ガルマエフ・ウルジン(See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons)

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 関東軍(日本陸軍の満州駐留部隊)の主導により、1932年3月に中華民国からの独立と建国を宣言した満州国。清朝の愛新覚羅溥儀を執政(のちに皇帝)に据え、1945年8月のソ連参戦で崩壊する経緯は、さまざまな文章や映像などでおなじみのものだろう。そこに存在したモンゴル系軍人たち、たとえばソ連軍への投降を選び反乱を起こしたジョンジュルジャブはその名をよく知られている。

 一方で、この反乱を止めようとしたモンゴル系軍人もいた。一族の存亡をかけてモンゴルをさまよい、満州国と出会った少数民族の指導者、ガルマエフ・ウルジンである。司馬遼太郎氏がかつて「この数奇なモンゴル人」と綴ったウルジンは、ある日本人と固い信頼関係を築いていたという。2010年、ノンフィクションライターの駒村吉重氏がウルジンの通訳官だった人物を訪ねた――。

ガルマエフ・ウルジン(See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons)

(全2回の第1回:「新潮45」2010年12月号「歴史の闇に葬られた満州国のモンゴル人将軍」をもとに再構成しました。文中の年代表記等は執筆当時のものです。文中一部敬称略)

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数奇なモンゴル人

 曲がりくねった細い路地を挟み、小さな畑地や素朴な門構えの民家が並ぶ里山である。

「加茂駅(JR関西本線)からタクシーで高田まで、村の入り口に理ハツ店があり、其処を右に入り100メートル程の処で左に入って、石垣の家です」

 と、平成12年の10月に送られてきたはがきにはある。50年以上も昔、ある人物の通訳官を長年勤めた岡本俊雄さんという方が、奈良県境にほど近いこの京都の里に、高齢ながら健在であることを知って、幾度か手紙の往来を重ねていた。

 ある人物とは、中国大陸に突如出現しわずか十数年で消えていった満州国の中将だったブリャート・モンゴル族、名をガルマエフ・ウルジンという。

 ようやく見つけたお宅の縁側に靴を脱ぐと、まず、奥の間の鴨居に掲げられた額入りの白黒写真2枚が目に入った。1枚は軍服姿の上半身。もう1枚は草原で馬上手綱を取る姿。ソ連侵攻前に岡本さんが自宅に送っていたもので、現存するウルジンの数少ない写真だった。写真の真下のいすに米寿を超えたばかりの岡本さんが深く腰を降ろしていた。

「チタに住むご家族でさえ、戦争の混乱で一切の写真をなくされて、これを(焼き増しして)贈りましたら、たいそう喜ばれまして」

司馬遼太郎は「この数奇なモンゴル人」と

 それほどに、この人物に関する遺留品はじめ、記述などのたぐいは少ない。ただ、歴史に葬られたそのモンゴル人将軍の影は、岡本さんが卒業した大阪外国語学校蒙古語部の後輩にあたる司馬遼太郎氏の『草原の記』(新潮文庫)のなかに、かすかにだが留められている。

 話は昭和10年代の内モンゴル平原に及ぶ。建国への理想と失意が交錯する満州国の末期。言いがたいその気配を描写する素材として、司馬氏は、岡本さんが戦後にウルジンを偲んで認(したた)め、親しい友人らにだけ配った回顧録『一人の「ブリャートモンゴル人」と日本青年の出合い』をひもとく。

『草原の記』から引くと、ロシア革命後に中国領に入ったウルジンは、のち満州国軍中将になり興安軍官学校長まで任される要人となるが、終戦の年に「ソ連軍にとらえられ、食を絶って自死したという」。波乱の人生を歩んだウルジンを、「この数奇なモンゴル人」と司馬氏は言葉少なに語っている。

