舩津徹也氏が山口蛍に受けた衝撃を回想【写真:福谷佑介】

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「蛍はすごかったですね、そのときから。走れるし、うまいし、賢い」

 カターレ富山やセレッソ大阪、モンテディオ山形などでプレーし、2022年に現役を引退した舩津徹也氏は現在、資産形成コンサルタントとして保険や投資信託などの金融商品による資産形成のコンサルティングを行っている。

 C大阪と山形でJ1の舞台に立つなど、14年間の現役生活でJリーグの3カテゴリー全てでプレー。なかでも、初めてのJ1となったC大阪で、衝撃を受けた未来の日本代表選手がいた。(取材・文=福谷佑介)

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 2009年にびわこ成蹊スポーツ大からカターレ富山に入団し、Jリーガーとしてのキャリアをスタートさせた舩津氏。「衝撃的でした」と振り返るのは、2012年に期限付き移籍で加入したセレッソ大阪のチームメートたちだった。

「レベルが全然違うなって感じましたね。プレーの質が全然違いました。あの時のセレッソ大阪はめちゃくちゃ若くても賢い選手が多かったですね」

 この時のC大阪にはのちにフル代表にも名を連ねることになるMF清武弘嗣(現鳥栖)やMF扇原貴宏(現神戸)、FW杉本健勇(現大宮)といった若手有望株に加え、元日本代表FW播戸竜二や同DF茂庭照幸といった実績者たちも在籍。チームメートたちのレベルの高さに面食らったという。

 そのなかでも特に、強烈に印象に残っている選手がいる。当時まだ21歳で、ロンドン五輪代表候補となっていたMF山口蛍(現神戸)だ。C大阪U-18から2009年にトップ昇格を果たし、2011年に17試合に出場してレギュラーの座を掴みつつあった。

「蛍はすごかったですね、その時から。走れるし、うまいし、賢い。扇原とかもうまかったですし、若いし、質が違いました」

 サイドバックが本職だった舩津氏は2011年に富山でボランチとしてプレーし、C大阪にもボランチ、サイドバックとして期待されて加入した。同じポジションで、同じ豊富な運動量を武器とする選手だっただけに、4歳下の山口のクオリティーの高さは衝撃だったという。この年は、山口がレギュラーの座を確固たるものにし、のちのフル代表入り、海外移籍への足がかりにした年だった。

「その時は清武も、(柿谷)曜一朗もいましたし(韓国の五輪代表で銅メダルを獲った)キム・ボギョンもいました。本当にレベルの高い選手がたくさんいて、いい経験をさせてもらったと思います」

 舩津氏は2012年の1年限りで、レンタル元の富山に復帰することになった。ただ、その後も移籍した山形でJ1に昇格に貢献し、ザスパクサツ群馬、FC岐阜と渡り歩いてプレーを続けた。プロ4年目で味わった“衝撃”は、14シーズンにも及んだ現役生活の礎にもなっていた。
 
[プロフィール]
舩津徹也(ふなつ・てつや)/1987年2月9日、大阪府出身。立正大淞南高―びわこ成蹊スポーツ大―カターレ富山―セレッソ大阪―カターレ富山―モンテディオ山形―ザスパクサツ群馬―FC岐阜。Jリーグ通算356試合19得点。2022年で現役を引退。現在は資産形成コンサルタントとして投資信託などを中心に、資産形成のコンサルティングを行っている。(福谷佑介 / Yusuke Fukutani)