『ここじゃない世界に行きたかった』(塩谷 舞)

 年の瀬に自著『スマホ時代の哲学』に関するトークイベントを終え、新幹線で京都へと帰っているとき、塩谷舞さんからLINEがきた。『ここじゃない世界に行きたかった』文庫版の解説を執筆してほしいとのことだ。

 なんでよりにもよって哲学者に頼むの、と少し笑った。いくら親しい友人だとしても、日常エッセイの解説文を哲学者に書かせようとするのは、さすがに変化球がすぎる。でも、そういう天邪鬼は嫌いではない。依頼は迷わず受けた。

 最初に思い浮かんだのは、〈塩谷舞さんは、言葉を選んでいる書き手だ〉という一文だった。「エッセイで言葉を選ぶなんて当たり前」と思われるだろうから、その言葉の意味合いを説明するのは骨が折れる。

「先に答えを知ると、本質に辿り着きにくくなる」というエッセイには、誰かに読まれうる文章を完成させるまでの手順について述べている箇所がある。それによると、塩谷さんのエッセイは、「感じる、考える、知る、考える、そして文章にしていく」という順序で書かれている。

 予断を入れてしまえば、答えを確認するように体験することになる。そんなやり方では、空想が広がらないし、思考も深まらない。だから、先に自分で「感じる」必要があるし、その体験をもとに、まずは一人で「考える」必要もある。誰かの意見や理論を入れる前に、一人きりで感じ、考える。

 一人で感じ、考えることが先立つからといって、最初の感覚や考えが何よりも優先されるわけではない。一人きりで考えていては、見当違いの着眼点や意見になるかもしれないから、「知る」が欠かせない。

そうして〔考える段階で〕心ゆくまで勘違いしたのちに、解説文を読んだり、関連書籍に手を出したりするのだけれど。でもすでに、自分の脳内に勝手な物語をこしらえているもんだから、そこに書かれている「正解」は、共感と裏切りの連続だ。合っていても間違っていても、知れば知るほどに感極まる。

 書籍と感性を照らし合わせ、その一致と不一致の両方に心を揺さぶられる。だから、素直な言葉選びだと感じるエッセイだとしても、塩谷さんは、感じ考えた内容を無編集に言葉に置き換えたわけではない。

 興味深いことに、「心ゆくまで」「共感」「感極まる」というように、感覚や感情に関わる言葉が頻繁に使われている。そもそも、人間は自分の意思で「感じる」を止めることはできない。本のページをめくるときも、誰かの話を聞くときも、ノートにメモするときも、五感は働いているし、心は何かを感じている。

「知る」ことは「感じる」ことと区別できない。ここから、〈学んでいるときにも、絶えず感性は働いていることを意識した方がいいのではないか〉という教訓を引き出すこともできる。これまでの議論で十分参考になりそうだが、話はここで終わらない。

「(感じながら)知る」段階の後には、もう一度「考える」段階がやってくる。塩谷さんは、書籍の解説を相手に脳内で議論をふっかけることで、考えを進めているそうだ。「バスで、飛行機で、ホテルのベッドの上で、そんなことばかりしてずっと一人遊びをしている」。

 そこで生まれた脳内対話の記録を手がかりに、「曇りガラスの向こう側にあるぼんやりとした風景のようなもの」に輪郭を与え、言葉にしていく。ちゃんとした文章にしていくプロセスで、「自分がもやもやと何を考えていたのかも、そこでようやく理解できたりする」。

 塩谷さんのエッセイは、素朴に考えや感じたことを綴っているように見えなくもない。しかし、感じたことや知ったことを実況するように伝えているわけではない。感じたこと、知ったことを何度も反芻し、自分の考えにも、誰かの意見にも何度もツッコミを入れながら文章にしている。

 自分の書こうとしていることも、予め明確になっていないことが多い。だから、完成品に反映されないものも含む、数えきれない対話と編集を経て、彼女の文章はできあがっていると言える。この書き方は、とても効率が悪いし体力を使う。「いざ文章をちゃんと書くとなれば、とてもしんどい」と本人もこぼしている。

「感じる、考える、知る、考える、そして文章にしていく」。この体力と時間を蕩尽するような言葉の選び方は、一発当てて注目を集めることが価値を生む現代社会の「アテンションエコノミー」とは逆の方を向いている。言葉をつくることへの、そういうストイックさ。塩谷さんは、これだけ地道に泥臭く言葉を選んでいる。

 せっかくなら、実際に作られた文章を一瞥しておきたい。表題作の「『ここじゃない世界に行きたかった』――アイルランド紀行」から、少し引用してみよう。

やっぱりダブリンは雨模様で、たまりにたまった洗濯物が乾かせない。小さなヒーターの上に大量の洗濯物をぶらさげながら、部屋干しの香りがする中で、私はたまった感情をひたすら文章にしていた。

 この単純で短い文章から、言葉選びの特徴が三つ読み取れる。

 第一に、〈単純な語彙で素朴なことを語っているようで、注意深く読めばかなり情報量がある言葉選び〉。「私はたまった感情をひたすら文章にしていた」は、表現として地味にうまい。

