驚きの175隻!「史上最も量産された艦隊駆逐艦」米フレッチャー級 “質より量”じゃないからスゴイ!
民主主義の兵器工場として、戦車や航空機、輸送船、魚雷艇に至るまで、あらゆる兵器を大量生産していた第2次大戦中のアメリカ。それは駆逐艦も同様で「史上最も造られた艦隊駆逐艦」というのもアメリカ製でした。
質と量の双方兼ね備えたアメリカ工業力の象徴的存在
第2次世界大戦中にアメリカが建造したフレッチャー級駆逐艦は、建造計画数188隻、実際に就役した数175隻という、途方もない数が造られた軍艦です。この数は世界で最も量産された艦隊駆逐艦といわれるほどで、まさにアメリカの工業力の凄まじさを体現するようなクラスといえますが、ではフレッチャー級とは、どのようなフネだったのか振り返ってみましょう。
フレッチャー級駆逐艦の5番艦「ニコラス」(画像:アメリカ海軍)。
フレッチャー級の誕生をひも解くには、第2次世界大戦の前に起きた第1次世界大戦から見ていく必要があります。この大戦に途中から参戦したアメリカは、国内の巨大な工業力をフルに発揮して「フラッシュ・デッカー」と総称される平甲板型の駆逐艦を3クラス(級)、計273隻も建造しました。
こうして見てみると、この時すでに性能と隻数の両方が要求される「艦隊のワークホース」といえる艦隊駆逐艦の大量生産の礎をアメリカは作り上げていたといえるでしょう。この「フラッシュ・デッカー」が、アメリカ海軍における駆逐艦の基礎を築いたのです。
ところが、この量産が後々、問題の原因となりました。あまりにも大量に造ったので、平時になると、更新用となるべき新型艦の建造を抑制することになってしまいます。それに輪をかけたのが、ワシントンとロンドンの両海軍軍縮条約でした。これらの結果、アメリカ海軍における駆逐艦の研究開発は、やや停滞することとなってしまいました。
余裕ある船体サイズでアップデートにも逐次対応
とはいえアメリカ海軍も、ただ手をこまねいていたわけではなく、将来を見据えて軍縮条約の規定内で各種の駆逐艦を建造しています。そして1936(昭和11)年に軍縮条約が失効すると、同海軍は新型駆逐艦の研究開発を本格的に強化。こうして1939(昭和14)年9月から、建造計画が立てられたのがフレッチャー級駆逐艦でした。
フレッチャー級駆逐艦のネームシップである1番艦「フレッチャー」(画像:アメリカ海軍)。
ワシントンとロンドンの両軍縮条約が失効し、それに伴って排水量の制限も消滅した結果、フレッチャー級は最大速力36.5ノット(約67.6km/h)、基準排水量約2100トンと、当時としてはやや大柄な駆逐艦になりました。これはまさに「大は小を兼ねる」という諺のとおりで、軍艦に関しても船体が大きいほうがなにかと有利だからです。
この排水量制限がなくなったおかげで、アメリカ海軍が求める航洋性を満たし、燃料搭載量も増えたことで長駆高速で航行することの多い空母機動部隊に追随できる能力を備え、航空機が主力となる戦闘環境下における、対空火力の逐次増強も受け容れることができたといえるでしょう。
特に対空兵装の強化は著しいものがありました。極初期のフレッチャー級は、4連装1.1インチ(約28mm)機関銃1基と単装50口径(12.7mm)機関銃4〜6挺しか装備していませんでした。しかしこれが終戦間際になると、旧日本海軍にまともな水上戦闘艦がほとんど残っていなかったことも影響して、2基ある魚雷発射管のうち前部の1基を撤去。代わりに、4連装40mmボフォース機関砲2基、同連装3基、連装20mmエリコン機関銃4基、同単装3挺を装備するほどまでに至っていました。これは、当時の駆逐艦としては最強ともいえる対空火力です。
連装砲よりも有用だった単装砲の装備
さらに、単装砲塔5基5門として装備した主砲の38口径5インチ(12.7cm)両用砲は、「両用」と記されているとおり、対地対艦用の平射砲としてだけでなく高射砲(高角砲)としても使用でき、最大発射速度は毎分実に22発もありました。
