現在、欧州組は知名度がそれなりにある選手だけでも50人程度いる。ベトナム戦、オマーン戦に招集された代表選手28人の中にも18人の海外組がいた。だが、チャンピオンズリーガーは南野拓実ただ1人。その南野にしても所属のリバプールでは出番に恵まれていない。リーグカップ戦要員に甘んじている。

 チャンピオンズリーグ(CL)を欧州1部リーグとすれば、ヨーロッパリーグ(EL)は欧州の2部リーグだ。ここには今季、古橋亨梧(セルティック)、長谷部誠、鎌田大地(ともにフランクフルト)、伊東純也(ヘンク)、堂安律(PSV)、北川航也(ラピド・ウィーン)、三好康児(アントワープ)の7選手がプレーしている。冨安健洋が所属するアーセナルも、昨季まで4シーズン連続「欧州2部」を戦っていたが、現状ではこのあたりが日本人選手の限界値となる。

 日本には、欧州組が増えたことを手放しで喜ぶ風潮があるが、欧州1部を戦う選手=チャンピオンズリーガーの数は増えていない。むしろ一時より、その数は減少している。日本人のトップのレベルは上がっていない。南野の現状を考えると、そう考えるのが妥当だ。

 サッカー偏差値で言うなら、60を大きく越える日本人選手はゼロに近い。偏差値52〜57の狭い範囲に多くの選手がひしめいている。これが海外組の実態だが、国内組にも、この枠内に収まる選手がいる。内外問わず、無数の選手が紙一重の関係で連なっているのが日本の現状だ。下手な選手を見かけなくなっている。平均値は右肩上がりを示している。層は厚くなった。誰が代表に選ばれてもそこそこやる時代を迎えている。かつてとの違いだ。代表監督の見る目が、より問われる時代を迎えている。

 選手たちにもそうした自覚はあるはずだ。サッカーは記録の類が少ないスポーツなので、もともと選手の優劣が分かりにくいという特性がある。選手の自己評価はおのずと高めになる。同じ選手を使いたがる傾向が強い森保監督と、気質的によい関係にあるとは言えない。代表から漏れた選手はもちろん、代表に選ばれながら出場機会に恵まれない選手は、森保監督にはシンパシーを抱けないだろう。

 サッカー選手が好む監督とは、自分を使ってくれる監督だ。出場機会が多い選手は、監督が世間から低い評価を受けていても、その采配を肯定しようとする。まず悪く言わない。だから、その逆もあり得る。使われなかったある元代表選手は、時の監督について怒り顔で「顔も見たくない」と、こちらに答えたものだ。

 招集するメンバーを発表し、パッと集合し、サッと試合をして、直ちに解散する代表チームの選手と監督は本来、思っている以上にドライな関係で結ばれている。お互いが行動を共にする時間はけっして長くない。選手と監督は、育てる、育てられる関係にはなりにくいのだ。それぞれ年間契約を交わし、普段から濃厚に接している、クラブの監督と選手の関係とは大きく異なる。

 選ぶ、選ばれる関係だ。選手の出入りが自ずと激しくなるのが代表チーム本来の姿になる。ところが森保ジャパンはそれが少ない。サウジアラビア戦、オーストラリア戦を、モンゴル戦、ミャンマー戦と同じようなメンバーで戦ってしまう。クラブ監督のような代表監督だ。

 一体感もアピールする。「我々」という言い方に、その気質が表れている。たとえば試合後に、マイクを向けられた時、以下のような言い回しをする。
「我々を応援して下さるファンの皆様のために勝利をお届けすることができて〜」あるいは「できなくて〜」と、一体であるかのように振る舞う。

 とりわけ違和感を覚えるのは負けた時だ。これでは、敗戦の責任が私ではなく、あたかも我々にあるように聞こえる。招集メンバーはもちろん、スタメンを決めたのも我々ではない。私、すなわち森保監督であるにもかかわらず。

 一方、クラブは必ずしも私ではない。時の監督が、抱えている選手すべてをどこからか引き抜いてきたわけではない。ベースになるのは元からいた選手だ。我々感は、代表チームより断然高い。

 代表監督が、我々を使うと、責任が自分自身ではなく、チームにあるように聞こえてしまう。我々と言えば、その中には当然、選手やコーチングスタッフも含まれる。

 こう言ってはなんだが、代表監督とコーチではもらっている金額が違う。10倍程度の開きがある。代表選手に至っては日当制で、選手について評論することを躊躇いたくなるほど少額だ。監督と対等な立場にある人は、代表チームの現場には存在しない。

 代表監督はまさに「ワンマン」なのだ。我々と複数形を用い、責任がチーム全体にあるかのような雰囲気作りをするな。我々は家族的な集団で,一致団結して戦っている的なイメージを変にアピールするな。もっと批判を恐れず、私を前面に押し出し、独創性をもって自信満々に戦えとけしかけたくなる。私と言えない弱さを、森保監督に垣間見る気がする。