戦国時代になんとハーフの武将がいた!その風貌から「人鬼」と恐れられた戦国武将・和仁親宗と一族の悲劇
意外なことに戦国時代の武将の中には、母親が外国人の戦国武将がいました。その人物は和仁親宗(わに-ちかむね)。
あまりの日本人離れした風貌から「人鬼」と恐れられていたそうです。また、その一族も悲劇的な最後を迎えておりました。
今回は、和仁親宗の生い立ちと人鬼と呼ばれた理由の他に和仁一族の悲劇的な最後も合わせてご紹介します。
左から和仁親宗、親実、親範
和珥氏末裔の一族・和仁氏
菊池政隆/Wikipediaより
和仁氏は5世紀ごろに奈良盆地東北部に勢力を有していた和珥氏の末裔とされる肥後国(現在の熊本県)の国人で、当初は肥後菊池氏に仕えていました。
菊池氏本家の菊池政隆が国人衆の謀反により自害すると、大友氏や阿蘇氏が家督を横取りするようになります。
そして、菊池義武を最後に肥後菊池氏は滅亡。義武が大友氏出身だったこともあり、以後和仁氏は大友氏に従属することになります。
父がオランダ人と子を成す
大友宗麟/Wikipediaより
大友氏の当主が大友宗麟だったころ、宴会の席で親宗の父・和仁親続はポルトガル人から与えられたオランダ人を宗麟からもらい受けました。
宗麟から子どもを作るよう勧められたこともあり、親続はオランダ人との間で子を成します。こうして、ハーフの戦国武将・和仁親宗が誕生しました。
親宗の母は「南蛮様」と呼ばれ、丁重に扱われましたが、慣れない環境と気候により親宗が幼少期に病死してしまいます。
亡くなる前に「オランダに繋がる海が見えるよう高い場所に埋めてほしい」と遺言を残したことから和仁氏の居城・田中城近くの山に埋葬しました。
そして、その場所は南蛮毛と呼ばれ、現在も上和仁(熊本県玉名郡和水町)にその名が残っています。
父から人鬼と呼ばれる
龍造寺隆信/Wikipediaより
母を失った親宗は、幼少期より父に疎まれて過ごしました。
他の兄弟である長兄・和仁親実(わに-ちかざね)や三兄・親範と違い、「顔が赤く、目は光り輝き、手足は熊のごとく力強く、動きが俊敏」と異質な見た目だったことから実の父から人鬼と呼ばれていました。
やがて、大友氏が衰退すると親続は龍造寺氏に従属します。そして、天正12年(1584)に龍造寺隆信が沖田畷の戦いで戦死すると、家督を譲られた親実は島津氏に仕えました。
その後は天正15年(1587)の九州征伐を経て、豊臣秀吉に仕えています。
肥後国人一揆の始まり
隈部親永/Wikipediaより
九州征伐後、肥後国は佐々成政の支配下に置かれました。肥後には52人の国人がおりましたが、成政は国人たちの同意を得ないまま検地を実施。
そのため、国人衆からの不満が爆発し、肥後国人一揆が勃発しました。
成政に抵抗した隈部親永(くまべ-ちかなが)に呼応して親実や親宗は居城の田中城に籠城。
その数は900人で親宗の三兄・親範や親実の妹婿・辺春親行(へばる-ちかゆき)も一緒でした。
対する鎮圧軍は、小早川秀包(ひでかね)を総大将とした安国寺恵瓊や立花宗茂を含んだ1万人で田中城を包囲しました。
和仁氏の悲劇的な最期
小早川秀包/Wikipediaより
約10倍の兵力差にもかかわらず、親宗たちは2ヶ月間耐え忍びます。和仁氏の必死の抵抗に崩すため、恵瓊は辺春親行を調略したことで親実が討ち取られました。
親実の死をきっかけに、鎮圧軍が田中城に押し入ります。親宗は兄の親範と奮戦しますが、田中城は落城しました。
そして、親範は敵兵を両脇に抱えて城壁から飛び降りて戦死、親宗は母が眠る南蛮毛を目指して敵兵を斬り倒し、行方不明になったと伝わっています。
他説では南蛮毛に辿り着き、その地で自害したともいわれています。ちなみに、裏切った親行は一揆鎮圧後に処刑されました。
和仁氏の血は現代まで続く
立花宗茂/Wikipediaより
肥後国人一揆後、和珥氏の末裔・和仁氏は滅亡しました。
しかし、親宗の次兄・十郎三郎は立花宗茂の家臣で立花四天王の1人・小野鎮幸の義弟である小野統実として和仁氏の血を後世まで残しています。