12月1日、イスラエル軍の攻撃で負傷し、病院に運ばれる子ども=ガザ地区中部デールバラハ(ゲッティ=共同)

10月7日朝6時半。国境なき医師団の一員としてガザ中心部の宿舎にいた私は、ミサイルと爆発の音で目を覚ました。窓を開けると、目の前のビルのうしろから無数のミサイルが打ち上げられているのが見えた。

それを境にガザの日常は一変した。私もそれから約1カ月、昼夜にわたり空爆が続くなかで、避難の日々を送ることになったのだ──。

ガザ地区の死者は約1万5000人超

イスラエル軍とハマスとの衝突の激化から2カ月が経とうとしている。一般市民の命が奪われ続け、報道によると、死者数は双方の当局によるとイスラエルで約1200人、パレスチナ・ガザ地区で約1万5000人超に上る(12月1日時点)。

国境なき医師団(以下、Médecins Sans Frontièresの略称からMSFと表記)のスタッフとして今年5月からガザ地区に派遣され、26日間にわたる避難生活を経て11月5日に帰国した白根麻衣子が語る。


ガザ南部に避難中、懐中電灯の下で夜間の打ち合わせをする様子(右が筆者)©MSF

ガザ地区でのプロジェクトの人事と財務を担う「アドミニストレーター」として、私は今年5月からガザに派遣された。主に人事担当として、パレスチナ人スタッフの採用や給与の支払い、支援先病院への人材配置などを担った。

ガザへの派遣は、今回が初めてではない。2018年から2019年にかけてもガザに派遣され、多くのパレスチナ人スタッフや、各国から集まったスタッフらと働いてきた。

ガザが忘れられるのが怖い

ガザの仲間から今回かけられた、忘れられない言葉がある。

「世界の人たちは、ガザで何が起きているかを知らないまま、またガザのことを忘れてしまうんだろうか。それが怖い」

ガザはこれまでに何度も大規模な攻撃に見舞われてきた。そのたびに国際的なニュースになるものの、鎮静化すると、すぐに忘れ去られてしまう。それが繰り返されてきたのだ。

日本では今、10月7日以降の紛争による惨状が主に伝えられている。しかし、ガザはそれ以前から「天井のない監獄」と呼ばれ、イスラエルによる封鎖で人や物の出入りが厳しく制限された状態が16年も続いている。

燃料や水の供給はイスラエルの管理下にあり、電力不足が慢性化。一般的な家庭への電力供給は1日4〜5時間に限られていた。経済状況も極めて悪く、若年層の約7割が失業状態だ。そのため、私たちMSFが1人の求人を出すと、1000人もの応募が来ることが珍しくなかった。

ガザで繰り返される武力衝突は、銃撃や爆発による外傷のみならず、人びとの心にも影響を及ぼす。MSFは、複数の病院で外傷ややけどに対応するほか、心のケアにも取り組んできた。

貧困と情勢不安の中にありながらも、人びとはガザで慎ましい暮らしを営んできた。街にはたくさんのレストランやカフェもあり、家族や友人との時間を楽しむ人たちの姿があった。外国からの来訪者である私たちに温かく接してくれ、道を歩いていると、「ガザにようこそ!」と気さくに話しかけてくれた。

そんな日常が一変したのが、10月7日だった。


2019年撮影。筆者(左)と当時ガザで一緒に働いた同僚たち ©MSF

経験したことのないミサイルの数

10月7日朝6時半、ミサイルと爆発の音で目を覚ました。宿舎の窓を開けると、目の前のビルのうしろから無数のミサイルが打ち上げられているのが見えた。

5年前にガザで活動した際も軍事衝突は経験した。しかし、この朝に見たミサイルの数は、過去に経験したものとはまったく違う。「大変なことが始まった」と直感した。

すぐに、生活を共にしている同僚たちと宿舎の地下に避難した。紛争地で活動するMSFの宿舎には、緊急時のための「退避室」がある。退避室にいてもミサイルや空爆の音が響き、爆風で建物が揺れるのを感じた。

空爆は昼夜を問わず続き、一歩も外に出ることができないまま1週間近くを退避室で過ごした。空爆の音を毎日感じながら、いったいガザの街はどうなってしまっているのだろうと、不安ばかりが募った。しかし、この1週間はこの後に続く長い避難生活の始まりに過ぎなかった。

10月13日、イスラエル軍によるガザ北部からの退避要求を受けて、北部の宿舎から南部に移動することになった。

リュック1つに最低限の荷物を詰めて車に乗り、南へと向かった。このとき車から見た光景を、私は忘れられない。

病院、学校、レストラン。知っている建物が破壊されていた。 変わり果てた街の中、大きな荷物とたくさんの子どもを引き連れた多くの人びとが、行く当てもなくさまよい歩いている。「お願い! 私たちも乗せて!」と、私たちの車を追ってくる人たちもいた。

