子を産み、子を育て、家を守る。

昔からあるべき女性の姿とされてきた、“良妻賢母”。

しかしその価値観は、現代においてはもう古い。

結婚して子どもを産んでも、男性と同等に働く女性が増えた今こそ、良妻賢母の定義を見直す時だ。

家庭も、仕事も、子育ても、完璧を目指すことで苦しむ東京マザーたちが模索する、“現代の良妻賢母”とは、果たしてどんな姿だろうか。




「あー、緊張する」

佳乃が、朝8時半の市ヶ谷に来るのは約1年ぶりだ。

毎日ここに通っていた当時の佳乃は大きく膨らんだお腹を抱えていたが、今ではすっきり身軽な身体に戻った。

5cm以上のヒールも履けるし、マスクだって着けなくていい。

今日は、育休明け最初の出社だ。復職に向けて、エストネーションで数枚買いこんだ洋服の中から、シンプルなベージュ色のワンピースを選んだ。

鏡の前で、何度も夫の紀之に「大丈夫かな」と確認したが、やはりイマイチ自信が持てない。

仕事への復職は、楽しみだった。まだ柔らかい髪の毛の間から、ミルクのような、ヨーグルトのような、赤ちゃん独特の匂いを放つあかりと一緒に過ごす時間は、もちろん何よりも愛おしい。

だが、社会の一員として育休前と同じように責任ある仕事を続けたいという思いも強い。

ただひとつ、佳乃が頭を抱えていることがある。

時短勤務とゆり子の存在だ。


復職初日、佳乃を待ち受けていたものは?


佳乃が勤めるのは、市ヶ谷にあるレコード会社。7年前、現在34歳の佳乃が27歳だった時に転職して入った会社で、現在はコンサート関連のグッズを制作する部署に所属している。

今の会社で夫・紀之と出会い、社内恋愛を経て結婚した。紀之は現在、同じビルの違うフロアにある営業部にいる。

社内恋愛も、育休も時短勤務も、そう珍しいことではない。

ただ、時短勤務については色んな人から話を聞いていた。だから余計に佳乃は不安になるのだ。

時短勤務をしていた人、時短勤務の人と同じ部署にいた人、双方から聞くのはどれも、えげつない愚痴が多かった。

だから、自分がその立場になってしまったことに、不安を感じずにはいられなかった。さらに、佳乃が復職する部署では、ゆり子が待ち構えているのだ。

―どんな意地悪をされるかわからない……。

大げさでなく、佳乃は真剣に対策を考えねばと思っていた。




「おはようございます!」

人事部に寄って書類をいくつか提出したあと自分のデスクに行くと、佳乃は元気に挨拶した。

「あ、佳乃さん待ってましたー」
「お子さん産んでも、相変わらずお綺麗ですね〜」

フレックスタイムが導入されているため、出社しているメンバーはまだ少なかったが、皆笑顔で佳乃を迎え入れてくれた。

後輩たちのお世辞にも丁寧に礼を述べ、自分のデスクへ荷物をおろす。気持ちを引き締めるため、復職に合わせて買ったセリーヌのラゲージ ファントムだ。

バッグの端からは、保育園には預けられない、あかりのお気に入りのタオルが見えて少しだけ心が和む。

約1年ぶりの自分のデスク。誰かが綺麗に拭いてくれたのだろう、デスクにもパソコンにもホコリもなくとても綺麗だ。

「佳乃さん。あかりちゃん、でしたっけ?保育園大丈夫でした?」

パソコンの電源を入れていると、後輩の希に声を掛けられた。入社当時から佳乃が可愛がっている後輩だ。

「大丈夫じゃないわ。ならし保育をしてたとはいえ、やっぱり泣いちゃうよね。でも私、ほかのお母さんみたいに後ろ髪を引かれるような思いも、一緒に泣いちゃったりもしないのよね」

