「除外すべき五輪競技」の第2位に選ばれたのは、ゴルフである。リオ五輪で112年ぶりに復活することになり、石川遼(21)、宮里藍(27)などそうそうたるメンバーが代表候補としてあげられている。しかし、ノンフィクション作家の織田淳太郎氏はこう疑問を呈するのだ。

 「ゴルフには、森林を伐採して農薬を大量に使ってゴルフ場を造るイメージがあるわけで、環境破壊の最たるものじゃないですか。スポーツの原点から逸脱しているんじゃないですかね。技術を争うスポーツということでファンも多いが、スポーツとしての躍動感に欠ける。五輪の競技にする必要はないと思います」

 第3位にはマウンテンバイク・BMXが選ばれた。自転車競技にある2種目だが、マウンテンバイクは96年アトランタから、BMXは08年北京から五輪入りを果たしている。背景には五輪とテレビとの関係があると、スポーツ評論家の谷口源太郎氏は語る。

 「ロス五輪から放送権料がビジネスになりました。当時の五輪委員会が、オリンピック番組がどれだけの商品価値があるかを調査し、国内で3億ドルという数字が出て、入札をさせたのです。結果、米ABC局が2億2500万ドルを出しました。さらに、本来オリンピック委員会が出すスタジオ建設費7500万ドルも、同局が負担する形で放送権が売られました。放送権料はその後も暴騰し続け、結果、視聴率を稼げる競技が重要視されるようになりました。多くの視聴者を獲得できるかが競技を選択する一つの基準となったのです。新しい視聴者を獲得できる競技をというIOCの要望も手伝って、シンクロやマウンテンバイクという競技が行われるようになったのです」

 この商業主義路線を一気に推し進めたのが、“五輪マフィア”と呼ばれたサマランチIOC前会長だ。前出・運動部記者が語る。

 「76年のモントリオールで巨大な赤字を計上し、五輪は冬の時代を迎えます。80年に会長に就いたサマランチ氏の下、五輪はロスで商業化に成功しました。以降、五輪はプロ化の解禁と競技数の増加を続けるようになりました。五輪をアマチュアスポーツの祭典からショービジネスの祭典へと転換させたことが、彼が“マフィア”と呼ばれるゆえんです」

 00年のシドニーでは、ついに28競技・300種目にも膨れ上がり、サマランチ氏のあとを継いだロゲ会長がこう悲鳴を上げた。

 「夏季五輪は28競技約300種目、参加選手1万5000人が上限」

 こうして、競技の除外戦争が始まったのだ。