1日当たり350万人以上が利用する新宿駅は、「世界で最も混雑した駅」としてギネス記録に認定されるほど巨大なターミナル駅だ。地下の駅構内は広く複雑で、新線新宿駅から西武新宿駅に行くには徒歩15分以上かかる。なぜこのような形になったのか。鉄道ジャーナリストの枝久保達也さんが解説する――。
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■「世界で最も混雑した駅」としてギネス認定されるほど

JR東日本は7月9日、2020年度の駅別利用者数を公開した。最多は山手線、中央線、埼京線などが発着する新宿駅で、乗客数は1日当たり47万7000人。新型コロナの影響で前年比38.5%の大幅な減少となったが、依然として日本一の利用者数を誇る大ターミナルである。

新宿駅にはJR東日本の他、小田急電鉄、京王電鉄、東京メトロ、都営地下鉄が乗り入れており、少し離れているが西武鉄道の西武新宿駅とも連絡をしている。

その規模はJRだけで1番線から16番線まであり、加えて小田急が1番線から10番線(1番線は現在は使われていない)、京王が1番線から5番線、東京メトロ丸ノ内線が1番線と2番線、都営大江戸線は新宿駅と新宿西口駅にそれぞれ1番線と2番線があり、合計すると37の乗り場があることになる。これはJRと東京メトロ合わせて30の乗り場がある東京駅を上回る。

これら各線の乗降客数を合算すると、1日当たり350万人以上(コロナ前)が利用している計算となり、これは「世界で最も混雑した駅(the world’s busiest station)」としてギネス記録に認定されている。

そんな新宿駅は駅構内もまた複雑だ。改札口は大きく分けて東口、西口、そして甲州街道に面した南口の3カ所にあり、加えて近年は甲州街道の反対側に新南口が開設されている。目的の改札口になかなかたどり着かず、駅構内をぐるぐると回ってしまった経験がある人も多いだろう。かくいう筆者も、こんな仕事をしているくせに頻繁に迷ってしまう。

■東口、西口、南口…迂回しないとどこへも出られない

新宿駅を分かりにくくしている原因のひとつが回遊性の悪さだ。駅の東西を結ぶルートは、駅の外では駅の南側を陸橋で越える甲州街道、駅の北側で線路をくぐる靖国通り、思い出横丁に通じる角筈地下道、駅構内では地下鉄丸ノ内線に沿って設けられたメトロプロムナードなどがあるが、いずれも大きな迂回が必要だった。

だが近年、新宿駅の回遊性を向上させようという動きが進んでいる。昨年7月には東口改札と西口改札を移設して東西自由通路が設けられ、駅構内の東西の移動は大きく改善された。さらに新宿区は、2035年をめどに線路上空に歩行者デッキを整備し、乗り換え改札口を新設する計画を立てており、7月7日に新宿駅直近地区土地区画整理事業の事業計画を決定している。

出典=imahachi.com

■「まるでダンジョン」なぜこのような形になったのか

また西武鉄道は4月26日、西武新宿駅と丸ノ内線新宿駅を結ぶ地下通路の整備に向けて、「都市計画決定後の早期実現に向けた具体的な検討や関係者間の協議を進めていく」と発表。この地下通路が整備されると、西武新宿駅と接続する靖国通り下の地下街、新宿サブナードとメトロプロムナードが新宿通りに沿って直結され、西武新宿駅からJR新宿駅の乗り換えが、現在の11分から5分に短縮される見込みだ。

この他、小田急と東京メトロが小田急百貨店新宿店を解体し、高さ約260メートルの高層ビルに建て替える計画が進んでおり、京王線新宿駅のホームを北に移設し、丸ノ内線との乗り換えを改善しようという構想もある。

終わることなく工事が進められ、ダンジョンにも例えられる新宿駅はどのようにして現在の形になったのだろうか。新宿駅の歴史をひもときつつ、郊外の田舎駅から世界一のターミナルへと成長した過程を追ってみたい。

■開業初年度は1日3往復、乗客がゼロの日も

新宿駅は1885年3月1日、赤羽―品川間(現在の山手線、埼京線にあたる)を結ぶ日本鉄道品川線の駅として渋谷駅、板橋駅とともに開業した。当時、新橋駅と上野駅の間は線路がつながっておらず、東北線、高崎線と官設鉄道(現在の東海道線)を結ぶバイパスルートとして整備されたのが品川線であった。

