上皇から美智子さまへの「思慮にみちたプロポーズの言葉」をご存知ですか? その言葉が、美智子さまを動かした

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明仁天皇(現在の上皇)と、美智子皇后(上皇后)のこれまでの歩みを、独自の取材と膨大な資料によって、圧倒的な密度で描き出した『比翼の象徴 明仁・美智子伝』(上中下巻・岩波書店)が大きな話題を呼んでいます。著者は、全国紙で長年皇室取材をしてきた井上亮さんです。

この記事では、1958年、美智子さまが明仁皇太子との結婚を決めたさいのエピソード、プロポーズの言葉などをくわしく紹介した部分を、『比翼の象徴』の中巻より抜粋・編集してお届けします。

美智子に決意させた明仁皇太子の言葉

十一月八日に発売された「週刊実話」が正田美智子が皇太子妃の有力候補として浮上したと報じた。美智子の名が日本のメディアに初めて登場した。ただ、二日前の六日に発売された米誌ニューズ・ウィークは実名こそ挙げていないが皇太子妃は「実業家の娘」になると報じており、七日にはAP電が「正田美智子」の名を打電していた。

八日、朝日新聞の佐伯晋記者は正田家を訪れた。箱根の富士屋ホテルで聞いた美智子の結婚についての思いは記事にしないという約束だったが、佐伯が「素直な気持ちを世間に伝えたほうがいい」と言うと、美智子は公表することを承諾した。

佐伯は「あくまで推測ですが、富美子さんが、僕を娘に会わせたのも、娘への掩護射撃とも受け取れます。美智子さんも記者に決心を伝えることで、父と兄とへの説得を考えたのではないだろうか」と述懐している。この日、富美子はこぼれる涙をぬぐおうともせずにこう話したという。

「皇室を尊敬しますが、神さまとはけっして思わない教育を戦前から私たちはしてきました。皇太子という身分、地位は結婚にはマイナスの条件としか考えられなかったのです」

同じ日の夕刻、織田和雄(編集部注:明仁皇太子の学友)は明仁皇太子に呼ばれて東宮仮御所に行った。皇太子は「なかなかうまくいかないんだ」と美智子からよい返事がないことを話した。美智子の心は結婚承諾でほぼ固まっていたが、明確な返答はしていなかったのだ。織田は「世間一般では、お嫁に来て頂きたい意思表示の一つに“柳行李(やなぎごうり)ひとつで来て下さい”と言うこともあるのですよ」と口説き文句をアドバイスした。

すると皇太子は美智子に電話を入れることを頼んだ。別室で約一時間、皇太子は美智子と話し続けた。ドアが開き、織田の前に現れた皇太子は高揚し、満足感をたたえた表情だった。織田は皇太子がついに美智子から承諾の返事を得たと受け取った。実際、この八日以降、結婚に向けた動きが急展開する。

皇太子の「本当のセリフ」

織田はのちに自身の「柳行李」のアドバイスが決め手となったと思い、取材にもそう答えたため、「柳行李ひとつ──」が皇太子のセリフとして流布したが、実際はそのような言葉は口にしていなかった。平成になってから織田が美智子から聞いた皇太子の真実の言葉は、

「YESと言ってください」

というストレートなものだった。そして話の最後に「公的なことが最優先であり、私事はそれに次ぐもの」と話した。公的な立場を守らなければならないので、あなたのことを守り切れない場合もある。皇太子の正直な言葉に美智子は心を動かされ、「自分が行かねばならない」と思った。「YESと言ってほしい」と強く言われて、そう答えた──。美智子は織田にそう説明したという。のちに東宮侍従の黒木従達も美智子から聞いた言葉として、次のように書いている。

「度重なる長いお電話のお話しの間、殿下はただの一度もご自身のお立場への苦情をお述べになったことはおありになりませんでした。またどんな時にも皇太子と遊ばしての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐものとはっきり仰せでした」

黒木は「この皇太子としてのお心の定まりようこそが最後に妃殿下〔美智子〕をお動かししたものであったことはほぼ間違いない」とみている。理知と論理の人・正田美智子の決心を固めさせるには、愛の言葉の連呼ではなく、彼女が皇室に入る意味と意義を説く必要があった。皇太子は美智子という人間を理解し、見事に成功したのだ。

ただ、友人の澤崎美沙は美智子が「いままで理性で考えぬいた基礎の上から、限りない勇気と信頼とをもって最後のジャンプを敢行した」と言う。そのジャンプは理知の人・美智子にとっても大きな精神的苦しみで、澤崎に「こわい」とおびえるように訴えたこともあった。その美智子の背を押してジャンプさせたのが皇太子の情熱だった。

「どうしても動かされずにはいられない愛情というのがあるのね」と美智子はぽつんと言ったという。しかし、「私はもっと安易な場に愛情を見つけたかった」とも言った。

「でも一度見たものに目をつぶっていいかしら。それが本当の愛情だったら、私はやっぱりそれを見つめていくのが本当かもしれない」

明仁皇太子の自分に対するこれほどの愛と情熱を通り過ぎることはできない。それが美智子の心だった。

明仁皇太子の「根回し」

美智子が結婚承諾の返事をした翌日の十一月九日、明仁皇太子とテニス仲間の「ルプスの会」の第一回トーナメントが杉並区の富士銀行福祉施設のテニスコートで行われた。ミックスダブルスの相手女性を誘うのが会のきまりだが、取材陣に取り囲まれている美智子を誘うわけにはいかなかった。皇太子はこの日の昼食も施設の食堂でカレーをおいしそうに食べた。織田は同日夜、そして十日、十一日も皇太子と美智子の電話の仲介をした。

十一月十二日、一度は美智子が有力候補であるとの記事を見送った「週刊明星」が、同日発売号で「内定した⁉ 皇太子妃 その人正田美智子さんの素顔」の記事で美智子の経歴などを詳しく報じた。報道協定は決壊寸前で、正田邸の周辺には報道陣の車が朝から一日中陣取り始めた。家にこもっていた美智子が気晴らしに富美子と買い物に出ると、取材の車が数台、堂々と尾行を始めた。

同日夜、明仁皇太子は秩父宮妃、高松宮妃を東宮仮御所に招いた。皇太子は三時間半にわたって、美智子とのこれまでのいきさつと自分の気持ちを話した。宮妃らが「平民」の皇太子妃に反発する皇后の“尖兵”となって結婚に異を唱えていることは皇太子も承知しており、彼女らへの根回しだった。

この十二日に正田家では明仁皇太子と宮内庁の申し出を受けることを決めていた。同日夜も正田邸を訪れた朝日新聞の佐伯記者に富美子は「とてもヒューメン(人間的)で誠実な殿下のご意向が、直接美智子に伝えられました。ふつうの縁談とまったく同じに考えるように―という思いやりにあふれたお言葉が……」と語った。

皇太子妃受諾はセンチメンタルな感情やあきらめと受け取られては心外、というようなことも言った。佐伯は「越えがたいミゾを、ぎりぎりのところで踏み切らせたなにかがあったにちがいない」と思った。それでも正田夫妻には不安は残っていた。「ほんとうに娘が幸福になれるだろうか……」という言葉が何度も出た。そして夫妻はこう漏らしたという。

「皇室のあり方が、いわば定年のない外交官のようなものであってほしい。美智子にそういう平和な、つつましい生活が許されさえするならば……」

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