 この文字列だけで、「普段から習慣的に感情をためてるんだろうな」と反射的に想像してしまう。モヤモヤを我慢するのでもスカッと発散させるのでもなく、蓄えた感情を「文章にする」ところには、うっすらと陰を感じる。「感じる、考える、知る、考える、そして文章にしていく」という非効率で体力を使うプロセスに、わざわざ飛び込むのだから。

 敏感な人は、「私はたまった感情をひたすら文章にしていた」という言葉だけから、こういうニュアンスをなんとなく感じ取る。彼女は、それだけ読み甲斐のある言葉を選んでいる。しかし、この陰影が読み取れないからといってエッセイを楽しめないわけでもない。シンプルな言葉選びがミソだ。単純にも深くも読める文章の書き手は、そう多くない。

 第二に、〈感性的な描写が差し挟まれる言葉選び〉。「私はたまった感情をひたすら文章にしていた」のような、印象的なフレーズが思い浮かんだとき、書き手はそれを色々な仕方で料理することができる。

 まず、読者の感情をもう一押しするような言葉遣いとセットにすること。そうすれば、もっと劇的に読者の感情を揺さぶり、自分の考えを印象づけることができる。それから、ただ「私はたまった感情をひたすら文章にしていた」とだけ書くこと。そうやって淡々と記せば、野暮ったくて説明的な文章にならずに済む。

 どちらも悪くない選択肢だが、塩谷さんは違う書き方を選んだ。「私はたまった感情をひたすら文章にしていた」と言うために、ヒーターと洗濯物の位置関係や、そこから漂う香りにわざわざ言及している。そこに何がどんな風に存在していて、それをどう感じているかという、感性的な描写を差し挟む。

 街の描写という観点からみても、言葉選びは明らかに感性に寄っている。「ダブリンは雨が多い」とか「洗濯物が乾きにくい」とだけ書いても構わないのに、乾かすためのヒーターがあるとか、洗濯物がどこにあるとか、その部屋に漂っている匂いだとか、自分の五感が捉えた情報が書き込まれている。

 塩谷さんの文章には、匂いだけでなく音や動きがタイミングよく出てくる。フラットに書いているつもりでも、言葉の並べ方には書き手の身体が宿るものだ。言葉選びには、その人の生活の雰囲気や佇まいがどうしても滲んでくるし、塩谷さんはその扱いがとてもうまい。

 第三に、〈読者が自分の連想に浸れるような、余白のある言葉選び〉。「五感の拡張こそがラグジュアリー」という文章まであるにもかかわらず、塩谷さんのエッセイでは感情や感覚の描写がずっと続くことはない。たまに出てくるくらいだ。

 しかし、そのリズムのつくり方は理に適っている。似たような情報がずっと続くと慣れてしまうし、単調で退屈に感じる可能性が高い。たまにしか出てこない方が、かえって印象に残り、読者の体験を左右することができる。

 文章を読むことで塩谷さんの「感じる」を追体験していると、その感覚や感情に関連する記憶の引き出しが開くことがある。ダブリンの雨模様と部屋干しの香りについて読んだとき、私もいくつか連想的に思い出した。京都のダブリンというアイリッシュパブで飲もうとすると曇りか雨になりがちだとか、ジェイムズ・ジョイスの『ダブリナーズ』には幽霊と雨や何かで濡れる場面が多かったとか、そういう他愛ない記憶だが。

 塩谷さんは、感性を大切にしながらも、感じたことをストレートに差し出すわけではない。なので、その文章には、読者が釣られて連想に浸れるだけの余白がある。それは、文章全体を感じたことの記述で染めてしまうような圧迫的な文章では成立しないゆとりだ。

 塩谷舞さんは、言葉を選んでいる書き手だ。それを説明するだけのことに、ちょっと張り切りすぎたかもしれない。色々述べてはきたが、実際のところ、私が塩谷さんの文章を好んで読むのは、その言葉選びに「夜」を感じるからだ。

 今日のインターネットでは、人目を気にする「昼の言葉」が力を持っている。魅力や価値、メリットをアピールし合うためのボキャブラリー。それは人気や注目を得ようとする言葉であり、構図を単純化してわかりやすくする言葉であり、人を動かすことに特化した言葉であり、他より自分が優れていると示すことに関心を集中させた言葉である。塩谷さんは、バズライターと形容されるほど、「昼の言葉」を巧みに操って仕事をしていた。どうすれば注目を集められるか、彼女にはなんとなくわかってしまうらしい。

 だが、言葉の世界にも夜がある。家族も街も静かに眠る深夜は、「誰の目を気にすることもなく、束の間の自由を謳歌できる夜遊びの時間」だ。そういう時間にこそ、人は言葉選びを急がずに立ち止まる。「夜の言葉」は、小さくて曖昧で、あれかこれかという単純な分類ができない。私が好んで読む書き手の言葉には、いつも夜の成分がある。

 騒がしい世界でかき消されそうになっている小さな声を聞き、それを誰かに届ける文章に翻訳するとき、「夜の言葉」を話す必要がある。そして、塩谷さんの言葉の軸足は、静かな夜にある。スポットライトを浴びない、「夜の言葉」を書く人だ。そういう反時代的な言葉の選び方をする塩谷さんの感性と知性を、私は素直に信頼している。