真田信繁は老齢まで腐らず自身を磨き続けました(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

NHK大河ドラマ『どうする家康』第45回「二人のプリンス」では、関ヶ原で敗れた武士が立派に育った秀頼のもとに集結し、徳川との対立姿勢を強めました。第46回「大坂の陣」では14年ぶりの大戦が勃発。そこで今も語り継がれる活躍をした真田信繁について『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら』の著者・眞邊明人氏が解説します。

「真田幸村」の通称で広く知られる真田信繁は、1567年に真田昌幸の次男として生まれます。信繁の半生は波乱に満ちたものでした。

まず、武田家滅亡を受けて、織田家に恭順したことを受け、信繁は関東守護に任じられた滝川一益のもとに人質として送られます。

そのわずか数カ月後に織田信長が本能寺の変でたおれると、甲斐信濃は混乱し、滝川一益は所領を捨て撤退。その際に信繁は木曽義昌に引き渡されました。

その後、父・昌幸は一度、徳川につきますが沼田をめぐって対立し、今度は上杉につくことに。信繁は、父や兄・信之とともに徳川の大軍を迎え撃ちます。この第一次上田合戦に真田は勝利し、昌幸の武名は天下に響き渡りました。

その後、信繁は上杉に人質として送られ、さらに昌幸が羽柴秀吉に臣従すると、今度は大坂に送られます。信繁の青春時代は各所を人質として転々としていたといえるでしょう。

秀吉の馬廻衆に抜擢される

大坂に送られた信繁は、その才を秀吉に認められ馬廻衆に取り立てられます。そして秀吉の側近である大谷吉継の娘を妻とし、父・昌幸とは別に知行を与えられ、豊臣の姓も下されました。

秀吉は、人質というよりも豊臣家の直臣として信繁を取り立てようとしたとみられます。この背景には、義父となる大谷吉継の意向もあったようです。

いずれにせよ信繁は、徳川家康の有力な家臣である本多忠勝の娘(形式としては家康の養女)を妻とした兄・信之と違い親豊臣でありました。

秀吉が死ぬと、天下は五大老筆頭の徳川家康と石田三成との対立が鮮明になります。真田家も、その渦に巻き込まれることに。石田三成は、全国の諸将に自陣営への参加を呼びかけます。

真田昌幸にも、この誘いがきました。昌幸は三成の誘いに乗ることにしますが、長男の信之は反対します。信繁は、義父の大谷吉継のこともあり父に従いました。


第二次上田合戦では秀忠の大軍を足止めしました(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

関ヶ原を前に家を割る真田

ここで真田家はふたつに分かれることになりますが、これはあえてのことと思われます。家を両陣営に分けることで、どちらが勝っても家を守れるという策だったのでしょう。

実際、真田家だけではなく、豊臣水軍の大将だった九鬼家も、父・嘉隆は西軍、息子・守隆は東軍について家名の存続をはかっています。

信繁は、父・昌幸とともに上田城で徳川秀忠の大軍と戦い足止めに成功しました(第二次上田合戦)。しかし関ヶ原で三成が敗れたため、所領を没収され九度山に蟄居することに。このとき信繁は33歳で、本来は死罪になるところを兄・信之の陳情により減刑されました。

ちなみに九鬼家も守隆の嘆願で父・嘉隆の死罪は減刑されましたが、その連絡が遅れ、嘉隆は自刃しました。

そして信繁が再び世に出るまでに、14年もの月日が流れます。父・昌幸は3年前に亡くなっていました。

十数年過ごした九度山における信繁は、地域の人々と積極的に交わって狩りを行い、夜は兵書を読み耽り、父・昌幸からも兵法を学ぶなど、来るべき日に向けて準備を怠らなかったようです。

兄・信之は、弟・信繁を「辛抱強く物静かな男」と評しており、不遇の中でも自暴自棄に陥ることなく、やるべきことを淡々と行う知将の風格を感じさせます。

大坂冬の陣で鮮烈な印象を残す

大坂城に入城した信繁でしたが、その評価は当初は微妙だったようです。

徳川と戦って2度も勝利を経験したとはいえ、その評価は父・昌幸のものであり、息子の信繁の実力は知られていませんでした。

むしろ兄・信之が徳川方にいることもあり、寝返りを警戒されるありさまだったようです。信繁は籠城ではなく、瀬田で幕府軍を迎え撃つ策を立てます。この策は後藤又兵衛らの浪人衆には支持されますが、大野治長ら豊臣家の重臣たちには否定されました。