 確かに、ウルジンの生涯には、想像を絶する時代の荒波が幾度も寄せている。辛亥革命を皮切りに、ロシア革命、モンゴルの共産化、満州国の出現。そのたび、モンゴル少数部族を率いる彼は、一族の存亡を賭けた岐路に立つ。かのノモンハン戦では、国境をへだてて同族のモンゴル人と壮絶な戦闘を繰り広げるに到るが、しかし満州国は数年後、あっけなく滅びた。

小学校教諭から職業軍人へ

 その足どりから匂ってくるのは、満州国を舞台に活躍した多くの軍人、政治家、政商たちにつきまとうきな臭さではなく、どうにもならない行き詰まった時代の風だった。

 ――ウルジンとはいかなる人物で、なにを思い満州国に没入していったのか。

 現在もロシア連邦ブリャート共和国に存命の長女、サンディトマの簡単な覚え書きから拾うと、ウルジンは1889年にロシア領のシベリア・チタ市のボージル地区に生まれている。

 一帯は、古くからブリャート・モンゴル族が暮らす土地だ。ブリャート・モンゴル族とは、もともと森林地帯で狩猟やトナカイの遊牧を営んでいたシベリアの少数部族である。外モンゴルの大勢を占めるハルハ族に対しマイノリティーではあるが、ロシア文化圏にあって西洋の風を常にうけ、モンゴル平原において進歩的立場の指導者を輩出してきた。

 父親は、ロシア人の下で働く雇われ牧人だったという。わずかな金をしたため、かなり無理をしてウルジンを中学校に通わせた。

 卒業後のウルジンは、少なくとも6年以上は小学校教諭をして、いきさつは不明だがチタの陸軍士官学校に進み、帝政ロシアの職業軍人になった。騎兵少尉であったという。

 1917年(大正6年)、世界中を揺るがしたロシア十月革命が起きると、革命の火は、ウルジンが暮らす静かなバイカル湖畔の街へも延焼する。折しも、そのころ外モンゴルは独立闘争に揺れていた。

ソ連赤軍から逃れ見渡す限りの草の原へ

「辿れば、転機はロシア革命でしょうな」

 話が満州とウルジンの接点に及ぶと岡本さんはそう切り出した。

「セミョーノフと一緒に闘いはった。ソ連赤軍と」

 革命勢力から逃れてきた白軍コサックの実力者アタマン・セミョーノフ中将のことである。ソ連を仮想敵国とする日本の特務機関の支援を受けて、赤軍に対し最後まで徹底抗戦を貫いた男だった。のちにモスクワ軍事法廷で、対ソ反乱罪などで絞首刑になるセミョーノフの軍がチタに入ったことで、一帯に帝政復活を望む白軍徒党が集まり、勢いブリャートの民族主義者も先鋭化していった。

「ブリャートはもともと熱心なラマ教徒が多かったですからな、そりゃ共産主義とは相いれませんわ。激しい戦いだったらしいですわ」

 とは、岡本さんがのちにウルジンから聞いた話だ。

 ブリャートの指導者として見いだされたウルジンは、セミョーノフ軍とともに戦いにのめり込んで行く。が、圧倒的な戦力差に、とうとうシベリアの地を捨て、一族を率いてシニヘイと呼ばれる現在の中国領・内モンゴル自治区の北の草原に逃れることになる。そこは北辺の小都市ハイラルから40キロばかりの地点。見渡す限りの草の原である。

日本の特務を帯びたある情報将校との出会い

 戦後、岡本さんは、敬愛したウルジンの過去を独自にたどった。その調べによると、シニヘイに逃れたブリャート一族は、中国国民党と幾度も話し合いを重ね、3年後には正式に居住を許可されたらしい。

 シベリアを去って間もなく、1924(大正13)年に、再びブリャートを震撼させるニュースがシニヘイの村に舞い込んだ。

 そこより西側の草原に住むモンゴルの民が、世界で2番目の社会主義国家となるモンゴル人民共和国を打ち立てたのだ。事実上ソ連の衛星国であり、大陸進出の足場固めを急ぐ日本に対する防波堤としての役割は明白だった。さらに8年の後の1932(昭和7)年になると、今度は日本の対ソ防波堤として満州国が出現する。

