ひとりの子どもも取り残さない、という理念のもと、これからの教育はどうあるべきでしょうか(写真: metamorworks/PIXTA)

経済と社会が変わろうとするなか、これまでの人生設計に合わせて作られた教育制度も変化を余儀なくされている。

新しい環境、新しい技術の下で、これからの教育制度はどうなっていくのか。先端的な学校改革を実現し教育界で注目を集める熊本市教育長の遠藤洋路氏と、日本最大級の教育イベント「未来の先生フォーラム」を主催し、『16歳からのライフ・シフト』の監修を務めた宮田純也氏が語り合った。

その模様を3回に分けてお送りする(今回は1回目)。

学校教育が向かう方向とは

宮田純也(以下、宮田) 近代の学校教育は、社会に有為な人材を国としてシステム的に輩出していこうという意図で明治期に整備され、こんにちまで至っています。


となれば、経済・社会が大きく変容しようとしているいま、学校教育も変わらざるをえません。

いま、社会がどう変容しようとしていて、それに対してどういった教育改革の取り組みをされようとしているか、お教えいただけますか。

遠藤洋路(以下、遠藤) 「これからは人生100年時代になる」というのが今回のテーマですが、「これから社会はこう変わるから、それに伴ってこんな学校が必要になる」といった議論は、もう言い尽くされてきたかなという感があります。

人生の最初の20年くらいで学んだ知識だけで一生生きていける時代ではなくなったというのはそのとおりですし、いままでの学校教育を変えていく理由になるでしょう。

遠藤 また、不登校など、長期間学校に行けない子どもたちが増えているという現実からも、従来どおりの学校のやり方を続けていくのが難しくなっています。いままで以上に、ひとりひとりに合った教育をしていかないといけない。

ここまではずっと言われてきたことです。最近の大きな変化は、技術的にもそれが可能になってきたということです。昔は生活や人生に必要なことは学校教育でしか得られない時代でしたが、いまはオンラインや民間のフリースクールなどでも教育を受けられるようになっています。

もちろん、既存の学校教育になじまない人は全員そちらで学べばいい、という単純な話ではありません。やはり公教育の理念と責任として、すべての子どもにそれぞれに合った教育を提供していく必要があります。

社会の変化に応じるということと、ひとりの子どもも取り残さないということ。この両面があるだろうと思いながら日々の仕事に取り組んでいます。

学校で教えられるべきこと

宮田 10月初旬にタイの首都バンコクで開かれた2日間の教育イベントに参加してきました。そこで、教育環境が十分でないある国の大多数の子どもはYouTubeで学んでいるという話を聞きました。

インターネットがあればYouTubeで世界中の優れた教育にアクセスできます。そんな状況では、身近にある学校がベストの教育機関ということもない。ネットを使えば、学位を取るのに必要な時間も少なく、学位を持つという承認も、ブロックチェーンの技術を使ってできます。

一方で、義務教育の小学校なら、6年間という定められた期間を通して教えていくことの難しさがあります。

環境は変わっているし、中の制度も疲労していて、さらに「誰ひとり取り残さない」となると、パブリック(公)として社会を支えていくのが非常に難しくなっているように思いますが、いかがでしょうか。

遠藤 確かに、従来どおりの学校のやり方を続けるのは難しいのですが、かといって何もしなくていいわけではありません。社会を維持するため、あるいは自分の人生を幸せに生きるために、学ばなくてはいけないことがある。

例えば読み書きなどの基本的なスキルや、人権や民主主義といった基本的な価値ですね。それをすべての人に保証することが必要です。

いままでの学校の教育課程では、何年生の国語でそれを、何年生の社会でこれを、といった具合に、同じ時期に同じように学校で学んでいたのですが、その必要はなくなるでしょう。

3年間この高校で学びましたとか、4年間この大学で学びましたということではなくて、何を学んだかという要素を分解し、その履歴が証明できればいい。

例えば、数学はYouTubeでここまで身につけた、という個々の学習を積み上げていって、最終的には何をどこまで学習したのかが証明されるような仕組みが考えられます。

学びの組み立て方が変わる

宮田 大人の研修もそうですね。こちらのサイトでリーダーシップを学び、あちらのサイトで会計学を学ぶといったようにして組み合わせる。それに近いイメージで、子どもたちの教育もすべてを同時期にフルセットで学校でやらなくていいと。

