平安神宮(写真: soulman / PIXTA)

今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は恥とされていた「宮仕え」を紫式部がどのように考えていたのか紹介します。

著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。

宮仕えは名誉なことだったのか?

長保3年(1001年)に夫の藤原宣孝を亡くした紫式部は、その4年後の寛弘2年(1005年)頃に、一条天皇の中宮・彰子に女房(女官)として仕えることになったと言われています。

紫式部は、35歳になっていたようです。宮仕え、それも天皇の后に仕えるというというのは、当時であっても大変名誉なことです。その女性の家族も大歓迎だったと想像するかもしれませんが、必ずしもそうではありません。

紫式部と同時代人で、一条天皇の中宮・定子に仕えた女性・清少納言。彼女は随筆『枕草子』の著者として有名ですが、その中で、宮仕えについて、こんなことを述べているのです。

「宮仕えをする女性を、浅薄で、世間体の悪いことだと言ったり、思っている男」は「いと憎けれ」と。

つまり、宮仕えする女性を浅薄で世間体の悪いことだと思っていた人(男性)が多かったことを示しています。

清少納言はそのような男たちを「憎い」と述べつつも、「しかし、実際に考えてみると、それももっともな点もある」と書いているのです。いきなり前言撤回かと突っ込みたくなりますが、まずは、清少納言の言い分も聞いてみましょう。

「天皇をはじめ、公卿・殿上人・その他、五位・四位といった貴族の人々はもとより、女房の顔かたちを見ない人は少ない。女房の従者や、実家からの使者、召使、下賤の者に至るまで、女房がそれら下々の者にも姿を見せないということがあっただろうか。もしかしたら、男性のほうが女房のように、誰にでも姿を見せるということはないのかもしれない」

男性たちが宮仕えを軽薄だと感じたわけ

現代人からしたら、清少納言が宮仕えの何をそんなに嫌がっているのか、今ひとつピンとこないかもしれません。

上流階級に属する女性は、他人にめったに姿を見せないことをよしとしていました。そうであるのに、宮廷に仕える女房は、前述したように、多くの者と接することになります。

そのことを軽薄だと世の男性は思い、清少納言も「そうかもしれない」と心のどこかで感じていたということです。

平安時代中期の公卿で日記『小右記』を書いたことで有名な藤原実資も、宮仕えについて「最近は、太政大臣や大納言の娘でも、父が死ぬと皆宮仕えに出るが、世間ではこれを嘆かわしいとしている。末代の公卿の娘は先祖の恥さらしというものだ」とまで日記に書いています。

また、関白を務めた藤原道隆の嫡男・伊周も「近頃は、高い身分の人の娘でも、皆、宮仕えに出るようだが、自分が死んだら、娘たちは好奇の目で見られることだろう。しかし、それは自分の恥になることだから慎んでほしい」との遺言を残したと言われています。実資よりはソフトな言い方ですが、やはり宮仕えは恥になることだと考えているようです。

宮仕えに対する冷ややかな見方があると受け入れつつも、清少納言は自分が宮仕えしていることもあり、どうしても宮仕えのよさも主張したいようでした。

「将来に大きな望みがあるわけでもなく、真面目に夫と家を守り、ささやかな結婚生活の幸せを思っているような人は、私には気が滅入るくらい馬鹿馬鹿しいものに思える。

相当な身分のある家の娘は、宮仕えをさせて、広く世間というものを見聞させ、典侍(上級の女官)などにして、しばらくお勤めをさせたいと思う」などとも言っているのです。さまざまな人と触れ合うことは、世間を知るきっかけになると清少納言は主張しています。


車折神社 清少納言社(写真: ogurisu_Q / PIXTA)

実際、娘が宮仕えすることは、家族にとってメリットになることもありました。実家の男性たちや、夫・息子の昇進に影響を及ぼす可能性があるからです。

紫式部と交流もあった赤染衛門は、息子の任官に精を出し、彰子に懇願、その望みを果たしています。

また紫式部の兄・惟規(※弟の説もあり)は、寛弘4年(1007年)に蔵人に任命されていますが、これも紫式部の宮仕えと多少は関係もあるのではないかとされています。

先程、紹介した藤原実資のような公卿であっても、養子の任官のために、彰子や女房に依頼したりしているのです。「天皇や皇后様に上手く取りなしてください」と頼み回る公家たち。そのような姿を目撃、いや体験することも、世間を知る1つの契機となったでしょうし、当時の女性たちの自尊心を満たすものではあったでしょう。

紫式部は宮仕えをどう思っていたのか

家にとって、実益となる面もありながら、男性たちは、なぜ、娘(女性)の宮仕えを「恥」「軽薄」としたのか。それは、宮廷での女房生活が、男女関係が乱れやすいものだったこともあると思います。

複数の親王との恋愛遍歴、奔放な恋愛で有名な平安中期の歌人・和泉式部の事例は極端かもしれませんが、大なり小なり、娘がそうしたことになりかねないのが、親にとっては恥と受け止められた可能性はあります。

では、肝心の紫式部は、宮仕えをどのように見ていたのでしょうか。『紫式部日記』には次のようにあります。

「私などは、人並みな付き合いができる人間ではないけれど、でも、恥ずかしい、つらいと思い知るようなことは免れてきました。それでも、宮仕えに出てからは、我が身の情けなさを存分に思い知りました」と。

紫式部もやはり宮仕えを恥ずかしいことと感じていたことがわかります。紫式部の日記の続きを見てみましょう。

「手紙を交わした友達も、宮仕えに出た私をどれだけ恥知らずで、思慮のない者と軽蔑しているかと思うと、それさえも、恥ずかしくて、とてもこちらから、手紙をやることなんてできない」

現代に生きるわれわれから見ると(何もそこまで思わなくても。きっと大丈夫だよ。友達もそんなこと思っていないよ)と励ましたくなりますが、それが紫式部の宮仕えに対する実感だったのです。

煌びやかな印象とはかけ離れた生活

紫式部は更に続けます。「奥ゆかしい生き方をしようと思っている友達は、私などに手紙を出せば、どうしても人目に触れる扱いをされると心配しているようだから、私というものをそんなに信頼してくれない人に、どうして私の思いがわかってもらえよう。しかし、宮仕えの身であれば、向こうが警戒するのも当然。自然と疎遠になる人も多い。実家に帰っても、訪れる人も少ない」と。

紫式部は未亡人となった寂しさを物語を作り、それを友人に見せることで紛らわせてきましたが、宮仕えにより、それも難しくなったようです。宮仕えというと、煌びやかで、女房たちもさぞかし自信満々、喜んで勤務していることと思いがちですが、決してそうではなかったのでした。

(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)