 ブリャートが右往左往する国境地帯の地図はめまぐるしく変わった。

 満州国軍誌「鐵心」康徳5年2月号(昭和13年)に寄せた、現存するウルジンによる数少ない記述によると、満州国成立前夜のこんな不透明な情勢下で、彼は日本の特務を帯びたある情報将校と知り合う。その出会いが、後の人生を決定づけるのである。

「テラダ」と名乗った日本人

 昭和2(1927)年の秋だというから、彼らがシニヘイに居住許可をもらい受けたころだろう。ハイラルの白系ロシア人宅に招かれていたウルジンを、セミョーノフに仲介されたひとりの日本人が訪ねてくる。研究調査のため、ブリャート族をひとり紹介してほしいと頼み込んでいた30代後半の男の容姿は、

「支那服を纏ふておられ、體躯堂々、それに非常に顔が綺麗で、支那人か日本人か判らない程であつた」

「テラダ」と名乗った日本人は、モンゴル語を学ぶ留学生として、ハイラルの地に入っていた。

「そうですな。寺田さんはモンゴル語も使われましたが、ウルジンさんとの会話は全部ロシア語だったですよ。私の通訳はまったく必要なかったですね」

 岡本さんはそう記憶している。

 出会ってからのウルジンはハイラルに用ができると、必ず寺田の自宅を訪ね「色々親切にお世話になっていた」(ウルジン記)。しかし、寺田は数カ月後に突然ハイラルを後にしてしまう。遠方のシニヘイから偶然ハイラルに出かけてきていたウルジンは、駅に寺田を見送った。記述はこう続く。

「帰国とは知らせず、間もなくハイラルに戻ってくるから、そのときは一緒に仕事をやろうと言って堅く握手して別れた切り」

 再会の約束を寺田が果たすのは5年後の秋、昭和7(1932)年である。

満州国に傾いていく人生

 寺田は再会当時、ハイラル特務機関の中枢を任され、ウルジンはシニヘイの族長となっていた。時局もまた大きく転回を始めた。前年に奉天で勃発した満州事変の戦火が拡大し、この春には満州建国宣言がなされていたのだ。

 ふたりは、ハイラルの目抜き通りに古くからある日本人商店のなかで、「時の過ぐるのも知らずに語り明かし、ホロンバイルの将来について意見をたたかはした」(ウルジン記)。

 ウルジンの人生が満州国に一気に傾いていくさまが見えるようである。

 実際には寺田は、ウルジンと別れてから2度ほど国際運輸会社の社員「松石高」の名を使うなどして、ホロンバイル(内モンゴル自治区北東部、フルン、ブイル両湖あたりの草原)に潜入していた。ブリャート以外のモンゴル系種族や小軍閥の動向をうかがっていたらしい。建国間もない当時、辺境のホロンバイルにはまだ関東軍兵力を配備できずにいた。ウルジンはブリャート騎兵部隊を率い、ホロンバイルで勃発する幾つかの小軍閥の反乱を鎮めるなど、寺田の任務を助けていった。

「骨の髄まで反共の人ですな」と岡本さんが言うウルジンが、新国家にどんな夢を見たかは知る由もないが、現実問題として、ブリャートの行き場は八方塞がりになっていた。「五族協和」をうたう新国家に、生きる場所をこじ開けるよりなかったのだろう。「満州人」として死ぬ覚悟を、ウルジンは、すでにこのときにしていたのかも知れない。