新宿に駅が作られたのは江戸時代、甲州街道最初の宿場町、内藤新宿があり栄えていたからだ。ただ、新宿駅は用地買収が必要な既成市街地を避けるため、内藤新宿の中心部から800mほど離れた位置に設置された。

品川線の開業当時、旅客列車は1日3往復にすぎず、主に高崎線沿線で生産される生糸や織物を東海道線経由で横浜港に輸送し、外貨獲得の手段とする目的で使われた。そのため開業初年度の1日平均乗降人員は70人程度と極めて少なく、雨の日は乗客がいないということもあった。

■明治時代に中央線の原型「新宿―立川間」が開業

品川線の開業から4年後の1889年4月11日、新宿を通る第2の路線として甲武鉄道の新宿―立川間が開業した。現在の中央線である。こちらも当初は運転本数が少なく、1日4往復、蒸気機関車による運転で、そのうち1往復は品川線を経由して官設鉄道新橋駅まで乗り入れていた。

筆者撮影
外濠を走る中央線は旧甲武鉄道市街線にルーツを持つ - 筆者撮影

甲武鉄道は開業にあたり「内藤新宿よりして、品川に出て新橋・横浜間の汽車に乗り移る時は東海道へ至るべく、赤羽に出れば奥州・信州・両毛・水戸へも至るべくして、交通もっとも自由なり」との広告を出している。さまざまな方面に乗り換え可能な新宿駅は、こうしてターミナル駅としての一歩を歩み始めた。

日清戦争が勃発した1894年には、新宿―牛込(現在の飯田橋駅付近)間の「市街線」が開業。1904年までに御茶ノ水まで延伸した。それまでの東京の鉄道は新橋や上野など江戸以来の市街地から外れた位置にターミナルを置いていたが、甲武鉄道の市街線は初めて都心方面に乗り入れた鉄道となった。

■蒸気機関車から電車運転へ、5〜10分間隔で運行

またエポックメイキングとなったのが1904年に開始された電車運転だった。当時の鉄道は蒸気機関車による運転が基本で、電車は市内交通を目的とした路面電車に限られていた。日本初の路面電車は1895年に京都で開業したが、東京で路面電車が開業したのは少し遅れて1903年のことだった。甲武鉄道は路面電車の開業とほぼ同じタイミングで電車運転を始めたのである。

電車運転が始まる以前、甲武鉄道の列車は蒸気機関車が5〜8両の客車を牽引していた。約30分間隔の運行で、1列車あたりの定員は250〜400人だったが、定員に達する列車は3分の1にすぎなかった。そこで甲武鉄道は乗客を増やすには連結車両を減らしても運転本数を増やした方がいいと考え、1両編成(定員約30人)の電車を5〜10分間隔で運行することにした。

筆者撮影
甲武鉄道で使われていた電車(鉄道博物館) - 筆者撮影

■2つの大きな街道に挟まれて南北に拡大し…

1906年の運行形態を例に挙げると、中野―御茶ノ水間を最短6分間隔、約28分で結んでいた。現在の中央・総武線各駅停車の中野―御茶ノ水間の所要時間は22分、日中は約5分間隔だから、いかに時代を先取りしていたかが分かるだろう。

新宿駅では電車運行の開始に合わせて初めての大規模な改良工事が行われている。この工事では青梅街道に面した青梅口ホームと甲州街道に面した甲州口ホームの2カ所のホームが設置された。つまり新宿駅に甲武鉄道の同じ路線のホームが2カ所あったことになる。

2カ所設置された甲武鉄道の電車ホーム『新宿駅100年のあゆみ』(弘済出版社)より

これは当時の電車が1〜2両での運転と短かったため、1つの長いホームを作るよりも、短いホームを2つ作って2回停車したほうが、安上がりかつ乗客にも便利という判断があったようだ。北は青梅街道、南は甲州街道に挟まれる新宿駅は、おのずと南北に勢力図を延ばしていくことになる。新宿駅が複雑化していく原点がここにあったと言えるだろう。