もしも、この策を昌幸が献策していたら、あるいは受け入れられたかもしません。しかし実績のない信繁の発案では見向きもされませんでした。しかしながら籠城と決したあとも、信繁は腐らず、大坂城の唯一の弱点とされる玉造口に「真田丸」という出城をつくります。

そして、いよいよ開戦となると、この真田丸で幕府方を散々に打ち破りました。この戦で、ついに満天下に真田信繁という逸材の存在を見せつけます。信繁は、すでに50歳間近でした。いわゆる大坂冬の陣での出来事です。

しかし皮肉なことに、信繁を評価したのは味方ではありませんでした。最も高く評価したのは徳川家康です。家康は本多正純に命じ、信繁の叔父にあたる真田信尹を使者に信州10万石を条件に寝返ることを勧めます。

しかし信繁は、この誘いを断りました。このとき大坂城は和睦の条件だった外堀だけでなく内堀も埋められています。大坂城が誇った高い防御力は霧消し、信繁が築いた真田丸も破却されていました。

もはや勝敗は決しており、信繁としては今一度、おのれの才を天下に知らしめる、そのことに魅力を感じたのでしょう。こうして1615年、大坂夏の陣が始まります。


三光神社にある真田信繁像(写真:しゅんちゃん/PIXTA)

勝ち目のない戦いに挑む信繁

籠城できない大坂方は野戦での勝負に出ました。道明寺の戦いでは、信繁は先行する後藤又兵衛隊の後を追って参戦しますが、濃霧のため行路を誤り、着陣が遅れてしまいます。その間に又兵衛が討ち死にしたため、大坂方が撤退を余儀なくされました。

このとき信繁は殿(しんがり)をつとめ、伊達政宗隊を撃破します。信繁が、籠城だけでなく野戦でも無類の強さを発揮した瞬間でした。このとき信繁の残した言葉が

「関東勢百万といえども男はひとりもおらず」

よほど印象的だったのか、これは広く後世にまで伝わります。

翌日、信繁は最期の決戦を挑みます。信繁は、最後の切り札と考えた豊臣秀頼の出馬にかけていました。しかしながら結局、秀頼の出馬はありませんでした。それでも信繁は、おのれの才のすべてをかけて策を練ります。

大野治房、明石全登、毛利勝永とともに出撃した信繁は、家康本陣を目指しました。このときの激しさは、やすやすと松平忠直の大軍を突破し、徳川の旗本を撃破し、2度にわたり家康の本陣に突入するほどのものでした。

家康の馬印が押し倒されたのは、武田信玄に蹂躙された三方ヶ原の戦い以来のこと。家康自身、自害を覚悟するほど強烈なものでした。しかし時間の経過とともに態勢を整えた幕府軍に包囲され、真田隊は瓦解。信繁も討ち死にします。

享年49歳。論語にある「五十にして天命を知る」を目前にしての幕切れでした。


家康は天敵とも呼べる真田を高く評価していました(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

信繁、伝説となる

信繁の戦いは敵である幕府軍から賞賛されます。島津忠恒は

「真田は日本一の兵(つわもの)」

とし、

細川忠興は

「左衛門佐は合戦場で討ち死に。古今なき大手柄なり」

と。


黒田長政は、大坂夏の陣の図屏風を描かせ、その中で信繁の勇猛果敢な姿を配し、その戦いぶりを評しました。

いずれも戦国時代を生き抜いた歴戦の強者たちです。家康を含め幕府は、信繁への賞賛を禁じるようなことはありませんでした。

真田に何度も不覚をとった徳川が、それを正当化するために、あえて信繁を名将に仕立てたという説もあります。

しかし、もはや戦国時代も遠い昔になりかけていたこのころに、幕府に屈し、家を守るために己の野心を捨て生きざるをえなかった武将たちの目に、己が才を存分に発揮し、そのためだけに命をかけた信繁を羨み、輝いて見えたのではないかと私は思います。

そして、家康もまた、そのひとりだったのではないでしょうか。

(眞邊 明人 : 脚本家、演出家)