「あたかもジンギス汗」

 ウルジンが己の人生とブリャートの将来を賭けることになる寺田は、大陸での対露対蒙工作に深く関わった軍人である。

 寺田利光は、明治22(1889)年東京の生まれで、父親も陸軍軍人。陸軍中央幼年学校出の陸軍士官学校22期生である。砲兵少尉として任官し、陸軍砲工学校に進んでいる。一方で、幼年学校時代から学んでいたロシア語の才は誰もが認めるところだったらしく、大正14(1925)年には、新たに軍委託学生として東京外国語学校(現東京外大)に入学し、専修科蒙古部でモンゴル語の勉強に励んでいる。さらに卒業直後の昭和2年6月には、10カ月間の予定で内モンゴルに私費留学を果たす。ウルジンと初めて出会ったのはこのときだ。

 寺田の名は、大正7年のシベリア出兵を契機にして「特務機関」の名が日本陸軍史上に初めて登場して間もなく、すでにその陣容のなかに見ることができる。

 初編成時は、ウラジオストック、ハバロフスク、ハルピンなど9機関。反革命分子が多いウスリー・コサックの指導を任務とするハバロフスク機関(機関長・五味為吉大佐)に、投入されている。以降彼は、白系の戦線を追うようにシベリア・内モンゴル地域を転々として、やがて満州にまで白系人脈を抱え込んでいく。ウルジンもそのひとりである。

 建国後に、興安北分省警備軍顧問に就いた寺田は、昭和12(1937)年7月16日にハイラルで病死している。陸軍砲兵大佐だった。

 しかし、彼は死後、情報戦を巧みに戦った軍人の功績としてはおよそ似つかわしくない奇妙な足跡をホロンバイルに残した。その死を嘆き、ホロンバイル一帯のモンゴル人と白系ロシア人が申し合わせ、ハイラル公園に寺田の銅像を建てたのだ。建設費用はまったくの民意でまかなわれたという。

実にやさしい目をしてらした

 寺田利邦さんは、寺田の三男である。東京都府中市の自宅に、家族にあてた手紙が残されていたが、膨大な手記などはさる事故のため喪失し、ウルジンに関する手がかりもすでになくなっていた。

 利邦さん自身も2人の兄に続き陸士に学んだが、任官前に満州の航空士官学校で終戦を迎えている。数えで5つのときに別れた父・利光の記憶はほとんどない。ただ、利邦さんは一度だけウルジンに会ったことがあった。

 寺田がまだホロンバイルに健在だった昭和10年ごろだ。ウルジンは公務で東京に入り、帝国ホテルで日本に残る寺田の子供たちに会って手みやげを渡している。利邦さんは、その土産をいまも大切に保管していた。モンゴル民族伝統の携帯用はしとナイフ、美しい織り柄の財布。財布のなかには、帝政ロシアのものと思われるきれいな紙幣などが数枚、時を止めたように丁寧に収まっていた。

「立派な体格でしたね。堂々としていて、ちっとも威圧的じゃなくて、実にやさしい目をしてらしてね、子供ながらああ立派な方だなって思いましたね。チョコレートをもらったのが本当にうれしくて」

 少年の目に映ったウルジン像である。

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 ソ連赤軍と戦い、一族を率いて北の草原に逃れたウルジン。運命の扉を次に開いたのは大陸での対露対蒙工作に深く関わった軍人・寺田だった。第2回【満州国の真実 モンゴル人中将は謎多き「凌陞事件」でなぜ処罰されなかったのか【元日本人通訳の証言】】では、ウルジンと寺田の深い絆や、最後まで中将としての務めを捨てられなかった姿、その後の「名誉回復」までをお伝えする。

駒村吉重(こまむら・きちえ)
1968年長野県生まれ。地方新聞記者、建設現場作業員などいくつかの職を経て、1997年から1年半モンゴルに滞在。帰国後から取材・執筆活動に入る。月刊誌《新潮45》に作品を寄稿。2003年『ダッカに帰る日』(集英社)で第1回開高健ノンフィクション賞優秀賞を受賞。

デイリー新潮編集部