市村正親が青春を過ごした舞台芸術学院が3月で閉校。同期54人で俳優を続けているのは…「僕は運がよかったのと才能と(笑)、何よりやっぱり努力」
舞台、映画、ドラマにと幅広く活躍中のミュージカル俳優・市村正親さん。私生活では2人の息子の父親でもある市村さんが、日々感じていることや思い出を綴る、『婦人公論』の連載「市村正親のライフ・イズ・ビューティフル!」。第17回は「青春を過ごした大切な場所」です。(構成:大内弓子 撮影:小林ばく)
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「マサが出て行った……」
僕が学んだ舞台芸術学院(舞芸)が、2026年3月で閉校します。創立から78年。今は演劇を学ぶ場がほかにもできて仕方ないのかもしれないけど。僕にとっては、3年間演劇漬けで、まさに青春を過ごした場所だからね。やっぱり寂しいよ。
僕は1968年に入学した19期生。同期は54人いて、学長の浜村米蔵さんが入学式でこんなことをおっしゃいました。「これだけのカリキュラムが組めるのは、54人の月謝のおかげです。途中で辞めれば自分の入学金や月謝が、残った者たちのものになっていきます」と。
なるほど、だったら僕はみんなの月謝を使って学ぼうと思って(笑)、そこから1日も休まず通いました。
授業は、芝居、歌、バレエ、日舞、それに話法という滑舌よく発声する稽古、さらに絵画もありました。役者は自分でメイクすることが多いから、そのための練習なんだけど、写生に行って演技とはまた違うことも教わった。絵の近藤先生、いい先生だったな。
あと、1、2年のときの担任だった八田元夫先生。劇団東演の演出家で、白髪に髭という風貌がチェーホフのようで(笑)、いかにも演劇人という感じがして。八田先生のマネをして僕もベレー帽を被ってましたよ。
午後4時くらいまで授業を受けたあとはアルバイト。入学金や授業料は親父が出してくれたけど、家賃や生活費は自分で賄おうと、新橋から銀座までうどんの屋台を引いたり、銀座のバーで働いたりしていました。
このバイトを一緒にやっていたのが2年先輩のナカヤマさん。昨年12月に亡くなってしまったんだけど、劇団四季を辞めてしばらく仕事がないときにカンパをしてくれたり、本当にお世話になった人なの。
普段は簡易宿泊所みたいなところで寝起きしていて、学生だとバカにされたらいけないからと、寅さんが着ているような肌着の黒を着て箔をつけたりしてね(笑)。面白い人だった。僕が借りていた三畳ほどの布団部屋にも、時々泊まりに来ていましたよ。
僕は舞芸入学を機に一人暮らしを始めました。家賃は確か、3000円か4000円。友だちの車に鍋釜布団を乗せて引っ越ししたんだけど、おふくろは号泣していたらしい。「マサが出て行っちゃったよ」と親父に泣きついたって、あとで聞いたんだよ。
その気持ち、親になった今はよくわかる。親なんてもう、心配ばっかりだもん。でも、なるようにしかならないからね。信じて応援するしかない。親父とおふくろも、そう思って送り出してくれたんだと思う。

舞芸19期の仲間が近況報告を書いていた「ノエル」のノート。今は市村さんの手元で保管されている
3年間、無遅刻無欠席
同期にはいろんなヤツがいました。津軽から来たサンペイ、彼には酒を教わった。茨城訛りを直そうといつもアクセント辞典を持っていたナカハラ。ギターを弾いて作曲をしていたイブカ。日本舞踊の上手いゴトウ。女子は、ウエダ、サキタ、タムラ、マツモト、マエサカ、そして、僕が仲良くしていて「おヘソちゃん」と呼んでいたトヨダノブコちゃんたち。
舞芸の近くでたまり場にしていたのが、今はなくなった「ノエル」という喫茶店です。90歳になったママのフジタジュンコさんは今も芝居を観に来てくれるんだけど、卒業後にママに頼んでノートを置かせてもらって、みんなそれぞれそこに近況報告を書いていたんだよ。それを何年か前にママが見つけてくれて、今は僕が預かってる。
そこには僕が西村晃さんの付き人をしていた頃のことも書いてある。「旅公演から帰ってきた。商業演劇というのもやってみるとなかなか難しいもんだ」とかね。
卒業するときに残っていたのは、12〜13人。今も俳優を続けているのは、時々テレビドラマで見かけるマツモトアキコちゃんくらいかな。僕がここまで続けてこられたのは、運がよかったのと才能と(笑)、何よりやっぱり努力だろうね。
舞芸では無遅刻無欠席で「野尻賞」をもらったほど。そうやって毎日休まず学校へ行って授業に出るという努力をしたから、教務のフジエダ先生が、西村晃さんの付き人にと僕を推薦してくれた。
あらかじめ道があったわけじゃない。海のものとも山のものともわからなかったけど、とにかく前に進んで、自分が歩いたところに道ができてきたんだよね。
進むのをやめたいと思ったことは一度もないよ。初めて演劇を観た高校3年生のときに受けた衝撃が変わりなくあったから。「2、3時間で他人の激しい人生を自分のことのように生きられるなんて」と。
そして、演劇部の顧問の茨木洋子先生の出身校である舞芸に入った。閉校しても大切な場所です。