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■中央線と山手線が交差したことでラッシュが始まる

先駆的な取り組みを進めた甲武鉄道だったが、鉄道国有化政策により1906年10月に政府に買収され、官設鉄道(国鉄)中央線となる。また品川線を運行していた日本鉄道も同年11月に買収され、1909年の池袋―田端間開業と同時に山手線の名称が与えられた。

さらに同年12月には山手線でも電車運転が始まり、新宿駅は中央線と山手線が交差する唯一の電車ターミナルとなった。1909年の新宿駅の1日平均乗降人員は7000人を超えており、開業から24年で乗客数が100倍になった計算だ。

1910年に大蔵省専売局の煙草工場が新宿駅西口に移転すると、夕暮れ時に白いエプロン姿の女工たちが三々五々、駅に向かうようになった。これが新宿駅のラッシュアワーのはしりと言われる。また明治末には男性客が電車通学する女学生にちょっかいを出すことが問題視され、日本初の「女性専用車両」が導入されている。

■郊外移住が進み、通勤客が1日約3万人に

大正時代に入ると新宿駅の利用者は本格的に増加を始める。1914年に東京駅が開業すると、中央線は1919年に東京駅に乗り入れる。中央線は名実ともに都心直通路線となった。開業当初の中央線、山手線は朝も昼も同じ間隔で運行されていたが、大正半ばごろから朝を中心に混雑時間帯の運行本数を増やすようになった。朝ラッシュの誕生である。

利用者が急激に増えた背景には、都心の人口密集と生活環境の悪化から逃れるため郊外に転居する「郊外化」があった。移住先には都心に直通して便利な中央線や山手線の沿線が選ばれたことから、1922年には新宿駅の1日平均乗降人員は約3万人まで増加した。

その流れを加速させたのが1923年に発生した関東大震災であった。震災を契機に安全な郊外に移り住む人が増加し、市街地は山手線を越えて広がった。この結果、大正半ばには2両編成で運行されていた中央線、山手線が大正末には5両編成に増強されている。

震災は新宿駅も直撃した。当時、それまで甲州街道側にあった駅舎を青梅街道側に移設する工事を行っていたが、震災により建設中の駅舎が大破。その教訓をふまえて設計を変更したため、完成は1925年にずれ込んだ。

■当時の新聞は「死物ぐるいの新宿駅」と紹介

工事完成までの間、一部の通路が閉鎖されるなどしたため新宿駅の混雑はすさまじかったようだ。1924年11月27日付読売新聞に「プラットホームが変わって死物ぐるいの新宿駅」と題した記事が載っている。この中で新宿駅長は「地下道の出入口を一定し色分けのラインを引いてマゴツカない様にしたいと考えている」と語っており、今も昔も変わらない混雑対策の苦労を感じさせる。

新たな新宿駅はどのようなものだったのか。1925年3月24日付読売新聞は「中央山の手の電車ホームと中央線の汽車ホーム、それに貨物線のホームを合し四本のプラットホームが並び、何(いず)れも一端は跨線橋に他の一端は地下道へ続き三カ所の停車場出入口に連絡し、各プラットホームの中央にエレベーターがあり、地下貨物専用道と上下の運搬ができる様になっている」と解説している。

跨線橋につながる出口は現在の南口、地下道につながる出口が現在の東口と西口だ。つまり地下道とは現在も西口と東口を結んでいる東西自由通路(旧北通路)である。

大正14年に落成した新宿駅本屋正面(現在の東口駅舎付近)『新宿駅100年のあゆみ』(弘済出版社)より 

■今の新宿駅の原型ができたのは1925年

一方「地下貨物専用道」は、文字通り貨物を運ぶための業務用の通路だったが、新宿駅の混雑が激しくなり、北通路を通り抜けるだけで5〜6分かかるような状況となったことから1933年に旅客用に転用された。終戦間もない1947年には小田急線との連絡改札を設置。1958年には中央東口が開設された。これが現在の中央地下通路である。

どちらもその後、幾度の拡幅工事が行われており当時の姿のままではないが、新宿駅の原型は1925年の駅舎建て替え工事によって作られたことが分かるだろう。

とはいえこの頃の新宿駅は「交通地獄」と呼ばれるほど混雑していたものの、そこまで複雑な構造ではなかったので、駅で迷うといった評判はなかったようだ。新宿駅の複雑化は高度経済成長期の利用者の爆発的増加と、それに対応した新路線の開業により加速していく。

