槇文彦・大野秀敏編著『新国立競技場、何が問題か』(平凡社)
再録されたエッセイやシンポジウムは昨年のものとはいえ、そこでの問題提起はいまなお有効だ。共著者はほかに、元倉真琴(建築家)・古市徹雄(建築家)・陣内秀信(建築史)・宮台真司(社会学)・吉良森子(建築家)・越澤明(工学・都市計画)・松隈洋(近代建築史・建築設計論)・進士五十八(造園学・環境計画)・森まゆみ(作家)・長島孝一(建築家・都市設計家)。

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去る5月末に56年の歴史に幕を閉じた国立霞ヶ丘競技場(以下、国立競技場と略)。その取り壊し工事は今月中にも着手される予定だったのが、施工者が決まらず、当初の計画よりも遅れそうだという(「日本経済新聞・BPニュースセレクト」2014年6月12日)。

1958年のアジア大会開催にあわせて竣工され、1964年の東京オリンピックではメインスタジアムとなった国立競技場は、解体ののち、その敷地に新たな競技場が建設される予定だ。新国立競技場の完成は2019年、その翌年の2度目の東京オリンピックでは主会場に位置づけられている。一昨年にはそのデザインを決めるための国際的なコンペが実施され、選考の末、イラク生まれでイギリスを拠点に活動する建築家、ザハ・ハディドの案が最優秀賞案に選ばれた。

この新国立競技場案をめぐっては、ここへ来て議論が活発化しつつある。その契機となったのはおそらく、建築家の槇文彦が昨夏、建築雑誌に寄せたエッセイで、新競技場案に真っ向から異論を唱えたことだろう。現代日本を代表する建築家の一人である槇のこうした動きを受けて、昨年10月には槇をはじめ建築や都市の専門家が集まりシンポジウムも開催された。今年3月に刊行された『新国立競技場、何が問題か』(槇文彦・大野秀敏編著、平凡社)は、例の槇のエッセイやシンポジウムを再録するほか、識者たちの提言をまとめたものだ。

本書に登場する人々はみな、神宮外苑における新国立競技場の計画の見直しを求めている。だが、必ずしもハディドのデザイン案を否定しているわけではない。たとえば東京農業大学の元学長の進士五十八(専門は造園学・環境計画)は、《自由奔放なザハ・ハディド女史の形は閉塞感で支配されている現在の日本の風穴をあける存在足り得る作品だと感じる》と書いている。そのうえで、次のようにつけ加える。

《ただ私の意見は、あのボリュームとあの形は東京湾の広々とした海と敷地になら似合うが、百年をかけて調えられた神宮外苑の風致に対しては、不調和かつ破壊的であるといってよいと思う》

じつのところ、本書のなかでハディドのデザインへの言及はあまりない。この本を読む限り、新国立競技場案をめぐる議論において、ハディドのデザイン案の賛否はむしろ副次的なテーマではないかとすら思える。これというのも、本書の著者たちは、問題の根本はデザイン案ではなくコンペそのものにあると考えているからだ。

槇文彦は、コンペの募集要項の問題点をいくつかあげている。まず指摘されるのは、設計にあたって要求された新国立競技場の諸機能面積だ。要項には、観客席・競技機能の部分だけで16万平方メートルもの面積が示されていた。これにほかの諸機能もあわせると、じつに合計で29万1千平方メートルになるという。ロンドン、シドニー、アテネといった過去の五輪のメインスタジアムは、競技場・観客席だけでなくその関連施設をあわせてもせいぜい10万平方メートルだから、新国立競技場はそれをはるかにしのぐスケールということになる。現在、国際的なスポーツ大会を開催するには8万人を収容するだけのキャパシティが求められているとはいえ、これはいかにも大きすぎるかもしれない。

さらにいえば、ホスピタリティ・店舗・スポーツ関連機能・図書室・博物館などに対して4万8千平方メートルを与えていながら、それ以上の詳細なプログラムがコンペ主催者から示されることはなく、その配分は参加建築家たちに任されていたという。これまでいくつもの国際コンペに参加者、あるいは審査員として携わってきた槇だが、《これほど主催者の守備範囲の責任を放棄したものを見たことがない》と厳しく批判している。

■戦前にもあったスタジアム建て替えをめぐる議論
槇をはじめ本書の著者たちはまた、このコンペの問題点として、神宮外苑という土地の景観的・歴史的背景に関する情報が参加者たちにまったく与えられていなかったことを強調する。たしかに、もしもこれら情報が提供されていたのなら、出てくるデザイン案もまた違ったものになっていたかもしれない。

