by Grant Hutchinson

Appleが1984年に発売した「Macintosh 128K」は、当時としては低価格な2495ドル(約39万円)ながら、その多機能さから複数のユーザーに親しまれ、記事作成時点でも続くMacブランドの礎を築きました。そんなMacintosh 128Kの開発の経緯について、海外メディアのIEEE Spectrumが解説しています。

Designing the First Apple Macintosh: The Engineers’ Story - IEEE Spectrum

https://spectrum.ieee.org/apple-macintosh



Macintosh 128Kの開発が始まったのは1979年のことで、当時のAppleは好評だったApple IIの後継機種としてApple IIIを販売していましたが、その価格の高さと信頼性の低さから販売不振に陥っていました。

そこでApple IIチームのジェフ・ラスキン氏はAppleに対し、トースターのように使いやすい、「まるで家電のような」低コストのコンピューターを開発することを提案。しかし、当初はLisaの開発が進められていたことから、ラスキン氏の意見はあまり歓迎されませんでした。

それでもラスキン氏は、かつてApple IIの論理回路の研究を担当したエンジニアのバレル・スミス氏をMacintoshチームに引き入れました。一方で、Appleの取締役会は1980年9月にMacintoshプロジェクトを停止、Appleにとってより重要なプロジェクトに参加するように要請しましたが、当時Appleの副社長だったスティーブ・ジョブズ氏がMacintoshプロジェクトのマネージャーに就任することでプロジェクトの継続に関する承認を得ることに成功しました。

Macintoshチームはジョブズ氏の元で着実に予算と人員を増やし、1981年初頭には20名にまで増えました。しかし、一部のApple従業員からは「Macintoshプロジェクトはスティーブの愚行」と呼ばれていたとのこと。

Macintoshは「安価な部品を使用しつつ、部品の点数をできる限り少なくする」「マウスを操作してプログラムを起動するインターフェースを開発する」「少ないメモリで遅いと批判されていたLisaのソフトウェアよりも高速に動作させる」ことを目標に開発が進められました。開発時点ではMacintoshのスペックに関して、明確な定義がエンジニアに対して与えられることがありませんでしたが、スミス氏は「ジョブズ氏は、問題と解決策を同時に具体化させてくれました。私たちエンジニアの多くは、作業を進めながらコンピューターを定義することを好んでいます」と述べています。



Macintoshプロジェクトでは、各メンバーがデザイン全体の比較的大きな部分の開発を担当し、代替案の検討の際にはチームの他のメンバに自由に相談できるという方法が取られました。一部のエンジニアは「一部のマネージャーの中には、自身が主導権を握りたがる人がいます。しかし、ジジョブズ氏が私たちをコントロールしようとすることはありませんでした」と語っています。

また、チームでは毎週会議が開かれ、チームメンバーがそれぞれ前の週に何をしたのかの共有が行われました。加えて、競合他社の製品が発売されるたびに、それを購入、分解して自分たちの製品開発に取り入れました。そして、必要な部品が増大し製造が難しくなった結果、コストがかかり、信頼性も低下する競合他社のPCを分解することで、プリント基板を2枚に抑えつつ、スロットやバッファ、バックプレーンを搭載しないというMacintoshの開発方針が定められることになりました。



その後チームでは、画像描画APIの「QuickDraw」を快適に動作させるためにモトローラ製のMPU「MC68000」を搭載することや、Macintosh用のOSをゼロから開発することなどが定められました。

1982年1月までに開発チームはMacintosh用のソフトウェア「ユーザー・インターフェース・ツールボックス」の開発に着手。64KBしかないRAM容量で動作するMacintosh用OSのウィンドウやプルダウンメニュー、スクロールバー、アイコンなどのオブジェクトの構築が進められました。加えて、Macintoshを非英語圏の国で販売することを目標に、プログラム内のテキストを外国語に簡単に翻訳する方法の開発も行われ、コンピューターコードとデータはソフトウェア上で分離され、プログラムのデータ部分をスキャンすることで、複雑なコンピュータプログラムを解くことなく翻訳可能という手法がとられました。

Macintoshでは、部品点数を減らしつつ将来的な有用性を高めるため、プリンターやローカルエリアネットワークなどの周辺機器との接続に2つのシリアルポートを採用しました。当時のシリアルポート用部品は1個当たり約9ドル(約1400円)と比較的高価で、Appleに対しシリアルポート用部品をメーカーから取り寄せさせるのには苦労したとのこと。それでも、Macintoshの起草者であるクリス・エスピノーサ氏は「ジョブズ氏の交渉能力のおかげで部品の取り寄せに成功しました」と振り返っています。

1981年秋には、Macintoshの量産に向けて、カリフォルニア州フリーモントに工場の建設計画が立案されました。同時にジョブズ氏は「本物のアーティストは完成品を出荷する」と述べ、チームに最終プロトタイプの納品と1983年5月に出荷を開始することを命じました。最終プロトタイプの開発は過酷を極め、コンピューターの回路密度によるボトルネックやドット密度の問題、カスタムチップの設計の遅れといった問題を抱えつつも開発が進められました。



by Philip Brechler

1982年秋に工場が建設された際には、Macintoshのデザインは最終形に近づいていました。しかし、サウンドジェネレーターのハードウェアは完成していたものの、コンピューターが音を出せるようにするためのソフトウェアは依然として開発が進められていなかったとのこと。この状況を見たジョブズ氏はチームに対し「月曜の朝までに音が出なければ、サウンドジェネレーターのハードウェアはMacintoshに搭載しません」と通告。これを受けてチームはただちにソフトウェアの開発を進め、わずか3日間で4つの音声が出るようなソフトウェアを作り出すことに成功。

Appleが2000万ドル(約31億円)を投じて建設したMacintosh工場では、Macintoshに搭載される基板やディスプレイなどのチェックが行われ、1984年1月、ついに最初の販売可能なMacintoshの生産が開始。当初のMacintoshの生産台数は不安定でしたが、生産ラインの安定化に伴い、その後は27秒に1台の製造が可能になり、年間約50万台が出荷されました。



by Matthew Pearce

その後のMacintoshは記事作成時点でも続く一大PCブランドとなっていますが、スミス氏は「今やAppleは大企業です。今ではマネージャーがマネージャーを従えており、かつてのMacintosh開発チームのような小さくまとまったチームはもはやAppleに存在しません」と述べています。