戦場で生まれた絆!奥州征伐で抜け駆けした鎌倉武士の縁談エピソード【下】

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これまでのあらすじ

戦場で生まれた絆!奥州征伐で抜け駆けした鎌倉武士の縁談エピソード【中】

時は平安末期の文治五1189年、源頼朝(よりとも)公が奥州の藤原泰衡(ふじわらの やすひら。奥州藤原氏)を征伐するべく兵を挙げました(奥州征伐)。

8月9日の夜、手柄を求めて抜け駆けした三浦平六義村(みうらの へいろくよしむら)たち七人の中に、工藤小次郎行光(くどうの こじろうゆきみつ)と藤澤次郎清近(ふじさわの じろうきよちか)も加わっており、いよいよ敵陣に殴り込みます。

大乱戦の中、敵の大将・伴藤八(ともの とうはち)に弟分として可愛がっていた狩野五郎親光(かのうの ごろうちかみつ)を殺された行光は、怒り狂って藤八を討ち取ると敵陣はより一層の大混乱に。

「まずはこれくらいで良かろう」と義村が引き上げを号令、とりあえず行光も敵陣から脱出したのでした……。

戦友・藤澤次郎清近の窮地を助ける

さて、朝霧の中を進んでいた行光ですが、その前方で取っ組み合いの格闘をしている二人の武士がいました。

「へぇ、おまんとうぁ何やってるでぇ?(お前たちは何をしているのか)」

どう見ても殺し合いなのは一目瞭然ですが、とりあえず誰かを確認したかったようです。切羽詰まった声が答えるには、

清近、絶体絶命のピンチ!(イメージ)。

「そん声は小次郎け(その声は小次郎か)!俺だ、次郎だ、藤澤次郎だ!」

……と言うことは、戦っているのは奥州勢(清近の声を聞いて手を緩めないため、少なくとも味方ではない)。誰であろうと、とりあえず殺しておいて損はなさそうです。

「ほうけ次郎け、今行かだぁ(そうか次郎か、今行くぞ)!」

かくして二人がかりでその敵を殺し(卑怯?知るもんですか。どんな手を使って何人がかりだろうが、とかく戦は勝ってこそ、生き延びてこそ)、首級は清近にやりました。行光には、既に伴藤八の大将首がありましたから。

「あぁ助かったわい……小次郎よ、此度は命ばかりか手柄まで……誠に忝(かたじけね)ぇ」

「あにょう(何を)他人行儀なこん(事を)。いいさよー、俺とお前の仲じゃんねー」

とりあえず敵がやって来ない、安全な所まで引き上げてきた二人は、馬の鞍にぶら下げた斬(と)りたて新鮮な生首から流れる血の滴を眺めつつ、互いの無事を喜びました。

「……しかし、五郎は可哀想じゃったのう……」

「まぁ、しょうがないじゃんね。それが戦っちゅもんだ(戦というものだ)……」

かつて一念発起して甲州・信州の地から頼朝公の挙兵に馳せ参じて以来、共に修羅場を潜り抜けて来た戦友が、大切にしていた弟分を失った哀しみを、清近は痛感していました。

知らぬは本人たちばかり……遠く奥州で決まった縁談

そこで清近は提案します。

「ほうじゃ……ウチに娘がおるんじゃが、小次郎ンとこのご嫡男……太郎君(たろうぎみ。後に元服して長光)のおかっさん(嫁)にどうでぇ?」

「いいんけ?あンずでぇおじょうもん(いいのか?あのとても美しいお嬢さんを)」

「いいさよー。太郎君は男前で文武両道と来りゃあ、お似合いじゃんねー」

……いやいや「いいさよー」じゃないよ、いくら親の都合とは言え、せめて事前に打診くらいしてやんなさいよ、とツッコミを入れたくもなりますが、命を救われた恩義と、弟分を失った戦友の哀しみを前に、清近は愛娘を差し出さずにはいられなかったのでした。

二人の友情を見守っていた?生首たち(イメージ)。

そんな二人の美しい友情を見ていたのは、風に揺れる敵将の生首二つ。彼らも遠く甲州と信州の地で、知らぬ間に結婚が決まった(面識があるかどうかも怪しい)若い二人を祝福してくれているのでしょうか。

やがて、はぐれていた義村たちが合流。今回の殴り込みで討死したのは狩野五郎親光ひとり、奪った首級は葛西三郎清重(かさいの さぶろうきよしげ)と河村千鶴丸(かわむらの せんつるまる。後に元服して四郎秀清)がいくつか。他の者は敵を倒したものの首級を奪う余裕がなく、すべて打ち捨ててきたそうです。

今回の戦功によって行光は奥州岩手郡厨川(現:岩手県盛岡市)に領地を賜り、その後、嫡男の工藤長光が妻(清近の娘)たちと共に厨川へ移住。奥州の有力武士として、末永く繁栄したのでした。

ひょんなことから結ばれた縁談でしたが、共に戦場を潜り抜けた父親同士の絆に思いを馳せ、きっと深い愛情を育み合ったことでしょう。

【完】

※参考文献:
貴志正造 訳注『新版 全訳 吾妻鏡 第二巻 自巻第八 至巻十六』新人物往来社、2011年11月30日
細川重男『頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉』洋泉社、2012年8月20日