「黒田官兵衛」大河ドラマと″本物″との違いを検証!

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大河ドラマ「軍師官兵衛」が今週、ついに最終回を迎える。大河ドラマとはいえ、ドラマである以上は、もちろん脚色はつきものだ。そこで、ドラマ内で描かれている黒田官兵衛は、“本物”の、つまり史実上の黒田官兵衛とどのような違いがあるか調べてみた。

今回は「黒田官兵衛―「天下を狙った軍師」の実像」(著:諏訪勝則/中公新書)を参考に、史実上の官兵衛とドラマの官兵衛とで3つの大きな違いについて探ってみた。

■1.黒田官兵衛は「くろだかんべえ」ではなかった!?
大河ドラマの中では、官兵衛は皆から「かんべえ」と呼ばれている。しかし実際には「かんべえ」とは呼ばれていなかったそうだ。その根拠として、1588年2月20日付のルイス・フロイスの年報に、「黒田官兵衛殿 Codera Cambioyedono」と記されている。

このローマ字での報告から見るに、官兵衛の読みは「かんべえ」ではなく、「かんびょうえ」であったと考えることができる。

■2.黒田官兵衛は「軍師」ではなかった!?
大河ドラマのみならず、官兵衛は「軍師」であったと一般的に認識されている。では、そもそも軍師は、どんな仕事をする人なのか。軍師の最も重要な仕事は、主君のそばで政治、軍事、外交的な指南をする役割。主君である信長や秀吉のすぐ傍らで、このように攻めたほうが良いなどとアドバイスする役目の人のようなイメージだ。
しかし、実際に官兵衛の主君である秀吉をすぐ傍らで支えていたのは、弟の秀長と千利休であるし、軍事面においても官兵衛が、秀吉に助言したという確実な書状等は残されていないのが事実だ。

では本当のところ、官兵衛はどんな役割を担った人だったのか。
実際の立場は、全体の司令官である秀吉から、現地(地方)の指揮権すべてを任された有能な司令官であったとされている。実際に秀吉の九州遠征では、毛利家との参戦交渉、兵員の配置、軍事拠点の構築、海上ルートの確保など、現地のさまざまな分野を統括する司令官として大きな活躍をしたことが記録されている。

■3.黒田官兵衛は関ケ原の戦いで天下を狙っていない!?
「その時、おまえの左手は何をしていたのか」
これは官兵衛が、関ケ原の戦いが終わった後、息子長政に言い放ったとされる有名な言葉だ。官兵衛自身が、関ケ原の戦いの際に天下を狙っていたことを象徴するエピソードとして今日まで語られている。
実際に大河ドラマでもクライマックスの直前で、官兵衛は「天下を狙う」という明確な意思をもっていることが描かれていた。

しかし史実上は、この発言をしていないとされ、そもそも官兵衛自身、関ケ原の戦いで天下を狙っておらず、むしろ早くから徳川側についていたとされている。

事実、官兵衛は家康に対して逐一軍事情報を報告して判断を仰ぎ、慎重な行動を取っていた。自身の軍事行動を家康に明確に示すことで、疑われることを避けたのだ。
ドラマ内では、関ヶ原の戦いでの勝者をあわよくば討つために、九州から出陣したような演出だったが、官兵衛自身は、敵にあたる大友義統の討伐をしろという家康の命に従い出陣しただけであり、その後は家康の停戦命令に忠実に従っている。

また、関ケ原の戦いが始まる前には、官兵衛は息子と共に、石田三成に味方する可能性のあった吉川広家に対して、寝返るように工作を行なっていたことが複数の書状から伺える。
徳川の重臣である井伊直政からの書状でも、「たびたび官兵衛から指示を頂いている。もし何か用があれば申し付けてほしい」という表現があり、いかに家康と官兵衛が緊密な関係であることが示されている。

ここまで見てきたように黒田官兵衛は、とても優秀な人物であることは間違いないものの多くの人がイメージする、秀吉の右腕として天下統一に貢献した「軍師」ではない。

ではなぜ官兵衛は、ある種のヒーローのように語り継がれるような存在になったのだろう。

それは、官兵衛自身が小寺家の一武士から独立を果たし、最終的には50万石以上の大名になったという、いわば大衆受けしやすく創作のネタにしやすい経歴であったからではないだろうか。
実際、江戸時代には「常山紀談」「故郷物語」といった逸話集が出されるなど、官兵衛に関する多くの創作が出された。
これらの影響によって秀吉の軍事行動を仕切る軍師、または、関ケ原の戦いで天下を狙った野心家の官兵衛という史実とは違った、現在の官兵衛像が出来上がったと考えられる。

そして官兵衛以外にも、信長や伊達正宗、真田信繁(幸村)などは特に史実と異なったイメージで伝えられている。
とはいえこのように、漫画やドラマ、ゲームなどで史実とは違ったイメージの武将が登場することは、むしろ良いことと言える。というのも、大河ドラマや戦国BASARA、戦国無双シリーズなどをきっかけにして、多くの人が武将や戦国史に興味を持ち、城巡りをする人や歴史通の女性(歴女)が生まれ、戦国時代の人気向上に貢献している側面があるからだ。
(さのゆう)