慶応義塾大・堀井監督×立教大・木村監督「高校の同級生対決」の行方は?「親友としてつらいですよ」
高校時代の同級生であり、親友......かつてチームメイトだったふたりが同じ野球の道を歩き続けている。しかも東京六大学リーグでそれぞれの母校の監督として指揮を執り、5月4日に初対決を迎える。
韮山高の同級生である慶應義塾大・堀井哲也監督(写真左)と立教大・木村泰雄監督 photo by Ohtomo Yoshiyuki
慶應義塾大の堀井哲也監督と今春から立教大の監督に就任した木村泰雄監督。
富士山を背に西に駿河湾、東に相模湾の景観を見渡すことができ、温泉が湧く別荘地の伊豆韮山。世界遺産にも登録されている大砲つくりの韮山反射炉もある。それらの風光明媚な歴史名所に囲まれた県立韮山(にらやま)高校。昨年創立150周年を迎えた伝統校だ。
韮山高野球部は、今でこそ県大会を勝ち上がるのが難しく早々と姿を消してしまうことが多いが、かつては全国にその名を知らしめた時があった。今から74年前の1950年、センバツ甲子園大会で初出場・初優勝の偉業を達成。その後、1995年の夏の甲子園にも出場した。
堀井と木村の高校時代は、2年時(1978年)の夏に東海大一高(現・東海大静岡翔洋高)と2回戦で対戦し延長11回の末に敗退。3年夏は島田商を木村の完投で下したが、次戦の修善寺工(現・伊豆総合高校)にエラーで敗れ、早々に姿を消すなど華々しい戦績は残せなかった。
左打ちの外野手だった堀井は高校卒業後、慶應義塾大に進学。2、3年時に2度の代打出場を果たしたが無安打。4年春に立教戦で遅まきながら初安打を放った。この日、同級生の木村はスタメン出場して2安打しており、それをベンチから見ていた堀井が発奮。「自分も続くぞ」と記念すべき一打につなげた。
就職は教員志望のつもりだったが、「野球ができるなら」と三菱重工川崎に進み、4年間プレー。現役引退後はマネージャーを経て、1993年に新設された三菱自動車岡崎に転籍。ここでもコーチ、マネージャーをしたあと、1997年から監督に就任。ここから堀井の指導者人生が本格的にスタートすることになる。
一方の木村は、一浪の末に立教大に入学。3年春は通算41打数11安打。ベストナインこそ逃したが、打撃10位と好成績を残した。
堀井が卒業後の4年秋には、当時16連勝しての記録更新中だった法政大の西川佳明(のちに南海に入団)から、9回に決勝のホームスチールを決め、連勝記録をストップ。翌日のスポーツ紙には『まさかの"本盗"に"本当!"』の見出しが躍った。
【2013年に都市対抗で対戦】堀井は「命令」「強制」「怒号」などを否定した指導で、三菱自動車岡崎を常勝軍団に育て上げた。監督就任2年目の1998年にいきなり都市対抗初出場。2001年には都市対抗準優勝を果たした。
その後、2005年にJR東日本の監督に就任。2009年から10年連続で都市対抗出場を果たし、うち準優勝4回、2011年には優勝を成し遂げた。また2009年と2012年から2014年までは、社会人日本代表のコーチを務めた。
2019年12月に慶應義塾大の監督に就任した堀井は、2021年に春のリーグ戦を制すると、全日本大学野球選手権でも優勝。秋のリーグ戦も制し、いきなり手腕を発揮。2023年にも秋のリーグ戦、明治神宮大会で優勝するなど、いまや押しも押されぬアマチュア球界屈指の名将となった。
この間、木村はどうしていたのだろうか。1985年に地元の古豪・大昭和製紙(のちに日本製紙に合併し改名)入社し、8年間プレー。現役引退後は社業に戻ったが、2009年に日本製紙石巻の監督に就任し現場復帰。
「自ら思考し、自ら実践する」をスローガンに、指導者としての才能を発揮。就任2年目の2010年、チームを都市対抗初出場に導いた。さらに2013年は、2011年に起きた東日本大震災により、グラウンドの瓦礫撤去作業などに追われ満足な練習はできなかったが、復興のシンボルとして2度目の都市対抗出場を果たした。
この時、ベスト8まで勝ち上がり、JR東日本と対戦。お互い監督として、初めて対決することになる。結果はJR東日本が4−0で勝利したが、日本製紙石巻はこの大会での健闘ぶりが称えられ小野賞(大会ですばらしい活躍をした監督、選手、チームに贈られる特別賞)を獲得した。
ひとつの結果を出した木村は、受賞を機に監督を退任。その後は社業をこなし、出向した日本紙通商では取締役まで務めた。それでも野球好きの木村は、盟友である堀井の紹介で、土日は戸田東リトルシニアのボランティア監督を経験。2023年2月に取締役を退任し、同年6月に立教大のコーチに就任。そしてこの春から監督となった。
木村よりひと足早く大学野球の監督となった堀井は言う。
「今までは社会人野球のほうが、プレッシャーがかかると思っていたが、学生野球には社会的な重さと責任があるのでやりにくい。少なくても春秋2試合ずつ対戦しなくてはならないし、必ず勝敗がつきます。しかも学生やOBの前で、母校のユニフォームを着て結果を出さなくてはならない。木村とは、今までのように簡単に連絡を取り合ったりはできないでしょう。お互いにユニホームを脱ぐまでは、会う機会も少なくなると思います。親友としてこれはつらいですよ。木村のことだから、しっかりチームを仕上げてくるでしょうし、立教戦はタフな試合になるでしょう」
堀井の言葉を木村に伝えると、苦笑いを浮かべこう述べた。
「何言っているんですかね。自分はまだ神宮での監督としての実績がゼロなのでなんとも言えません。彼のほうが遥か先を行っていて、自分としては堀井と対戦できるだけで光栄です。『自ら思考し、自ら実践する』精神で胸を借りるつもりです。とにかく同級生ということをあまり意識しないように、胸を借りるつもりです」
正月にはふたり揃って、韮山高の龍城山グラウンドを訪ねた。現役の選手たちに指導し、教室ではミニセミナーを開いたという。
長い間、同じステージを歩み、戦法まで知り尽くした同級生対決の行方は......。
(文中敬称略)