最強家臣団「徳川十六将」の知られざる実像

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2023年の大河ドラマ『どうする家康』でも話題となった徳川家康には、最強家臣団がいた。側近として家康に仕えた酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の四天王。さらに、服部半蔵・渡辺守綱など12人を加えた部将たちは「徳川十六将」と呼ばれていたが、彼らはいったいどのような人物だったのだろうか。

◾️最強家臣団「徳川十六将」とは

『徳川十六将 伝説と実態』(菊地浩之著、KADOKAWA刊)では、「徳川十六将」の武将たちはどんな人物だったのか、従来のイメージを覆す逸話を紹介しながら「戦国最強家臣団」の実像に迫る。

「徳川十六将図」は掛け軸や図版化されて江戸時代に広まった。武将の一群を描いた類似商品として「武田(信玄)二十四将図」「上杉(謙信)九将図」「黒田(長政)二十四将図」「加藤(清正)十六将図」などがある。巷間では軍団絵・武家集合画像などと呼ばれているが、武将画に詳しい美術史学者の守谷正彦氏は、ドイツ語のGruppenbild(集団肖像画)という概念が最も近いという。その中で最もポピュラーなのが「徳川十六将図」と「武田二十四将図」だ。

なぜ「徳川十六将図」は16人という人数に制限したのか。16という数字からは、宗教的、特に仏教的な要素の名数を多く見出すことができる。たとえば、十六尊、十六善神、十六羅漢、十六大護、賢劫十六尊などが挙げられる。さらに、十六善神は大般若経を守護する護法善神のことで、「徳川十六将図」はこれらをイメージして、家康の守護を目的として描いた図様であることが推測されている。

では、「徳川十六将図」に描かれた武将はどんな人物だったのか。徳川四天王の一人である酒井忠次は、家康より15歳年長で、徳川家の重臣の家に生まれ、兄の酒井将監忠尚の失脚により、筆頭家老となった。家康は若手の中から本多忠勝や榊原康政のような猛将を好んで抜擢したが、忠次は彼らとは全くタイプの異なる知将であり、大局観があって無駄な戦さを好まず、家康に出陣を諌めることも少なくなかった。戦況を見極める能力に優れていたので、戦いをどう進めていくかを家康にたびたび進言している。情報収集能力・判断力に優れ、先鋒や先遣隊、殿軍を任されることもあった。

また、忠次はユーモア溢れる性格でもあった。天正4年(1586)年3月に家康が北条氏政と会見したとき、忠次は酒宴で海老掬いという滑稽な宴会芸を披露したという。仕事ができて、宴会も盛り上げる武将だったのだ。

「徳川十六将図」から歴史や武将の実像を綴った本書。「徳川十六将」という切り口から歴史を見ると、これまでとは違った景色が見られるかもしれない。

(T・N/新刊JP編集部)

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