ルイーズ・ブルジョワ 《ママン》 1999/2002年 所蔵:森ビル株式会社(東京)


(ライター、構成作家:川岸 徹)

日本では27年ぶりとなるルイーズ・ブルジョワの個展「ルイーズ・ブルジョワ展:地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」が東京・森美術館にて開幕した。昨年11月にシドニーのニュー・サウス・ウェールズ州立美術館で開催された大規模個展をベースに、ニューヨークのイーストン財団などから新たな作品を加えて再構成。森美術館の後、台湾の富邦美術館に巡回する。

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《ママン》の作者、ルイーズ・ブルジョワ

 2003年に開業した六本木ヒルズのシンボルとして、今やすっかり定着した“巨大なクモ”のオブジェ。高さ約10メートルの巨体と、リアルでややグロテスクともいえる姿は、一度見ただけで記憶に残る強烈なインパクトがある。

 この巨大なクモ、制作したのはルイーズ・ブルジョワ(1911〜2010年)というフランス出身の女性アーティスト。彼女は彫刻をはじめ、ドローイング、絵画、インスタレーションなど様々な手法を用いながら、約70年にわたって精力的に創作活動を継続した。20世紀を代表する最も重要なアーティストのひとりに数えられ、没後の現在も世界各地で展覧会が開かれている。

 そんな彼女の代表作が、この“巨大なクモ”。六本木ヒルズのみならず、クリスタル・ブリッジーズ・アメリカン・アート美術館(アメリカ)、カナダ国立美術館(カナダ)、ビルバオ・グッゲンハイム美術館(スペイン)、ホアム美術館(韓国)などにも恒久設置されている。これらの巨大なオブジェに限らず、クモはドローイングやインスタレーションにも繰り返し登場。ブルジョワの芸術に欠かせない重要なモチーフになっている。

なぜ、クモなのか?

自身の版画作品《聖セバスティアヌス》(1992年)の前に立つルイーズ・ブルジョワ。ブルックリンのスタジオにて。1993年 撮影:Philipp Hugues Bonan 画像提供:イーストン財団(ニューヨーク)


 ではなぜ、ブルジョワはクモをモチーフに選んだのだろう。六本木ヒルズに設置されたクモのオブジェ、正式な作品名は《ママン》という。ママンとはフランス語で母親の意味。《ママン》を下から見上げると、お腹の部分に20個近くの大理石の卵を抱えている。このクモはどうやら「お母さん」を表しているらしい。

 ブルジョワは母性の象徴として、そして自身の実母への思いを重ね合わせて《ママン》を制作した。ブルジョワが生まれた家はタペストリー工房を営んでおり、父親が経営面を取り仕切り、母親はタペストリーの修復を担当。ブルジョワは糸を用いてタペストリーを修復する母親と、糸を張って巣を作り子供を守るクモの姿に親和性を見出したのだろう。

 母親は病弱だったが、温和で勤勉。ブルジョワとの関係も良好で、彼女は母を「親友」とみなしていたらしい。だが、その幸せな家庭を壊したのが父親だ。病弱な妻がいながら住み込みの家庭教師の女性を愛人にした。母親もその事実に気づきながら、関係を黙認していたようなフシがあったという。

 そんな歪んだ家庭環境は、ブルジョワを苦しめた。父親を拒絶する一方で、愛し、愛されたいと求めてしまう。矛盾した感情はどんどん複雑化し、ブルジョワにとって永続的なトラウマの源になった。

不安定な心を表した《父の破壊》

ルイーズ・ブルジョワ 《父の破壊》 1974年 所蔵:グレンストーン美術館(米国メリーランド州ポトマック) 撮影:Ron Amstutz © The Easton Foundation/Licensed by JASPAR, Tokyo, and VAGA at Artists Rights Society (ARS), New York


 不安定な精神状態は作品に反映されていく。ブルジョワは彫刻を一種のエクソシズム(悪魔払い)、つまり望ましくない感情や手に負えない心の内を解き放つ方法だと信じていた。不安、罪悪感、嫉妬、自殺衝動、殺意と敵意。そうした様々な葛藤や否定的な感情が作品を通して語られている。

 展示作品の中で最も衝撃を受けたのが《父の破壊》(1974年)と題されたインスタレーション。暖炉の内部のような赤い空間の中に食卓が置かれ、その上に内臓や肉片のようなものが並んでいる。これは支配的な父親を殺し、調理して食べることで復讐を果たすという幻想を具現化したもの。ただ、父を憎みながらも、食べることで父と一体化したいと願うブルジョワの複雑な心情も表現されている。

《罪人2番》(1998年)もまた、心に重く響く作品。防火扉に囲まれた狭いスペースはお仕置き用の部屋のよう。壁には鏡や矢印などが設えられており、これは苦しんだり、がっかりしたりした時に向き合うブルジョワ本人の気持ちを表しているという。

芸術の力で心に青空を取り戻す

ルイーズ・ブルジョワ 《無題(地獄から帰ってきたところ)》 1996年 撮影:Christopher Burke © The Easton Foundation/Licensed by JASPAR, Tokyo, and VAGA at Artists Rights Society (ARS), New York


 展覧会にはこうした胸がひりひりと焼け付くような作品が多いが、心の平穏を取り戻そうと「修復」に務めるブルジョワを知ることもできる。例えば、《青空の修復》(1999年)」という作品。鉛と鋼でできた画面に5つの傷口のような穴が開いているが、ブルジョワはその傷口に布をあてがい、傷口を閉じようと糸で縫い合わせている。ブルジョワはこう語っている。「芸術は正気を保証する」と。

《ビエーヴル川頌歌》(2007年)は、ブルジョワが子供時代に暮らした家の裏庭を流れていたビエーヴル川を題材にしたもの。自分や家族の衣服、日常生活で使用した布製品など、大切な思い出の品々を組み合わせて作品に仕上げている。柔らかな水色が清々しい。

 晩年の刺繍作品《無題(地獄から帰ってきたところ)》(1996年)はブルジョワの亡くなった夫が使っていたハンカチが素材。表面に本展のサブタイトルに用いられた「I have been to hell and back. And let me tell you, it was wonderful.」(地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ)というテキストがあしらわれている。

展示風景:「ルイーズ・ブルジョワ展:地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」森美術館(東京) 2024年 撮影:長谷川健太 © The Easton Foundation/Licensed by JASPAR, Tokyo, and VAGA at Artists Rights Society (ARS), New York, 2024.


 ブルジョワの過去。それはまさしく地獄だったのだろう。彼女は自分自身のことを、逆境を生き抜いた「サバイバー」だと語っている。だが、ブルジョワは決して過去を消し去りたいとは願っていない。過去の出来事や複雑に絡み合う感情を創作へと昇華させてきた。

 過去は消えない。すべてをひっくるめて、生きていかなければならない。最後にブルジョワの言葉をもうひとつ紹介したい。「わたしの子供時代は魔法を決して失わない、謎を決して失わない、ドラマを決して失わない」。

 

「ルイーズ・ブルジョワ展:地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」
会期:開催中〜2025年1月19日(日)
会場:森美術館
開館時間:10:00〜22:00(毎週火曜日、10月23日(水)は〜17:00、12月24日(火)、12月31日(火)〜22:00) ※入場は閉館の30分前まで
休館日:会期中無休
お問い合わせ:ハローダイヤル 050-5541-8600

https://www.mori.art.museum

筆者:川岸 徹