「洲崎球場のポール際 プロ野球の「聖地」に輝いた一瞬の光 」(森田創/講談社)Amazonより

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野球場には、多くの人を魅了する“なにか”がある。
それは、眩いカクテル光線のせいか、それとも選手たちのひたむきな姿のせいかは分からないが、とにかくテレビで見るのとは違うなにかがそこには存在する。

今ある球場はもちろん、現在は解体されていても、藤井寺球場や東京スタジアムのように野球ファンの心にいつまでも残り続けている球場も少なくない。しかしそんな野球ファンのなかでも、ほとんど知られていない、いわば歴史から“抹消”された球場がある。
しかもそれは、単なる河川敷球場のように規模が小さいありふれた場所ではない。今なお続く、巨人・阪神の「伝統の一戦」がはじまった場所なのだ。

その球場はどのような場所であったかは、この「洲崎球場のポール際」(著:森田創/講談社)を読むと、よく知ることが出来る。

その地の名は洲崎球場。この球場で行なわれた、プロ野球初代王者をかけた巨人vs阪神のプレーオフが、「伝統の一戦」のはじまりとされている。
今の東陽町駅の付近に建てられていたが、戦時中の昭和18年に行われた金属回収令強化によって取り壊されたのではないか、と言及されている。

そもそも洲崎球場は、本著が書かれる前の段階では、大きさや解体時期までもが分からない、いわば“伝説”の球場であった。このような洲崎球場についての事実は、この本の著者である森田氏が過去の資料を丁寧に調べ上げた結果、掘り起こされたものだ。

またこの本では、当時、大学野球全盛で“職業野球”とある種のさげすみを受けながらも奮闘する男たちの熱気だったり、軍靴の足音が近づき、次第に戦争に巻き込まれ、最終的には野球ができなくなった男たちの悲哀だったりも書かれている。

その悲喜こもごもの情景はまるで、その当時・昭和初期の洲崎球場にタイムスリップしたかのように、ありありと伝わってくる。それは何よりも当時の野次やエピソードが、こと細やかに文中で描写されているからだろう。

例えば、夫人が家を出て行ったしまったことが新聞に報じられた苅田久徳選手(野球殿堂入りも果たした名セカンド)に対して、「苅田! 女房を可愛がってやれ、浮気をするでねえぞ」とスタンドから野次が飛ぶ。
また、ブルペンで投げている沢村栄治投手(沢村賞はこの投手の功績を称えて設けられた。この沢村もまた殿堂入りを果たしている)に対して、「沢村、笑ってくれ」とファンが呼びかけ、沢村が笑うと、「沢村が笑った! きょうは巨人がもらったぞ」と叫んだエピソード等が紹介されている。

しかしこのように洲崎球場ではつらつとプレーした選手たちは、次第に戦争に巻き込まれていった。この沢村をはじめ、戦場で息絶え二度と野球ができなくなってしまった者も少なくない。

おそらくこの洲崎球場が、歴史から消えた最大の理由は、戦時中のごたごたで記録されたものなどがなくなってしまったからだろう。しかしそれと同時に、終戦後に日本全体、ひいては野球界が、前を向き歩きだそうとしている時期に、多くの野球ファンがこの洲崎球場でプレーした選手たちの“悲劇”を語りたがらなかったことも一因ではないだろうか。

だが、今日のプロ野球があるのは“職業野球”と揶揄(やゆ)されながらも洲崎球場で、奮闘した彼らがいたからこそ。プロ野球ファンであるならば、かつて存在した洲崎球場でプレーした選手たちの奮闘や戦争でそれを続けることができなくなった彼らの悲劇のことを、知っておいて損はないと思う。

資料を丹念に調べ上げ、今まで知られてなかった事実を掘り起こした著者の森田氏は、プロの学者か記者かと思いきや、なんと都内の鉄道会社に勤務するただの会社員だという。会社員という身でありながら歴史に埋もれた事実を掘り起こし、知られざる往年の選手や球場の姿を映し出してくれた森田氏には、一野球ファンとして改めて感謝したい。
(さのゆう)