現地2月15日、アメリカにてメンフィス・オープンのシングルス決勝が行なわれ、錦織圭が今季ツアー初優勝を挙げた。世界ランキング5位という立場で挑み、メンフィス・オープンでも第1シード。いまや錦織は、誰も疑うことのないトップ選手のひとりだ。しかし7年前、錦織は世界ランキング200番台の無名選手だった。当時18歳の青年が初めてATPツアーを制したのが、今からちょうど7年前の2月17日――。その瞬間を現地で見ていたライターが、当時を振り返る。

 極寒の日本から約1万2000キロ離れたフロリダ半島のデルレイビーチでは、潮風を含んだ空気は身体に重くまとわりつき、激しい太陽の光が肌を刺す。その時、彼は突如、目の前に現れた栄光に慌てふためいたようにしゃがみ込み、日の光に輝く満面の笑みには、驚きと、かすかな狼狽の色が刺した。マイクを手にし、テレビと複数のカメラレンズを向けられたコートの中央に立つと、試合前に用意したスピーチの言葉は干上がって蒸発し、青空へと消えていった。

「テレビでしか見たことのない選手に勝てるなんて......信じられない」

 なんとか絞り出したその言葉は、心の中にあった未加工な想い、そのままだ。

 2008年2月17日――。錦織圭、18歳。

 ツアー初優勝の感激を饒舌(じょうぜつ)に語るには、彼はあまりに若く、その快挙が細胞の隅々まで喜びとして行き渡るには、あまりに突然すぎた。

 今から7年前の2月17日。世界ランキング244位の無名日本人をファイナリストとして迎えた「デルレイビーチ国際テニス選手権」の朝は、新しいことが起きそうな高揚感と、予期せぬ事態にみまわれた慌ただしさが混然となり、外気以上の熱気を生んでいた。アメリカ人が大半を占めるプレスルームでは、記者たちが18歳の新星――ケイ・ニシコリの情報を集め、プレイスタイルや生い立ちを論じることにやっきになっていた。

 地元紙の記者のひとりは、現地に駆けつけた日本人メディアの姿を見つけると、興奮した口調でまくし立てた。

「あのボーイは素晴らしいね! 昨日の準決勝で打ったジャンピングショットを見たかい? まるでマルセロ・リオス(※)だ」

※マルセロ・リオス=テニス選手としては小柄(175センチ)ながら、1998年に世界ランキング1位まで登りつめたチリ出身のサウスポー。現在39歳。

 錦織の素晴らしさをひと通り語り終えたアメリカ人記者は、「今日の決勝戦もケイが勝つかもね」と言って笑みを浮かべた。その決勝戦の相手とは、当時アメリカ・ナンバー2にして、世界ランキング12位のジェームズ・ブレーク。彼の嬉しそうな声を耳にした周囲の記者たちは、「おいおい、君はどの国の人間だよ」と明るい口調で同僚をいさめた。

 そして、迎えた決勝戦。第1セットをブレークが6−3で奪ったとき、客席の一角からは、「やっぱりダメかぁ」という日本語のつぶやきが漏れた。ブレークのファンで埋まったスタンドは余裕を覚え、小柄な18歳の背に同情的な声援を送り始める。

 予定調和な空気が流れ、安穏と過ぎていくフロリダの昼下がり――。しかし、この瞬間から、18歳の驚異的な逆襲が始まった。

 ブレークのショットが少しでも浅くなると見るや、身体ごとボールにぶつけるように踏み込んで飛び上がり、腕をしならせて鋭く振り抜く。すると、黄色いボールは潮風を切り裂き相手コートに突き刺さった。さらに、ブレークが強打を警戒して後ろに下がれば、柔らかく残酷なドロップショットをネット際に沈める。そして、錦織がドロップショットの構えを見せ、それを予測したブレークが対応すべく猛然とネットに駆け寄ると、さらにその裏をかき、咄嗟(とっさ)にフォアのスライスをストレートに流し込んだ。

 スローモーションのように自分の横をすり抜けるそのボールを、足を止め、成す術なく目で追う世界12位......。世界244位のプレイに多くの観客は言葉を失い、一部の純粋なテニスファン、もしくは日本人からは驚愕と興奮の歓声があがった。第2セットは、錦織がブレークを圧倒。6−1の一方的なスコアで奪った。

 スタンドを埋める日本人以外の観客は、この予想外の事態に態度を豹変させた。それまで錦織に向けられた優しい拍手は一転して、大会第1シード(ブレーク)への怒号に近い激励へと転化した。ブレークがポイントを取るごとに激しく手を叩き、叫び、金属製のスタンドを足でガンガンと踏み鳴らす地元ファン。若き挑戦者に向けられる、残酷なまでのアウェーの洗礼である。

