きょうだい2人による母親の看取りのリアルに迫ります。写真は1984年2月、母親と長男2歳・次男0歳の頃(写真:佐藤さん提供)

人はいつか老いて病んで死ぬ。その当たり前のことを私たちは家庭の日常から切り離し、親の老いによる病気や死を、病院に長い間任せきりにしてきた。結果、死はいつの間にか「冷たくて怖いもの」になり、親が死ぬと、どう受け止めればいいのかがわからず、喪失感に長く苦しむ人もいる。

一方で悲しいけれど老いた親に触れ、抱きしめ、思い出を共有して、「温かい死」を迎える家族もいる。それを支えるのが「看取り士」だ。

母親がふいに目を開けて涙を見せた理由

「本当によい息子たちに育てましたね」

看取り士の稲熊礼乃(いなぐま・あやの)が帰り際、ベッドに横たわる知子さん(69歳、仮名)にそう話しかけた。2人の息子たちの了解を得て、稲熊がその手に触れたときだった。

命の瀬戸際にある知子さんを囲んだ兄弟の、やさしい愛情に満ち満ちた空間を感じ、ふと口をついて出た言葉だった。

高熱で苦しそうだった母親は、「ううっ」という嗚咽とともに目を開け、無言のまま涙をこぼしてから、稲熊を見てにっこりとほほえんだ。直前まで息子たちが声をかけても目を閉じたまま、何の反応も見せなかったのに、だ。

それまで往診医や看護師の声がけにさえ、明確な反応を見せたこともなかったから、長男の佐藤拓也(41歳、仮名)も驚いた。

「聞こえていらっしゃるんですよ」

稲熊はそうつぶやいた。2023年5月の連休中だった。

腎臓からリンパ腺へのがん転移や、約4年前の脳出血を含む10年もの療養生活で、拓也は「母親のために何かできることがなかったのか」という無力感に苦しんできた。だから冒頭の稲熊の言葉はほんの少し、拓也をもホッとさせた。

「私も母も、稲熊さんとは当日が初対面で、母は朝から熱にうなされていて、笑顔を見せられるような状況じゃなかったんです。それなのに母はちょっと笑って、言葉がうまく出ないのに、稲熊さんに何か言いたそうでしたから」(拓也)

彼は当初近くの喫茶店で稲熊と会い、看取り士の派遣についてくわしく話を聞くつもりだった。だが、母親の容態急変で家を空けられないと判断し、稲熊に急きょ実家に来てもらうことにした。

稲熊より先に往診に来ていた在宅医は、母親は脱水状態だが、点滴は体調を考えると負担が大きすぎてできないと伝えた。「もはや入院レベルだと思いますが、どうされますか?」と、知子さんの夫(72歳)と、息子たちに尋ねた。

拓也はきっぱりと即答した。「容態がよくなるのなら入院させてもいいですが、とくに今と変わらないなら、母はこの住み慣れた家にいたいと思います」

病院嫌いな彼女が一番幸せを感じられる場所

拓也が断言したのには理由があった。

約4年前に発症した脳出血で手指と下肢にマヒがあって歩行困難だった。自宅に戻る前にできるだけ体を動かせるようにしておく必要があり、母親は病院で約1カ月間リハビリを続けた。その間、母親は病院から拓也に毎日電話をかけてきては、こう繰り返した。

「誰か来てくれないと、こんなところにいたくない、もう耐えられない」


デイサービスに通っていたころの知子さん(写真:佐藤さん提供)

それほど病院嫌いだったのか、と拓也は痛感させられた。

「ですから最期ぐらい、本人が幸せだと感じられる場所で、できるだけ長く過ごしてもらいたい。それは家族に囲まれた実家じゃないかと思いました」(拓也)

母親が亡くなってからのことも彼は考えた。

「コロナ禍の病院で最期を迎えた場合、僕たち家族が母に会えなかったり、会えたとしても指1本触れられなかったりする可能性が高い。それはどうしても避けたかったんです」

拓也がYouTubeで看取りについて調べると、看取り士という存在を知った。家族が抱きしめて看取れることを支え、亡くなってから数日間は自宅で家族と一緒に過ごしてから葬儀を行うことを勧める仕事だと知り、拓也は日本看取り士会に連絡した。

