<砂川啓介さん死去>葬儀欠席の大山のぶ代、通夜前日に棺の中で眠る夫と対面
さぞ無念だっただろう。「妻より先に死ぬわけにはいかない」と言い続けていた、砂川啓介さんが亡くなった。
「砂川さんは'13年に胃がんの摘出手術を受け、昨年、尿管がんが発覚してからは入退院を繰り返していました。6月13日に自宅で倒れて緊急入院し、一進一退だった病状が7月11日に急変。知らせを受けた親族とマネージャーが病院に向かいましたが、間に合いませんでした」(スポーツ紙記者)
こんなに早く亡くなるなんて……
砂川さんはNHKの子ども向け番組『うたのえほん』の初代“体操のおにいさん”で親しまれ、その後は俳優やワイドショーの司会者としても活躍。ミュージカルで共演した大山のぶ代と'64年に結婚、ふたりは“おしどり夫婦”としても有名だった。
30年以上、苦楽をともにしてきたマネージャーの小林明子氏に話を聞いてみると、
「尿管がんの治療は続けていたんですが、抗がん剤の投与は抑えていたんですよ。副作用に苦しんでいましたから、体調が悪いときはやりたくなかったんでしょうね。5月に入院してから、日常でも酸素ボンベが必要になりました。13日に倒れたときはボンベがはずれていたんですよ」
胃を摘出してからはものを食べられなくなり、体重が減って体力もなくなっていたのは確かだった。
「でも、まさかこんなに早く亡くなるなんて思っていませんでした。本人だって先に死ねないっていつも言っていたわけですから、こんなに早く逝くとは思っていなかったと思いますよ」(小林氏)
ただ、砂川さんは自分でも気づかぬうちに何かを感じていたのかもしれない。入院したときに、小林氏にこう言葉をかけていたという。
「“すまないな。頼むよ”と言われたんです。いつものことなので特に気にしてはいませんでしたが、何を“頼む”のかよくわかりませんでした。今、入院していることなのか、大山のことなのか、これからのことなのか。いろいろ意味があったんでしょうけど、私は、“ハイ、大丈夫ですよ。わかりました”と気楽に答えていたんですよ」(小林氏)
やはり、認知症の妻、大山のぶ代のことが心配だったのだろう。小林氏は砂川さんが倒れた後は大山の世話を一手に引き受けており、彼は思いを託したのだ。
「'15年に砂川さんは大山さんが認知症だということを公表しました。昨今、認知症や老老介護が社会問題になっていたこともあり砂川さんの介護生活に注目が集まりましたね」(前出・スポーツ紙記者)
認知症を公表した後に出版した著書『娘になった妻、のぶ代へ』(双葉社) には、介護と闘病の生々しい現実が詳しく記されている。今年5月に文庫本として再出版された際には、サブタイトルにあるように『大山のぶ代「認知症」介護日記』がつけ足された。
砂川さんの死が突然だったため、今後についてはっきりとした指示を残す余裕はなかった。だから、この日記に記されていることこそが、妻にあてたメッセージだと思えてならない。
飾らない言葉で妻への深い愛情
《昔から、日々の出来事や考えを取り留めもなくノートに書き綴っている。日記というほど毎日つけているわけでもなく、日付を入れているわけでもない》
形式ばった文章ではないことが、むしろ真情を伝えることにつながっている。
《今のお前は新婚に近い状態に戻っている。お前はそれでいいのだがオレはそのまま付き合っていたんじゃ、たまらんよ》
《やっぱりペコ(大山のぶ代)が好き》
《一番愛し、一番多く一緒にいた奴は、お前だ オレが死ぬ時、「お前と人生を共有出来て良かった」といって死にたいから、これからもお前はオレにとって良い奴でいてくれ》
ストレートな気持ちが、そのまま文章になっている。飾らない言葉なのに、妻に対する深い愛情が痛いほどにじみ出ているのだ。
本をプロデュースした双葉社編集局部長の渡辺拓滋氏は、砂川さんの伝えたかったことに気づいていた。
「残したものといえるのは特にないと思いますが、毎日つけていたメモというかノートに書いた走り書きなんですけど、ラブレターみたいな感覚で書いていたんだと思います。本の最後に書かれているのは今回、オリジナルで書かれたもので彼女に対する思いがよく伝わりますよね」
渡辺氏が感銘を受けた文章がある。
《でもね、ペコ。僕は必ず生き続けてみせるよ。決してペコより先に死んだりしない。だって、君が大好きな我が家で、また二人、笑い合いたいから。その日を、僕はこの家で、ずっとずっと待っているよ。君が愛したドラえもんたちと一緒に―》
砂川さんが妻を愛したという確かな記録には、どんな言葉でも表現することのできない真実が秘められている。わが家でまた一緒に暮らすという夢は叶わなかった。それでも、彼が全力を尽くしたことは、意味があった。60年来の友人・毒蝮三太夫は、砂川さんの努力をねぎらう。
「やっとつらい介護と闘病から解放されたんだと思うけど、よくここまでやったよ。俺にはとてもできないことだよ。仕事をほっぽりだして介護の毎日で、大山のぶ代のことを本当に大事にしていたんだ。でも、これは今の日本の高齢化社会の縮図みたいな話でね、これから先、年寄りはどうやって生きていかねばならないかという問題を突きつけられた気がするね」
毒蝮が最後に砂川さんに会ったのは、亡くなる1週間前のことだった。
「病院にお見舞いに行ったんだけど、彼はほとんど眠っていて話はできなかったんだよ。彼の人生は、病気になってからもそうだけど、結婚してからずっと大山のぶ代に献身的に尽くした一生だったと思うよ。本人は妻より先に亡くなってしまったことが悔しいと思うけど、俺は彼が最後まで“大山のぶ代の夫”とだけしか見られていなかったことが悔しいね。砂川啓介としての大きな仕事をしてもらいたかったよ。本人はそんなこと言わなかったけど、それも悔しかったんじゃないかな」
通夜前日の15日、大山は棺に眠る砂川さんと対面した。
「棺のそばに行くと、“お父さん……”と言って涙ぐんでいました。でも、すぐに出口のほうに向かって歩いていったんですよ。私が、帰るの? って聞いたら“帰る”って言うから、そのまま帰ったんですけどね」(小林氏)
この一瞬だけ、愛する夫との思い出がよみがえったのだろうか。大山は通夜と告別式には体調不良で参列していない。そしていま、彼女は老人養護施設で暮らしている。
「施設に入ってもう1年3か月になりますから、生活にも慣れました。ご飯もちゃんと食べていますし、家にいるときよりも元気になっていますよ」(小林氏)
妻が心安らかに暮らすことを願って、砂川さんは静かに旅立っていった。