青森県東半分から岩手県中部にわたる地域は、通称「南部」と呼ばれている。

日本地図を指さしながら、東北地方の、その中でも北側に位置するこのエリアを「南部」と言い切るには、多少勇気がいるかもしれない。

でも、れっきとした「南部」地方である。

2021年2月4日、次のようなツイートが投稿され、話題となっている。

日本列島の中で、ずいぶん北の方で赤く色分けされているあたりが、「南部」地方だ。

「日本において『南部』がこの地域と通じるの外国人には意味わからん気がする」というコメントも添えられている。「ひばり≒かおる」(@Alouette516)さんが投稿したこのツイートには、1万2000件の「いいね」が付けられ、今も拡散中だ(2月5日夕現在)。

たしかに、思わずクスッとするツイートだ。

岩手県民ならご承知のはずだが、「南部」とはこの地域を長期間治めていた領主・南部氏のことで、方角を示す「南部」のことではない。

......とはいうものの、事情を知らない他県民は、なぜ「南部」なの?と不思議に思うこともあるだろう。

ましてや外国人には「意味わからん気がする」のは当然かもしれない。

いったいなぜ、こんなツイートをしたのか?

Jタウンネット記者は、投稿者の「ひばり≒かおる」さんに真意を聞いてみた。

こんなに北なのに「南部」なのか?


ひばり≒かおる(@Alouette516)さんのツイートより

「ひばり≒かおる」さんは岩手県出身なのだろうか?

「生まれも育ちも愛知県で、東北地方や山梨県には行ったことがないです(笑)。
数年前に朝ドラ『あまちゃん』の中で歌われていた『南部ダイバー』という歌をきっかけに南部という地域を知りました。
当時は小学生だったので特別なんとも思わなかったのですが、先日旅行先として震災から10年となる東北を考えていた時、南部という地名を久しぶりに目にして、改めて、こんなに北なのに『南部』なのかと再認識しました」

「ひばり≒かおる」さんは、「単純に面白いと思ったという感じですね(笑)」と正直に語った。ところが......

「ツイートを目にした多くの方が甲斐国(山梨県)に(「南部」の)ルーツがあるとご教示くださいました。甲斐から遠く離れた東北の地で独自の文化を発展させた歴史に興味が湧きました」

と告白する。つまり奥州の豪族・南部氏のルーツは、甲斐巨摩郡富士川西岸の南部郷、現在の山梨県南巨摩郡南部町ということだ。

今から830年ほど前の1189年、源頼朝の奥州平泉攻撃に従った南部光行(なんぶ・みつゆき)は、藤原泰衡軍との合戦で功を立て、陸奥国糠部五郡(現在の岩手県から青森県)に、土地を与えられたと伝えられている。彼が、初代南部氏だ。

ちなみに南部光行は、平安時代後期、東北の地で起きた前九年合戦、後三年の合戦を戦った清和源氏の流れを汲むとされている。

東北地方の一角が「南部」と呼ばれるのには、800年以上の長い歴史があったというわけだ。なお鎌倉時代から明治維新まで同じ所領に居続けることができたのは、南部氏の他には薩摩の島津氏などごく少数だという。

「ひばり≒かおる」さんは、「南部」の歴史に興味が湧いてきたようだが、

「みなさんの反応を見ると南部をめぐってはその範囲に関して諸説あるようで、下北は南部ではないといった指摘もありました(笑)。
地元の方々にとっては大切なアイデンティティなんだなぁと知りました」

とも語っている。

青森県・青森県観光連盟が運営するウェブサイト「青森教育旅行ガイド」によると、青森県は江戸時代に津軽氏が治めた「津軽地方」と、南部氏が治めた「南部地方」の2つに大別できる。

下北半島はこの二分では南部に含まれるが、県の地域県民局による区分では「下北地域」と呼ばれており、下北以南の南部地方とは気候や風土も異なるため、下北地域に住む人々にとっては「下北は南部じゃない」という思いが強いのかもしれない。

なお、「ひばり≒かおる」さんの地図では塗られていないが、秋田県の鹿角市も「南部」に含まれる。

北にあっても「南部」の訳は、予想以上に深いのだ。