声優をしながらアルバイトを掛け持ちするトモヤスさん。睡眠時間を確保するために働く時間を減らしたいが、時給も上がらない、残業代も有給も取りづらいという中では、それもままならないという(筆者撮影)

現代の日本は、非正規雇用の拡大により、所得格差が急速に広がっている。そこにあるのは、いったん貧困のワナに陥ると抜け出すことが困難な「貧困強制社会」である。本連載では「ボクらの貧困」、つまり男性の貧困の個別ケースにフォーカスしてリポートしていく。

毎月の労働時間は合計で240時間

声優をしながらアルバイトを掛け持ちしているトモヤスさん(仮名、44歳)の1日は長い。

朝はIT関連の会社に出勤するため8時半に起床。6時間の勤務を終えた後、発声の講師や自身のレッスンの予定を入れる。夜は都心の居酒屋で閉店までホールに立つ。帰宅して眠りに就くのは空が白み始める午前4時ごろだ。このほかに収録や役を得るためのオーディションが入れば、“昼職”のほうのシフトを調整して臨む。

「分刻みのスケジュールです」とトモヤスさんは苦笑いする。睡眠時間は5時間も取れない。毎月の労働時間は合計で240時間を超えることもある。法律が定める労働時間の上限目安は月160時間なので、過労死ラインとされる月80時間の残業が常態化しているに等しい。

高校時代、演劇部に所属しながら声優の養成学校に通った。今ならパワハラと糾弾されそうな指導も当時は当たり前。講師の声優たちから罵声や灰皿を投げつけられながら、芝居やダンス、筋トレに明け暮れた日々は理不尽で過酷だったが、充実もしていたという。

「声優を志したときの熱い思いは、もう忘れちゃいました。でも、台本を通していろんな人生を生きることができる。この道を選んだことを後悔はしていません」

しかし、努力が実を結ぶとは限らないのが芸能の世界だ。周囲からは「30歳までに売れればいい」と言われたものだが、トモヤスさんは今も声優業だけでは食べていけない。レギュラーやゲーム収録などの仕事があれば別だが、ギャラがゼロの月もある。

アルバイトによる収入は手取りで月30万円ほど。労働時間を考えると低すぎる水準だし、家賃に約10万円がかかるが、声優との両立は可能にもみえる。しかし、実際にはオーバーワークせざるを得ない“業界の闇”があるという。

トモヤスさんによると、若手や、自身のような小規模な事務所に所属する声優が仕事を得るためには、キャスティング権を持つディレクターや音響監督が講師を務める事務所や学校主催のレッスンに参加しなければならない。その費用が毎月10万円はかかるという。

「(違法な)内職商法みたいなものですよね。でも、こちらも悪しき習慣とわかってて金を払ってる。実際、それで仕事ももらえているので……」とトモヤスさんは言葉を濁す。

置き去りにされている非正規労働者

最近は年齢のせいか腰痛や瞼の痙攣といった体の不調が増えた。声優を続けるには、働く時間を減らして睡眠時間を増やしたいが、収入水準は下げられない。となると時給を上げてもらうしかない。

特に夜間の居酒屋は働き始めて25年近くなるが、時給は1200円からほとんど上がっていないという。現場ではシフトや売り上げの管理を任されることもあるなど人間関係は良好なので転職はしたくない。一方で過去には賃金の未払いもあり、会社組織としては問題も多く、1人で賃上げを求めても門前払いされるのが落ちだろう。

そこでトモヤスさんが試みたのが、1人でも入れるユニオン(労働組合)に加盟して会社と交渉することだった。全国のパートや派遣労働者たち約3万人とともに「非正規春闘」という取り組みに参加、「一律10%以上の賃上げ」を求めたのだ。

非正規春闘は、個人加盟できる労働組合などが集まってつくる実行委員会が昨年からスタート。今年は107社に要求を行い、このうち59社から賃上げ回答を引き出したが、残りの48社はゼロ回答だった。賃上げ幅も平均すると、3、4パーセントにとどまったという。大手企業を中心とした春闘が「歴史的な高水準」などと評価される陰で、非正規労働者が置き去りにされている実態が浮き彫りとなった。


パートや派遣労働者の賃上げを求めた「非正規春闘」実行委員会による記者会見(2024年5月9日)。賃上げを勝ち取る一方で半数近い会社が「ゼロ回答」だったことから、実行委をつくる労組のひとつ、首都圏青年ユニオンの尾林哲矢さん(前列右から2人目)は「今後も交渉を続けていく」と語った(写真:非正規春闘実行委員会)

居酒屋の賃上げ交渉は続けるとして、トモヤスさんに言わせると、「ダブルワークの残業代が出ないこともつらい」。

仕事を掛け持ちする場合、法律上は合計の労働時間が法定労働時間を超えると、会社は25%の割増賃金を支払わなければならない。支払い義務があるのは後から雇用契約を結んだ会社。トモヤスさんの場合、1日の労働時間は10時間を超えており、勤続10年のIT関連会社に残業代を請求する権利がある。賃上げが無理でも残業代があれば、勤務時間を短くして体を休めることもできるはずだ。残業代が出ないとはどういうことか。

「請求していないので。そんなことしたら心証悪いですし、働きづらくなりますから」

法律で強制力を持たせればいい

雇用が不安定化する中でアルバイトを掛け持ちする人は増えているし、政府も働き方改革と称して副業を推進している。法律が労働時間を合算方式にしているのはダブルワーカーの長時間労働を防ぐためでもある。しかし、実際は「残業代をもらっている人なんてほとんどいないんじゃないですか」。