この5インチ両用砲の単装砲塔5基という配置は、敵の攻撃に対する抗堪性の向上にも役立っています。確かに日本の特型駆逐艦のように連装砲塔3基ならば主砲は6門で、なおかつ設置場所は3か所で済むため、スペースや排水量に制限の大きい駆逐艦の場合、メリットが大きいと言えます。アメリカ海軍でも、フレッチャー級に続くアレンM.サムナー級で同様の主砲配置としました。
マサチューセッツ州ボストンで記念艦として保存されている「カッシン・ヤング」(画像:アメリカ海軍)。
しかし連装砲塔の場合、戦闘時に砲塔1基がやられると主砲2門が使用不能となり、砲塔2基がやられれば、使用可能な主砲はわずか2門になってしまいます。ところが単装砲塔なら、砲塔1基がやられても主砲1基が使用不能になるだけなので、砲塔2基がやられても、残りの3砲塔の主砲3門が使用可能なまま残るのです。
また、この砲塔5基というのは、対空警戒時にもきわめて効果的でした。各砲塔の砲に大仰角をかけたうえでそれぞれ別々の方向、つまり異なる5方向に向けておき、即応射撃状態で周辺を警戒することができたのです。
わずか2年あまりで175隻就役
しかも主力艦でもない駆逐艦ながら、アメリカ海軍はほかの艦艇と同様に、フレッチャー級にも最新の電測兵器を搭載し、戦争の進捗にともなってその性能をいっそう充実させていきました。対潜用のソーナー(音波探信儀)に加えて、対水上用や対空用の捜索レーダーと射撃管制レーダーを搭載します。さらに4連装40mmボフォース機関砲には、レーダー射撃管制装置まで装備するようになりました。
1960年代に近代化改装を受け船体後部に無人ヘリコプター「DASH」の格納庫と発着甲板を増設した「ニコラス」(画像:アメリカ海軍)。
フレッチャー級駆逐艦は、太平洋戦争勃発後の1942(昭和17)年6月30日にネーム・シップ(1番艦)の「フレッチャー」が、そして1944(昭和19)年9月2日にラスト・シップ(最終艦)となる「ルックス」がそれぞれ就役しており、約2年3か月で175隻がアメリカ国内の造船所11か所で建造されています。ただ冒頭に記したとおり、当初の計画では、188隻が造られることになっていました。
これは、太平洋戦争に加わったアメリカ海軍の護衛駆逐艦以上のサイズの軍艦ではもっとも多い建造隻数で、まさに「艦隊のワークホース」を一気呵成に揃えたというわけです。
この175隻中、戦闘で失われたのは約1割強の19隻です。ここまで多く造られたからか、日本軍機による体当たり攻撃、いわゆるカミカゼ攻撃を受けて最初に沈んだ艦「アブナー・リード」(1944年11月喪失)と、最後に沈んだ艦「キャラハン」(1945年7月喪失)が、ともにフレッチャー級だという因縁めいたものもありました。
海上自衛隊でも「ゆうぐれ」「ありあけ」として運用
また船体サイズに余裕があり、なおかつ数多く造られたことにより、第2次世界大戦が終結してもフレッチャー級は重用され続けました。アメリカ海軍に在籍し続けて近代化改装を施されただけでなく、日本を始めとして、台湾、韓国、西ドイツ、スペイン、イタリア、ギリシャ、トルコ、メキシコ、ブラジル、ペルー、アルゼンチン、チリ、コロンビアと、世界中にあるアメリカの同盟国に提供され、有力な供与兵器として使われたのです。
日本に引き渡されたのは「ヘイウッド・L・エドワード」と「リチャード・P・リアリー」の2隻。それぞれ供与に伴い「ありあけ」「ゆうぐれ」と名を変え、1960(昭和35)年から1974(昭和49)年までの14年間、自衛艦として海上自衛隊で従事しています。
海上自衛隊の護衛艦「ゆうぐれ」。元はフレッチャー級駆逐艦の「リチャード・P・リアリー」(画像:海上自衛隊)。
日本に供与された2隻は1974(昭和49)年にアメリカへ返還されると、2年後の1976(昭和51)年にアメリカ本土でスクラップとして解体されています。
ちなみに「175人姉妹」の最後の1隻、メキシコ海軍の「クィトラゥワク」が退役したのは、2001(平成13)年のこと。この艦はもともと「ジョン・ロジャース」という名で第2次世界大戦中の1943(昭和18)年2月9日に就役しているため、それから実に約58年間、老体に鞭打ちながら働き続けた形でした。この長寿ぶりを見てもフレッチャー級の元設計の優秀さがわかるといえるでしょう。