取引のためにも欠かせないものとなります。よって製造は打ち切られたと言っても、需要はありました。

それから少し経って、変化が訪れます。日宋貿易が始まって、大陸から宋の貨幣である宋銭が日本にやってきたのです。

さらに室町時代になり、中国が「明」になると、同じように明銭が伝来しました。日本人はこの宋銭や明銭を使うになり、今度はこれらを元にした私鋳銭も多く出回ります。

室町幕府は宋銭・明銭や私鋳銭の使用を禁止しますが、あまり効果はなかったようです。

私鋳銭はもちろんですが、宋銭も明銭も幕府によって公的に認められた貨幣ではありませんでした。しかし、市井の人々にとっては無くてはならないアイテムになっていたのです。

江戸幕府による貨幣政策

現在も、私鋳銭は多くの遺跡から出土しており、全国各地で製造・使用されていたことが分かっています。中でも、製造場所がはっきり分かっているのが、大隅国加治木(現在の鹿児島県姶良市)で作られていた加治木銭です。

これは明銭の「洪武通宝」を模したもので、裏面に「加」「治」「木」のいずれかの文字が入っているのが特徴です。製造が始まったのは1599年頃と考えられています。

このようにして時代が下り、江戸時代になると、江戸幕府は新たに寛永通宝という貨幣の製造を始めました。それまで放任状態でぐちゃぐちゃだった貨幣の流通について、きちんとした官銭を設定することで経済のコントロールをはかったのです。

こうして江戸時代には金座や銀座といった役所も全国に置かれるようになり、貨幣の製造や流通の管理が行われました。

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こうした政策の強化によって、ずっと使われていた私鋳銭は激減し、次第にその姿を消していったのです。