「あはは、さすが佳乃さん」

すらりと長い手足を持つ希は、まだ4月下旬だというのにすでにノースリーブのワンピースを着ている。

「何かあれば言ってくださいね。近いうちにぜひ、ランチにも行きたいです」

そう言ってカツカツとヒールをならしながら、ふわりと甘い匂いだけを残して去った。


佳乃の頭を悩ませる女性・ゆり子が登場。



佳乃が、産休に入る前と同じ部署に戻れたのは、この会社では珍しい方だった。育休から復職し時短勤務になると、会社からは“戦力外”とみなされてしまい、それまで通りの部署には戻れないケースも少なくない。

時短勤務とは、子どもが3歳になるまで原則1日6時間の短時間勤務をすることができる制度で、育児・介護休業法の「短時間勤務制度」に定められている。

勤務時間が減れば、収入も当然減る。佳乃の会社では、6時間の時短勤務にすると給料とボーナスは約25%がカットされる。

佳乃が住む目黒区は保育園激戦区のひとつであり、共働きで夫婦それぞれの実家が遠方であっても認可保育園には入れられなかった。

認可保育のキャンセル待ちに名前を並べながら、今は認可外にあかりを預けている。そのため、保育料も馬鹿にならない。

給料が減った上に、高い保育料。下手したらマイナスになることもあると聞く。

それでも、手にしているやりがいのある仕事を、そう簡単に手放すつもりはない。

もともと完璧主義の佳乃は、仕事も家事も育児も、妥協せずに完璧にこなすつもりだ。母として、妻として、女として、どれひとつ手抜きするつもりはない。

「時短勤務だから」と気を遣われるのも嫌だし、同僚に迷惑をかけないよう精一杯頑張るつもりだ。

時短勤務を良く思わない人たちがいるのも十分わかっている。だからこそ余計に、佳乃は自分を奮い立たせた。

デスクの上の整理を終えると、メールチェックを始めた。数日前からのメールが溜まっており、受信トレイには200件以上が未読として表示されている。

それはうんざりするような数であるが、佳乃の勤務時間は限られており、1分1秒が惜しい。早く感覚を取り戻したい気持ちもあり、片っぱしからメールを開く。

未読のメールを半分ほど確認した時、遠くから耳に響く甲高い声が聞こえた。

「佳乃さ〜ん、おかえりー!」

その声を聞いて、佳乃はとっさに身構えた。間違いなくそれは、ゆり子の声だからだ。




急いで立ち上がり、派手なワンピースを着ているゆり子に頭を下げた。

「ゆり子さん、ご迷惑をおかけしました。本日からまた、よろしくお願いします」

「はーい、よろしくね。佳乃さん、そのまま辞めちゃうんじゃないかと思ったけど、戻ってきてくれて嬉しいわ〜。あ、でも時短だっけ?大変だと思うけどフォローはするから頑張ってね」

言いながらゆり子は、佳乃のデスクにあるセリーヌのバッグをすかさずチェックした。

―フォローするって言いながら、助けてもらったことは一度もありませんけど……。

心の中で、小さく悪態をつく。

「佳乃さん、さっそくだけどミーティングできる?」

そう言われてミーティングスペースへ行き、しばらく雑談した後「じゃあ、これやっておいてくれる?」と言って渡されたのは、各担当者から上がってきた資料をひとつにまとめる作業だった。今までは派遣の女性にお願いしていたような仕事だ。

「え、これを私がやるんですか?」

佳乃が聞くと、ゆり子はにこりとして言った。

「だって、時短だから。今までと同じ仕事はお願いできないでしょ?じゃあ、よろしくね」

それだけ言うと、きつい香水の匂いを振りまきながら、さっさと自分のデスクに戻ってしまった。

ゆり子からの嫌がらせは想定してはいたが、あまりに当然のようにそれをしてくる彼女に、呆れながらもやはり、憤りを感じずにはいられなかった。

▶NEXT:4月27日 木曜更新予定
ゆり子が嫌がらせをしてくる理由と、佳乃との関係とは?