遠藤 はい、これはYouTubeで、これはフリースクールでやりましたというのがあっていいし、もちろん、ここは学校でやりました、となっても当然いい。

ただ、全体として、義務教育を終了したというプログラムは公の責任で用意する必要があります。終了までの要素をどこでどう満たすかは、それぞれの人に合わせて組み立てていけるような形になるのではないでしょうか。

宮田 ネット社会では、自分のやってきたことが残るという面があります。たとえば新聞に取り上げられたとか、何かの理由で表彰されたといったことを、その人の名前を検索することで他者も知ることができます。

それにはプラス面もマイナス面もありますが、履歴書に形式上書かれた「何々大学を出ました」という情報よりも、その人の積み上げを示すということもある。

宮田 そうした評価の比重が重くなって、自己実現につながってくるとなると、学校も含めて、社会のルールが変わってくる。

人生を通じてこれを学んできた、自分の学びをこう組み立ててきたというのが人生100年時代の学び方、生き方になるのかなと思います。

遠藤 そうですね。もちろん、選挙権を得る前に選挙のことは知っておかないととか、プロのアスリートやバイオリニストを目指すなら早いうちに、というように、制度的に、あるいは発達段階的に、適切な時期や向いている年齢というのはあると思います。

しかし、いまのように、1年生でこれを学び、2年生でこれを学び、というように一律に年齢で輪切りにするのは、個人差を考えれば無理があります。

社会規範は変わりうるもの

宮田 YouTuberとして社会にいいインパクトを与えて評価されるという道ができると、いい大学に行くことだけが自己実現ではなくなります。既存のピラミッド構造や、大学に行くことの意義はさらに揺らいでいくでしょう。

自分の可能性はどんどん広げられる一方で、VUCA(予測困難な)時代と言われるなか、各人のよりよく生きる力が、内向きに、それぞれの能力開発に過度に向いてしまう危惧もあります。各人が権利ばかり主張してパブリックな領域が失われるといったことです。

他者と支え合うという経験と意義を、体で感じて蓄積していくという意味で、みんなで集まって学ぶというのも学校教育の意義の一つと思いますが、いかがでしょうか。

遠藤 憲法上の価値である、基本的人権、民主主義、平和主義のように、いまの日本で生きていくために、大人になるまでに必ず身につけなければいけないことがあります。みんながこの社会で幸せに生きていくために必要な最低限のルール、それがパブリックな領域だと思います。

遠藤 ただそれも、絶対的なものではありません。いまの日本国憲法の中で生きていくならそうだということで、他の国では違いますし、あるいは50年後、100年後の日本には、別の社会規範があるかもしれない。

その範囲を、善悪の判断に偏らず、冷静かつ柔軟にそのときどきで決めていけるかが大事ですね。

特に、感情論とか道徳論とか伝統といったものとごちゃ混ぜになっている面もあると思うので、そうしたものとパブリックな価値を切り分けていくことが必要でしょう。

個人のウェルビーイングと社会のウェルビーイング

宮田 そういったことは、義務教育でないとできないことだと思います。自らお金を払って大学で学ぶことではないかもしれないけれど、必要なことではある。


個人としてのウェルビーイングを高めることは、各人が自己実現の中で取り組めばいい。では、誰もがよりよく生きるという意味での全体のウェルビーイングをどう担保すればいいでしょうか。

国や県として、あるいは市や町としてコミュニティの維持は重要なことですが、個人のリスクテイクでそれをどこまでカバーできるのか、あるいはカバーすべきなのか。

誰ひとり取り残さない、あるいはコミュニティを維持するといった、個人を超える課題を解決していくのも学校教育の使命ではないかと考えています。この点はいかがでしょうか。

遠藤 社会のウェルビーイングが実現していないと、個人のウェルビーイングも実現しないでしょう。極端な例でいえば、毎日爆弾が降ってくる中で、個人として安定した幸せな生活をしていくのは難しい。

だから、幸せになれる人にはなってもらって、後はほったらかしでいいということはない。個人が幸せに生きられる社会と、すべての人が幸せに生きられる社会の両方を目指していくのが、教育の使命だと思います。

(第2回に続く)

(遠藤 洋路 : 熊本市教育長)
(宮田 純也 : 一般社団法人未来の先生フォーラム代表理事)