 だがこのとき、錦織は周囲の喧騒とは無縁の空間に、ひとりいた。

「観客はあまり気にならなかったですね。本当に集中していたと思うので......。いつもは決まらないショットが入ったりして、すごく落ち着いていました」

 第3セットの第2ゲームでは相手にブレークポイントを握られるも、攻めを貫き、危機を切り抜ける。そして、3ゲームを終えてベンチに戻ったとき、ふと、勝利する自分の姿が脳裏に浮かんだという。

 次の瞬間、「あっ」と思わず我に返る。「勝ちを意識するなんて......これは絶対に負けるパターンだ」。経験に即した、そんな予感が胸をよぎった。しかし、この日ばかりは、不吉な予感は杞憂に終わる。

 試合開始から86分後、16年に及ぶデルレイビーチ国際の歴史において、大会最年少のチャンピオンが誕生した。それは、1998年1月にレイトン・ヒューイット(オーストラリア)が16歳10ヶ月でATPツアーを制して以降では、最も若いツアーチャンピオンが誕生した瞬間でもあった。

 試合後のプレスルームは、ちょっとしたお祭り騒ぎである。ただでさえ言葉少ない18歳のプロ1年生は、英語の矢継ぎ早な質問の集中砲火を浴びて、「信じられない」以外の言葉を探しだすのに苦労した。日本語の質疑応答に切り替わっても、その傾向に大差はない。ただ、「今回は大会を通して、ずっと強気でいられた」と不思議そうに振り返った。

 大会中は縁起をかついで家に電話をしなかった錦織は、優勝後に初めて、真冬の島根県松江市でパソコンにかじりついて試合を見ていたであろう、両親の声を聞いたという。

「おめでとう」

 優しい祝福の後には、父親から激励の言葉が続く。

「また来週から試合なんだから、ちゃんとストレッチをやっておくんだぞ、と言われました」

 18歳のツアー優勝者は、そう言って苦笑した。

 一方、「若きチャンピオン誕生の引き立て役」という損な役回りを引き受けることになったのは、28歳のブレークだ。だが、人格者で知られる男は、「彼は動きが速く、ボールをクリーンに打ち抜く能力が素晴らしい。今のトップ選手に例えるなら、(ノバク・)ジョコビッチに似たところがある」と称賛を惜しまなかった。

 チャンピオンの感激を目撃し、準優勝者の賛辞を聞いてもなお、記者たちの好奇心と取材意欲は収まらない。寡黙な優勝者の言葉を補うように、急きょ呼ばれる錦織のコーチ。

「僕はプロで12年やっていたけれど、会見場に呼ばれたのは、これが2度目だよ」

 現役最高119位の実績を持つグレン・ワイナー・コーチは、そう言って記者たちを笑わせた。

 この大会で錦織はすでに、今に通ずるいくつかの「強さの秘訣」を披露している。

 ひとつは、無類の勝負強さ――。トーナメント5試合を通じて彼は、全出場選手中、最高のブレークポイント阻止率を記録した。2回戦では、12本のブレークの危機をすべてしのいでいる。現在、史上最高の最終セット勝率を誇り、「ツアーきってのクラッチプレイヤー(ピンチに強い選手)」の異名を取る彼の資質は、このツアー初優勝のときから際立っていた。

 そしてもうひとつは、今や彼の代名詞にもなっている"エアK"こと、ジャンピングショットの衝撃だ。コーチのワイナーが言う。

「最初にあのプレイを見たときは、おいおい、と思った。でも、僕がコーチになって以来、ケイは一度もジャンピングショットをミスしなかったんだ。だから、どんどんやれと言った。あんなに綺麗にボールをとらえる選手は見たことがなかったからね」

 また、決勝で敗れたブレークも、コーチの言葉を裏付ける。

「彼が試合でジャンピングショットを打ち始めたときは、正直、もっと打てと思っていた。いずれはミスするだろうと思ったんだ......。練習ではともかく、実戦であんなに決められるのはすごいよ。僕には、あんなショットは打てないな」

 痛恨の敗北を喫した人格者は、ここでも対戦相手を素直に称えた。

 対戦相手や報道陣を驚かせ、日本のみならず、世界のテニス界が新星登場に沸き立ったあの日から、7年の月日が経った――。ジェームズ・ブレークはツアーを去り、グレン・ワイナーは現在IMGアカデミーのジュニアコーチとして、日本から留学中の中川直樹や福田創楽らの指導にもあたっている。そして、錦織にプレイが似ていると言及されたノバク・ジョコビッチ(セルビア)は、当時の世界3位から1位に上り詰め、今や男子テニス界に君臨する王者だ。

 あの日、フロリダの空の下でトロフィーと日ノ丸を掲げた少年は、その後も幾度かの挫折と、歓喜の瞬間を重ね、ツアータイトルは現在までに8個を数える。

 2015年2月17日――。錦織圭、25歳。

「勝てない相手は、もういないと思う」

 朴訥な口調に静かな矜持を込める青年は、世界のナンバー5である。

内田暁●構成 text by Uchida Akatsuki