本書では当然ながら、神宮外苑の歴史についてもくわしく説明されている。神宮外苑の「神宮」とは明治神宮を指す。大正時代に入り、明治天皇を祀るため創建された明治神宮は、本殿のある内苑とともにその東側に外苑が計画された。建築などの各種専門家たちがオープンな議論を展開しながら設計された外苑は、聖徳記念絵画館を中心に据え、それに向かって一直線の並木道と前庭広場を置き、緑のなかに溶け込むように陸上・水泳・野球場・相撲の各競技施設が配置されている。完成した1926年には、その一帯70ヘクタールが日本初の風致地区(第1種)に指定され、地区内の建築は「建蔽率20パーセント以下、最高の高さは10メートル以下」と定められた。

精緻な計画にもとづき生み出された外苑の景観を維持するため、これまで多大な努力が払われてきた。特筆すべきは、いまから75年ほど前にも、神宮外苑では競技場の建て替えをめぐり議論が起こっていたという事実だ。

それは1940年のオリンピック開催地に東京が決まった前後のこと。このとき、IOC(国際オリンピック委員会)に提出された応募書類には、既設の明治神宮外苑競技場を改築してオリンピックスタジアムに充てる計画案が盛り込まれていた。

だがこの案に、東京帝大教授で建築家の岸田日出刀が真っ向から異議を唱える。招致活動中より計画にかかわっていた岸田は、1936年のベルリンオリンピックに派遣され、その会場施設群を視察するうち、神宮外苑がオリンピック会場敷地としては狭すぎると気づいた。同年7月に東京でのオリンピック開催が決定したのち、岸田は競技場調査委員会において、神宮外苑会場不可論を主張、代替地として代々木練兵場(現在の代々木公園周辺)をあげる。これに対し、陸軍は代々木練兵場の譲渡を拒否、大会組織委員会も神宮外苑をメインスタジアムとする方針を堅持した。

それでも岸田は節を曲げず、新聞や雑誌などメディアも活用して世論に訴えかけた。「競技場の改築によりスタンドが巨大な姿で立ちはだかれば、スケールの不調和という点で外苑一帯の調和した風致美は跡形もなく損なわれる」「由緒ある競技場を、オリンピックの16日間のために跡形もなく壊し去ることは言語道断」といった岸田の主張は、現在の新国立競技場案をめぐる議論と驚くほど重なる。

幸いにも、岸田だけでなく、神宮外苑を管轄していた内務省神社局も強く反対した。ついには1938年4月、土壇場になってオリンピックの主会場は駒沢に変更することで決着する。ただし、東京オリンピックの開催は、その3カ月後、前年からの日中戦争の泥沼化を理由に中止が決まるのだが。

岸田は一方で、神宮外苑競技場の改築案として、《西側のメーンスタンドと敷地の高低差を活かした地下部分を除き、観客席の地上部分はすべて木造による仮設とすることで、オリンピック終了後に撤去可能な方法》を提案していたという(本書所収、松隈洋「今、私たちの見識と想像力が試されている」)。これなど、建築家の伊東豊雄が最近発表した既存の国立競技場の改修案(「朝日新聞」2014年5月13日付を参照)と、発想がよく似ている。

近代建築史の研究者である松隈洋は、《岸田が守ろうとした神宮外苑の落ち着いた森の景観は、オリンピックのために観客席が増築されたことによって、その一部が大きく損なわれてしまった》と書く。旧国立競技場ですら外苑の景観を損なったのだとすれば、新国立競技場案のスケールでは一体どうなるのか。あらためて岸田の問題提起を顧みる必要がありそうだ。

■このまま行けば、ハディドの支持者にも不満が残る?
もちろんコンペで選んだ以上、ハディドとの国際的約束を果たすべきだという意見もあるだろう。これをクリアするためには、冒頭で引用した進士五十八の文章にもあったように、神宮外苑ではなく東京湾の埋立地にでも建設するという手も考えられるかもしれない。もっとも、東京湾岸にスタジアムを建設する案は、2016年のオリンピック招致の際に計画に盛り込まれたものの(晴海に建設用地を確保していた)、IOCからは、交通の便が悪く、三方を海に囲まれているのでテロ対策がとりにくいといった指摘を受けている。こうした経緯からすると、湾岸移転も実現するのはなかなか難しそうだ。

この5月には、ハディド案を踏まえて競技場の基本設計案が発表された。これに対し建築エコノミストの森山高至がブログで、詳細に検証したうえで、ハディドのコンセプトから大きく外れた似て非なるものだと指摘している。たしかにこの設計案は素人目に見ても、「何か違う……」感は否めない。

なお、今回のコンペは「設計者」を選ぶのではなく、「監修者」を選ぶというきわめて特殊なものだった。監修者には、実際に設計を行なう者がデザインの意図を充分に反映しているかチェックする権限が与えられているというのだが、監修者たるハディドは果たして、先の基本設計案を認めるのだろうか。

おそらくこのままいけば、新国立競技場は、神宮外苑の景観破壊を懸念する人ばかりでなく、ハディド案を支持する人たちにとっても不満の残る形で建設が始まってしまいそうだ。そうならないためにも、いま一度オープンな場で議論が尽くされるべきだとは、いまさらここで言うまでもないだろう。
(近藤正高)