筆者撮影
新宿駅に停車する中央線の快速列車 - 筆者撮影

■1日平均乗降人員は開業から80年で1万倍に

新宿駅複雑化の第一段階として駅の立体化が挙げられる。まず1959年に開業したのが地下鉄丸ノ内線だ。地下鉄開通とともに新宿駅から新宿三丁目駅まで約550mの自由通路「メトロプロムナード」が完成し、改札外の地下道で駅の東西が結ばれた。また国鉄は1961年、東口駅舎の建て替えに着手し、地下3階、地上8階の駅ビルとして1964年に開業した。これが現在も使われている4代目駅舎である。

西口の変化はさらに目まぐるしかった。新宿駅の西口には明治時代に設置された淀橋浄水場があったが、これを移転して跡地を開発する「新宿副都心計画」が1960年に都市計画決定されたことで開発は加速していく。

京王は1963年に駅を地下化し、小田急も1964年に地下ホームを新設すると、同年に京王百貨店が、1967年には小田急百貨店が開業。またこれらを結ぶ「新宿西口立体広場」が1966年に完成したことで、現在の西口の風景が形作られた。

新宿西口立体広場『新宿駅100年のあゆみ』(弘済出版社)より

時は高度経済成長まっただ中。新宿駅の1日平均乗降人員は1955年の約31万人から1965年は約78万人までに膨れ上がり、10年で倍以上に増加した(開業から80年で1万倍である!)。そうなれば混雑が激化するのは必然で、朝ラッシュ時間帯の乗車率は300%に達していた。

■窓ガラスが毎日100枚近く割れるほど

ついに1961年1月には、中央線で連日朝ラッシュ時間帯に大幅な遅延が発生し、大混乱を招いた。満員電車に乗り切れない人が続出し、それでも無理やり乗り込もうとする人で停車時間が長引き、1駅に10〜15分停車する列車も出るありさまだった。

多くの通勤客でごった返すホームの様子『新宿駅100年のあゆみ』(弘済出版社)より

例えば、同年1月20日の中央線では、ラッシュ時間帯は本来2分間隔運転であるところ、ピーク30分間に東京駅に到着した列車はわずか5本。さらに激しい混雑によって電車の窓ガラスが毎日100枚近く割れて、負傷者も発生した。

1964年11月には就任したばかりの佐藤栄作首相が新宿駅を訪問し、朝のラッシュを視察した。佐藤が元鉄道官僚であったことを差し引いたとしても、新宿駅の混雑は国家レベルの大問題となっていたのである。この後、1960年代後半から1970年代にかけて国鉄は通勤路線の輸送力増強に4000億円以上を投じ、混雑は改善傾向に向かった。

次の変化は駅の面的な拡大であった。1975年にメトロプロムナードと西武新宿駅につながる「新宿サブナード」が接続され、新宿駅と西武新宿駅が地下道で直結された。1978年に甲州街道の地下を通る京王新線が開業すると、1980年に都営地下鉄との直通運転を開始する。

■埼京線、新南口の開設で構内はより複雑に

両線が発着する新線新宿駅は1976年に京王が開設した地下街「京王モール」を介して新宿駅西口地下と連絡したことで、新線新宿駅と西武新宿駅は約1.3kmもの地下道で結ばれる「乗換駅」となった。なお、厳密には連絡運輸が行われる乗換駅ではなく、単に乗り換られる駅である。両線を地下で乗り継ぐのであれば15分以上かかるので、地上を歩いたほうが早い。

1980年代に入ると新宿駅は「南進」を始める。1984年に開業以来続いた貨物の取り扱いが終了。貨物列車が走っていた(厳密には現在も一部運転している)線路を転用して開業したのが、1986年に新宿駅まで延伸した埼京線である。

新宿駅を通る国鉄の路線は1889年以来、基本的には中央線と山手線しかなかったので、約100年ぶりの新線開業ということになる。しかし、埼京線ホームは用地の関係から中央線、山手線ホームよりも南寄りに位置したため、他の路線とは異なり北通路には階段が設置されなかった。