有給休暇の取得についても「僕が休むと別の誰かに負担がいくという空気の中では取りづらいです」という。IT関連会社にはかろうじて買い取り制度があるが、居酒屋のほうは毎年10日近い有給が消滅していく。

「(残業代も有休も)法律で保障された権利なんですが、実際には職場の人間関係を壊してもいいくらいの覚悟で“強く主張”しないと取れない。そうなると、いくら法律的に正しくても、行使はしづらいですよね」

ではどうすればいいのか。トモヤスさんは「法律で強制力を持たせればいいと思うんです」と提案する。労働者の側が請求、申請するのではなく、企業側の義務にすればいいという。私の取材実感でも、言い方は悪いが、口を開けて待っているだけで労働者の権利を享受できるのは、大手企業の正社員の中でも恵まれた職場に限られる。よくも悪くも「和をもって貴しとなす」という価値観が浸透している日本社会において、この提案はおおいに検討する価値があるのではないか。

また、トモヤスさんにとっては社会保険に加入できないことも長年の懸案だった。非正規労働者への適用拡大が進む中で昨年、IT関連会社のほうでようやく健康保険と厚生年金に加入することができた。しかし、「将来のことを考えたら、もっと早く加入したかったです」。

トモヤスさんの話からは、非正規労働者のセーフティネットの構築が置き去りにされてきたことがよくわかる。トモヤスさんには付き合っている女性がいるが、彼女も派遣社員。2人とも不安定雇用であることが、結婚に踏み切れない理由のひとつだという。

“売り手市場”の実感はない

一方でトモヤスさんは、いずれの職場でも勤続年数は長く、新人の教育係や店長業務を任されることもあったという。この間、声優をやめて正社員の仕事を探すという選択肢はなかったのか。私が尋ねると、トモヤスさんは「僕の年齢だと、正規雇用で働けるまともな会社を見つけるのは難しいです」という。

業界を去っていった知人は大勢いるが、彼らの多くは就職活動に苦戦しているし、ようやく見つけた転職先が悪質企業だった、セクハラに遭ったという話も耳にする。最近は人手不足で“売り手市場”というニュースも聞くが「僕が知る限りそんな実感はないです。転職のリミットは30代前半くらいじゃないでしょうか」。自分はそのタイミングを逸したという自覚がある。ならば「細い道ではありますが、この世界で成功したい」とトモヤスさんは言う。

話はずれるが、今でこそ人気職業のひとつである声優だが、かつては「声優は役者じゃない」などとして業界の中でも一段低くみられた時代もあった。ギャラの面でもタダ同然で使われることも珍しくなかったという。

こうした待遇を改善するために立ち上がったのは、「サザエさん」磯野波平役の永井一郎さんや「ルパン三世」石川五ェ門役の井上真樹夫さん、「ドラえもん」スネ夫役の肝付兼太さん、アラン・ドロンなどの吹き替えを務めた野沢那智さんら、すでに鬼籍に入った数多くのレジェンド声優たちだ。

1970年代、彼ら自身はすでにメインを張る立場だった。しかし、後に続く後輩たちのためにチラシをまき、ビラを貼り、デモを行い、ストライキを打ち、制作会社と直談判を行った。これにより再放送料や二次使用料のルール化や、ギャラの最低水準を定めた「ランク制度」の導入を勝ち取った。

翻って現在。昨年、個人事業主である声優にも多大な影響を与えるインボイス制度が導入されたとき、「廃業に追い込まれる声優が続出する」などと意思表示した有名声優は私が知る限り、「SPY×FAMILY」の甲斐田裕子さんら数人だけだった。多くの同業者たちも、かつては先輩たちが勝ち取った成果の恩恵に浴したはずなのにと思うと、複雑な気持ちになった。

私の愚痴のような語りに、トモヤスさんは「時代ですよね」と笑う。「僕が団体交渉とかに抵抗がないのは、当時の声優の姿をぎりぎり知っているからかもしれません。でも、周囲からは『どうしてユニオンなんかに入るの?』って言われますよ」。

声優としての成功を目指して四半世紀。トモヤスさんは自身の半生をどう振り返るのか。

実力主義が幻想だという残酷な現実

「若いころはうまければ売れると信じていました。でも、実際は時代のトレンドや役との出合い次第だったりします。みんな努力して、苦しんでる。実力主義が幻想だと気づけたことで優しくなれたといいますか……。いろんな事情、状況の人が生きていていいんだと思うようになりました」


この連載の一覧はこちら

トモヤスさんのテノールボイスは若々しく、艶があった。出演作も見たが、声だけで人の心情を表す演技力は第一線で活躍する声優たちと比べても申し分なかった。しかし、それは力があっても売れるわけではないという残酷な現実を証明しているようでもあった。それに年齢やキャリアを考えると、渋い役や老人役を振りづらい高めの声質はもはや武器にはならないのだという。

「夢を諦めても、追いかけ続けてもいい。でもどちらを選んでも“普通”に生きていける社会になればいいなと思います」

非正規春闘では、居酒屋を運営する会社の回答は時給の3%アップだった。しばらくは交渉を続けるつもりだが、妥結すればすべてのスタッフの給料が上がる。分刻みのスケジュールの中で奮闘するトモヤスさんの姿が、仲間のために奔走した往時の声優たちに重なった。

本連載「ボクらは『貧困強制社会』を生きている」では生活苦でお悩みの男性の方からの情報・相談をお待ちしております(詳細は個別に取材させていただきます)。こちらのフォームにご記入ください。

(藤田 和恵 : ジャーナリスト)