「自分たちができることはありませんか?」

在宅医が帰った後、拓也が看取り士の稲熊に尋ねると、彼女は「他に家族はいますか?」と尋ね返した。次男である拓也の弟(40歳)には妻と2歳の娘がいたが、母親の容態を気にして、その日は弟1人で来ていた。

「時間が許す限り、ご家族の皆さんでお母様に会いに来てあげてください。体調が悪いからと遠慮せず、ここで家族だんらんの時間を過ごしてください」(稲熊)

だが翌日、事態は急変する。

「午前中は母の熱が下がり、意識もはっきりしていて、訪ねてきた弟の娘がはしゃぐ様子を、ベッドからうれしそうに見守っていました。僕たちも(母の体調が)よくなっていくんだと思っていたので油断していて、母がいつ息を引き取ったのかもわからないんです。誰も、その最期に立ち会うことができませんでした」


デイサービスで初詣をしていた母親(写真:佐藤さん提供)

同じ屋根の下にいながら、母親の死に目に立ち会えなかった後悔。拓也は涙ぐみながら自らを責めていた。翌日の夕方6時すぎ、彼からの電話を受けて稲熊が到着すると、先に着いていた主治医が死亡時刻を確認したところだった。口元を悔しそうにゆがめる拓也に稲熊は静かに伝えた。 

「それは違いますよ。お母様はご家族の皆さまに囲まれ、お孫さんの遊ぶ姿も見てその成長を喜ばれ、息子さんたちの会話も聴きながら、とても幸せで安心していらしたと思います。だから、そのときを選ばれて旅立たれたのです。これからが、お母様からのいのちのバトンを受けとるときなんです」

その言葉に、拓也はつらい気持ちを少し救ってもらえた気がした。

「旅立つ人が自分の最期をプロデュースする」

「旅立つ人が自分の最期をプロデュースします。家族は何も心配することなく、旅立つ本人にすべてを委ねて、その体に触れながらそばにいればいいんです」

それは前日、稲熊が看取り士の死生観を伝える中で、拓也もすでに聞かされていたことでもあった。

だが昨日の今日だったから、看取りの作法を練習することもなく、ぶっつけ本番で行うことになった。稲熊からうながされた拓也は母親のベッドに上がった。あぐらをかいて座り、自分の左太ももに横たわる母親の頭をのせて、そっと顔を近づけた。

「母の顔を真上から見下ろしたことも、その体を抱きしめたことも初めてでした。車椅子からトイレの便座に移動する際に、抱きかかえたことはありましたが……。パジャマ姿の母はまだ温かくて、ほっぺたも含めてとても柔らかで、まだ生きているように感じました」(拓也)

それまでは母親の死が近いことを感じ、冷たく硬くなった遺体を想像することが、彼には恐怖だったからだ。

しかし実際には、母親は居眠りでもしているかのような穏やかな表情を浮かべていて、身体にも確かな温もりがあって、拓也の先入観とは正反対だった。弟の2歳の長女も手でその顔に触れるほどだった。

拓也に続いて、次男がベッドに上がって母親を抱きしめた。だが、稲熊が何度勧めても、父親は涙を流しながらそばにはいるが、母親の体に少し手を触れる程度で、同じ部屋にあるソファに1人座ったままだった。

稲熊は頑なな父親に、いつもどこで休んでいたのかを尋ねた。

「隣の和室で布団をしいて寝ている。家内も介護ベッドを使うまでは、こっちの部屋で一緒に寝ていたけどな……」

夫妻が和室で一緒に寝ていたのは、知子さんが脳出血による歩行困難で、要介護状態になる前の話。エレベーター付きの現在の住まいに転居後は、知子さんは介護ベッド、父親は隣室で布団をしいて別々に寝ていた。

それなら母親をそちらの部屋で寝かせてあげましょうと稲熊が提案し、息子たちも同意した。すると父親も少し照れながら、かつ緊張もしながら拓也をまねて、和室に移された母親の後頭部を自身の太ももに載せ、黙ってその体に手を回した。

兄弟も初めて見る父親の姿だった。


写真は1982年1月、0歳の長男・拓也をあやす知子さん(写真提供:佐藤さん)

