トルコのシンボル、イスタンブールのブルーモスク(スルタンアフメト・モスク)  (Photo:©Alt Invest Com)

写真拡大

 トルコでは、クーデター未遂事件の「主犯」とされたギュレン運動支持者の粛清が進んでいる。だがそもそも日本では、「ギュレン運動とは何か?」という基本的なことを誰も説明してくれないので、日々の報道に接しても「トルコでなにか大変なことが起きている」ということしかわからない。そこで前回は、トルコ近代史を専門にする新井政美氏の『イスラムと近代化』(講談社選書メチエ)に依拠しながら、ギュレン運動が「トルコのイスラーム」であることを見てきた。

トルコには3つイスラームがある

「イスラームはひとつのウンマ(共同体)」というのが原理主義的な立場だが、トルコのひとたちからすると、実は3つのイスラームがある。アラブのイスラーム、イランのイスラーム、そしてトルコのイスラームだ。

 ムハンマドがアラビア語で神の言葉(クルアーン)を語ったように、アラブ起源のイスラームの宗教的伝統はトルコでも尊重されている。だがその一方で、昨今ではIS(イスラム国)のテロやイラク、シリアの国家崩壊をはじめとして、あらゆる暴力と混沌はアラブからやってくる。それを目の当たりのしたトルコのひとびとが、「自分たちはあいつらとはちがう」と考えるようになるのは自然だ。

 1979年に隣国イランの王政(パフラヴィー朝)が崩壊し、法学者ホメイニーが指導しシャリーア(イスラーム法)を国法とするイスラーム国家が誕生した。これが世界に衝撃を与えたイラン革命だが、その影響はトルコにおいてより大きかった。その後、イランが「神政国家」化し、核開発疑惑で欧米からきびしい経済制裁を課され、豊富なエネルギー資源を持ちながらも国民が窮屈で貧しい生活を送らざるを得ないのを見て、90年代のグローバル化で急速にゆたかになったトルコのひとたちは、保守的なムスリムも含め、「あんなふうになるのは真っ平だ」と思うようになった。

 こうして、“遅れた”アラブのイスラームでもなく、“カルト化した”イランのイスラームでもない、“開明的”で“世俗的”なトルコのイスラームという新しい宗教観が生まれてくる。それを実践するのがギュレン運動で、創始者であるフェトゥフッラ・ギュレンは、トルコ民族主義とイスラームを融合させただけでなく、“無尽蔵の知恵の源泉”であるクルアーンの「政治利用」はアッラーへの冒とくだとして、キリスト教の聖俗分離と同じ世俗主義を唱えた。

 ギュレンは自らの思想を広めるにあたって教育とメディアを重視し、トルコ各地に多数の高校、大学予備コース、7つの大学をつくり、テレビ局、ラジオ局、新聞社を次々と設立したが、その影響力の大きさはまず世俗派の軍部などに警戒され、ギュレン自身は1999年にアメリカへの亡命を余儀なくされた。その後、公正発展党を率いるエルドアンが権力を掌握すると、かつて盟友だった両者(エルドアンはギュレン運動の支援を受けて選挙に勝ち、首相在任中、米国のギュレンを訪問している)は急速に敵対関係に変わっていく。

 だがこれは、政治的なイデオロギー対立ではない。エルドアン自身がイスタンブールの導師・説教師養成学校高等部を卒業した敬虔なムスリムで、オスマン帝国(オスマントルコ)の栄光を担うトルコ民族主義者であり、かつデモクラシーの下で民衆の支持を権力の源泉とする(世俗主義の)ポピュリストでもあるからだ。ギュレンとエルドアンは支持層が完全に重なっており、用意された椅子はひとつしかないからこそ、徹底した粛清が引き起こされたのだろう。

「トルコのイスラーム」が生まれた背景

「トルコのイスラーム」という意識は、じつはオスマン帝国の崩壊と近代トルコの成立にまでさかのぼる。

 19世紀半ばに、「世界」の周縁で西欧起源の近代化の波をもろにかぶった異なる文化圏が3つあった。ロシア、トルコ(オスマン帝国)、そして日本だ。この三者はそれぞれ異なる仕方で「近代」に適応しようと苦闘したが、自分たちより“優れた”文明に出会ってアイデンティティが激しく動揺するという共通の体験をしてもいる。ロシアではこの「民族的アイデンティティの危機」が、トルストイやドストエフスキーなど19世紀末の文学として結実した。これが、日本人がロシア文学に魅かれる理由のひとつだろう。

 だがこの「民族的危機」は、オスマン帝国の中枢を占め、「イスラーム世界の守護者」を任じていたトルコ人においてもっとも深刻だったことは想像に難くない。トルコとヨーロッパは、日本はもちろんロシアに比べても地理的に近く、商業的・文化的交流の歴史も深く、「偉大なスルタン」の時代に威勢を誇ったオスマン帝国は、権力闘争と宗教戦争をえんえんと繰り返すヨーロッパをあらゆる領野で圧倒していたからだ。

 だがポルトガル、スペインから始まった大航海時代がインドとの交易やアメリカ大陸の銀鉱山から巨額の富をヨーロッパにもたらし、それがオランダ、イギリス、フランスなどに波及すると、ヨーロッパ諸国とオスマン帝国の力関係は急速に反転していく。その事実を認めることはプライドの高いトルコの知識人にとって屈辱以外のなにものでもなかったが、だからといって現実から目をそらすこともできなかった。こうして帝国末期からさまざまな改革運動が起こり、軍制改革や司法改革が(遅々としてではあれ)進められることになる。

 以下、新井政美氏の『イスラムと近代化』に拠りながら、トルコにおける近代化の歩みを見てみたい(論評部分は私見)。

 オスマン帝国が動揺する1860年代後半に、「新オスマン人」を名乗る新しいタイプの啓蒙運動家が登場する。彼らの多くは政府高官の子弟として育ち、そうでない者もフランスで教育を受けていた。

 彼らはヨーロッパの繁栄に驚嘆し、ロンドンを「世界の模範」と称賛し、ロマン主義小説に傾倒してオスマン・トルコ語で小説を書き、ロンドンで見た演劇に心を奪われて戯曲を発表した。言文一致運動など明治初期の知識人を彷彿とさせる彼ら「新オスマン人」の改革運動によって、オスマンは立憲政治の時代へと移っていく。

 だが新井氏は、これはたんなる欧化政策ではないという。明治維新とのちがいは、ヨーロッパに範をとったあらゆる改革でイスラームとの関係が問題にされたことだ。啓蒙主義者の「新オスマン人」もイスラームへの信頼はゆるぎなく、海外に亡命すると政府を「反イスラーム」として批判するようになる。彼らのアイデンティティの中核にはイスラームがあり、主流派(守旧派)から排除されたからこそ、自らが「イスラームの正統」であることを強調しなければならなかったのだ。

「新オスマン人」は政府の専横を抑えるために立憲議会制の導入を要求するが、彼らは民主政を西欧起源のものとは見なさなかった。イスラームはその最初から合議制をとっていて、議会はイスラームが本来もっていた制度であるというのが「新オスマン人」の考えだった。彼らはイスラームと西洋近代との対立を、「本来のイスラーム」という概念を持ち込むことで乗り越えようとしたのだ。

続きはこちら(ダイヤモンド・オンラインへの会員登録が必要な場合があります)