その後、1991年の埼京線ホーム増設に合わせて、甲州街道を挟んで南口と反対側に新南口が新設され、新宿駅は渋谷区に「進出」する。新宿駅ホーム南端と北端は直線距離で600m以上におよぶ一方で、5番、6番線ホームの南端と隣の代々木駅のホーム北端はわずか100mしか離れていない。

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■乗り換え口は見当たらず、仮囲いで道に迷う…

2006年には、それまで新南口とつながっていなかった山手線、中央線ホームとも接続されるなど、JR新宿駅の重心がどんどん南に寄ってきている。一方で、新南口は他の私鉄・地下鉄と接続していないため、何となく階段を上ったら乗り換え口がなかったという人もいるかもしれない。

もうひとつ新宿駅を複雑化させたのが、1999年から2012年にかけて行われた新宿駅を跨(また)ぐ甲州街道の橋梁架け替え工事である。工事に合わせてJR各線の配線変更とホームの新設、移設が行われ、その後に行われた駅構内の拡幅工事を含めれば、ここ20年ずっと何かしらの工事が行われていたことになる。

そのためこの間は新宿駅構内の乗換通路が頻繁に変更となり、また仮囲いが設置されて景色が変わってしまうなど、利用者を多いに悩ませることとなった。新宿駅は分かりづらいと思っている人の多くは、日々変化する新宿駅で迷ったトラウマがあるからだろう。

工事の過程では、案内・警備を担当した三和警備保障に所属する佐藤修悦さんが、仮囲いにガムテープを貼って独自の案内を展開。独特なフォントが「修悦体」として話題になったことも、新宿駅工事が生み出した副産物のひとつと言えるかもしれない。

筆者提供
独特なフォントが話題を呼んだ「修悦体」の案内=新宿駅前 - 筆者提供

■街を変え、人を呼び込む”未完成”の駅

そして最後に、新宿駅をある意味では一番ややこしくしたかもしれないのが大江戸線の開業である。大江戸線は1997年に新宿駅まで到達し、2000年に環状部が開通し全線開業を果たした。1997年に開業したのが新宿駅、2000年に開業したのが新宿西口駅だ。新宿駅は都営新宿線の新線新宿駅と連絡しており、新宿西口駅は丸ノ内線新宿駅と連絡している。

JR新宿駅の「新」と「宿」の間の破線は上下で乗換駅の関係が分かれていることを意味している

東京メトロと都営地下鉄を利用すると運賃が70円割引されるが、大江戸線新宿駅と丸ノ内線新宿駅間では適用されない。また新宿駅から飯田橋方面に、新宿西口から六本木方面を利用する場合は、都庁前駅で乗り換える必要がある。そのため利用する方向によって新宿駅と新宿西口駅を使い分ける必要がある。

なぜこのようなややこしい構造になったのか。山手線のような環状線にする案もあったが、新宿駅西口にはそれを収容できるスペースがないため、やむなく都庁前で接続する“6”の字型の路線になったようだ。

新宿駅の140年近い歴史を振り返ってみると、内藤新宿のはずれに置かれた田舎駅であった新宿駅が、鉄道開通によって人が集まり街となり、街の成長が新たな人を呼び込んだというダイナミズムを見ることができる。その変化は新宿という街が変わり続ける限り止まることはないだろう。

だが冒頭に記した通り、新宿駅はこれまでのような拡大一辺倒を改め、使いやすさを追求する方針に転換されつつある。2025年に新宿駅は開業150周年を迎えるが、計画中の改良工事の完成は早くて2035年、開業160周年の年になる。もっとも、新宿駅が「完成」を迎えるころには新たな工事が始まっているのだろう。

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枝久保 達也(えだくぼ・たつや)
鉄道ジャーナリスト・都市交通史研究家
1982年生まれ。東京メトロ勤務を経て2017年に独立。各種メディアでの執筆の他、江東区・江戸川区を走った幻の電車「城東電気軌道」の研究や、東京の都市交通史を中心としたブログ「Rail to Utopia」で活動中。鉄道史学会所属。
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(鉄道ジャーナリスト・都市交通史研究家 枝久保 達也)