父親は仕事が忙しかったこともあり、母親はもちろん、自分たち兄弟にもそんな愛情表現を見せたことがなかった。

「おれは(妻が)生きてるうちに、こんなことを一度もやったことがない」

問わず語りに父親がぽそっと漏らした。

そんな両親からは視線を外して拓也は稲熊に話した。

寡黙な父親の抱擁と懺悔と回想の時間

「自分たち兄弟は子供の頃、本当に出来が悪かったんですが、母に勉強ができないことで怒られたことは一度もありません。父に通信簿を見せると僕たちが怒られるからと、父には見せずにいてくれて、本当にいつもやさしい母でした」


幼稚園でお遊戯をする長男5歳と母親(写真:佐藤さん提供)

すると父親は母親を抱きながら、「本当におれは一度も見せてもらえんかった」と言い、表情をゆるめてみせた。

その後、兄弟が席を外して、稲熊と2人になると、父親はこう切り出した。

「息子たちに言ったことはないが……、息子たちは本当に母親にやさしいけど、おれはこいつにそんなにやさしいばかりではいられんかった。だから、きっとおれのことを恨んでると思う……」

最後は小さな声で懺悔(ざんげ)するかのようだった。だから、その体に触れることをためらっていたのか、と稲熊は察した。

拓也が看取り士に依頼したいと言い出した際も、お前たちがやりたいようにすればいいとすぐに容認したのも、母親と息子たちの絆をよく知っていたからだったのだろう。

「終わりよければすべてよし。(ご主人に)抱きしめてもらって、息子さんやお孫さんたちに囲まれるなんて。こんな幸せな最期はないじゃないですか。奥様はもうすべてを許してくださっていますし、きっとご主人にも『ありがとう』っていわれています。毎日が仲良しの夫婦なんていませんよ」

稲熊の言葉に父親は顔をゆるめ、慣れない抱擁の緊張感もとけたらしく、母親に楽しかった思い出をぽつぽつと語り始めた。

日本看取り士会の柴田久美子会長は、旅立った本人と家族が過ごすときを「仲良し時間」と呼ぶ。自分たちが元気で輝いていた頃の思い出を共有し合う場になるからだ。

一方、家族の軌跡には、恨みつらみなど負の感情や思い出がからんでいることも多い。

「ですから、それらの否定的なものまでを互いに許し合う『和解の時間』でもあります。奥様を抱きしめようとされないお父様に、稲熊が何度も声がけをさせていただき、その時間を無事に完成させることができたのではないでしょうか」(柴田会長)

父親と兄弟をつなぎ直すという役割

「まだ元気とは言えませんが、思っていたよりは大丈夫です」

母親の葬儀から約1カ月後、拓也は稲熊に会いに来て伝えた。

「あれから実家で4日間、母と一緒に過ごしたんですが、日々何かにつけて母に触れては、少しずつ冷たくなっていくことを確かめながら、その死を家族それぞれが受け入れることができたような気がします」(拓也)

母親を今見送れている――そんな感覚があった。振り返ると、病院ではけっして望めない大切な時間だったという。

拓也によると、父親は普段から口数少なく、母への感謝を口にしたことはなかった。母親も控えめな人で、父親に不満をぶつけたりすることもなかった。

「僕たちに家族にとっての父は、ずっと『何を考えているのかわからない人』でした。脳出血で倒れた母親を約4年間1人で介護をしてくれたことには感謝していますが、その間に『お母さんにもっとやさしくしてあげてよ』と、僕はじかに何度か言ったりしましたから」(拓也)

だから稲熊に言われるままに母親に膝枕をして抱きしめた父親には、「そんなことをする人だったんだ」という驚きと、「最後の最後に(父に)やってほしかったことだ」という思いが交錯した。

同じ家で過ごした4日間は、父親の言葉が聞こえない程度の距離を時々とり、2人だけの時間を過ごしてもらえるように努めていたという。

「あの場で母に触れて感情を出す機会を逃したら、今度は父が喪失感によるショックで危ないんじゃないか、という心配もありましたから」(拓也)

父親が稲熊に語った話を今回聞けて、拓也も安心することができた。1カ月近くを経て、亡き母親を想う気持ちを父子でつなぎ直す機会になった。稲熊という第三者がいなければ、寡黙な父の本音に息子が触れることもなかっただろう。

言葉にならないやさしい時間が、実家で積み重ねられた4日間でもあった。


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(荒川 龍 : ルポライター)