しかし、何もすることができない。胸が張り裂ける思いだった。

避難民が押し寄せた国連施設

南部に避難してからもセキュリティの状況によって、私たちは何度か移動しなくてはならなかった。避難場所の1つとなった国連の施設には、北部から多くの避難民が押し寄せていた。

私たちは建物に入れない多くの人たちとともに、屋外での避難生活を余儀なくされた。日中は30度を超える暑さの中、廃材のビニールで日よけを作り、夜に雨が降ると車の中にひしめき合って雨をしのいだ。


10月13日以降、ガザ南部に避難中、屋根のない場所で寝泊まりしていた。ひさしを作るなどして日差しをさえぎった ©MSF

イスラエルの退避要求により、南部に避難したにもかかわらず、南部でも空爆は絶え間なく続いた。ドーンドーンと響く音や銃声が昼も夜も聞こえ、着の身着のまま避難してきた人びとが過酷な状況を強いられていた。

子どもたちが恐怖のあまり泣き、多くの人が食べ物や水もない屋外で避難生活をしている姿を見て、私は強い憤りを感じた。

何の罪もない一般市民が傷つけられ、苦しむのが戦争であり、当たり前の日常は、紛争や戦争によって一瞬で崩れてしまうということを実感した。

避難所には日に日に多くの避難民が押し寄せ、衛生状況は日々悪化していった。数万人の避難民に対し、トイレは十数個。生活用水はもちろん、飲む水や食べ物も足りなくなっていった。

「水はあと何本ある?」「缶詰はあと何個ある?」と数えながら、1日に必要なギリギリのカロリーを計算し、なんとか生き延びようと皆で励ましあった。どうしても温かいものが食べたいときは、廃材の木を拾ってきて火をつけ、缶詰を温めて分け合って食べた。

特に恐怖を感じたのは、10月末にガザ全体で携帯電話やインターネット、すべての通信が遮断されたときだ。

私たちの生活をサポートしてくれていたパレスチナ人スタッフとも、MSFの欧州の統括チームや日本の事務局、そして心の支えになっていた家族とも連絡ができなくなった。

携帯が使えないということは、負傷者がいても救急車が呼べないということでもある。絶望的な気持ちになった。

爆撃が続き、水も食べ物も尽きそうだという極限状態の中の3週間の避難生活で、私たちが生き延びることができたのは、パレスチナ人スタッフたちのおかげだ。

彼らは私たちを守るために、食料や水、必要な生活用品を、文字通り命をかけて街中を探し回って届けてくれた。

さらに、できる限りの医療活動を続け、多くの命を今も守っている。彼らの優しさと強さに心から感謝し、尊敬の念でいっぱいだ。いま彼らが無事にしているのか、祈ることしかできない。

11月1日、私たち外国人はラファ検問所からついにエジプトに退避した。もちろん安堵の気持ちを感じたし、退避に向けて尽力くださった多くの方に心から感謝している。しかし、私たちの避難生活を命をかけて支えてくれたパレスチナ人の仲間たちを残していくことは、とても心苦しかった。


ガザ南部に避難中に同僚と話す様子(手前右が筆者) ©MSF

一時休戦ではなく、いますぐ停戦を

私は11月5日に日本に帰国した。しかし、その後もガザの中では現地スタッフが残り活動を続けている。なかには危険なガザ北部の病院に自らの意思で残り、医療活動を続けているスタッフもいた。

そこで悲劇が起こった。ガザ北部にある病院の1つ、アル・アウダ病院が11月21日に攻撃を受け、私たちの同僚であるMSFの医師ら3人が亡くなった。

医療施設に対する攻撃は、明らかに国際人道法に違反する。

戦争にもルールがある。国際人道法の下で、紛争当事者は患者や医療スタッフ、一般市民に危険が及ばないようにするため、あらゆる予防措置を講じる責任がある。

ガザで7日間続いた一時休戦は12月1日朝(現地時間)に終わり、戦闘が再開されてしまった。一時休戦は決して十分ではない。MSFは、双方の紛争当事者による一般市民への無差別な攻撃を非難し、即時停戦を強く訴える。

救える命を1人でも多く救うため、11月半ばには15人のスタッフで構成する新しいチームがガザに入った。このなかには日本人の医師もいる。完全な停戦で安全が確保されない限り、十分な医療を届けることは難しい。それでも私たちは、命を守るためにできることに全力を尽くしたい。

日本に帰国した私が今できることは限られている。でも、ガザに残る同僚たちのために、そして、命の危機にさらされている人たちのために、私が経験したことを1人でも多くの人に証言し、伝えていきたい。

自分の命の危険も顧みずに今も病院で治療を行っているMSFの同僚、すべての医療者、患者さん、そしてすべての一般市民に対する無差別な攻撃を非難し、即時停戦を訴えていきたい。

世界中の1人ひとりの声が、無差別な暴力を止め、本当の停戦を実現する力になると願っている。


シファ病院で患者を診るMSFのスタッフ=2023年10月19日。その後、同病院はイスラエル軍の攻撃に遭った Ⓒ Mohammad Masri

(国境なき医師団 : 非営利の医療・人道援助団体)