『土佐日記』の筆者である紀貫之は「言葉のレボリューション」を起こしたおじさんであった(写真:みさご/PIXTA)

日本語を母国語とする人にはなじみの薄い話題なのかもしれないが、近年では言葉を「中立化」させる動きが活発だ。その目的は言葉の性別をなくして、相手の立場にたち、相手が不愉快な思いをしないような表現を心がけるというもの。しかし、男性名詞と女性名詞が存在する、いわゆるロマンス諸語の場合、そうした「中立的な言葉遣い」を実現するのはなかなか難しい。

たとえばイタリア語。主体の性別が言葉の語尾に現れているため、偏った表現にならないように男女の形を併記したり、語尾をアステリスクなどの記号に置き換えたり……。

試行錯誤を重ねながら、さまざまな試みが行われている。それに対して、「なんだその言葉遣いは!!」と嘆く保守的な人もいれば、「これも試しちゃおう」と調子に乗る新しいモノ好きな人もいて、反応は十人十色である。

「言葉のレボリューション」を起こした紀貫之

ただ、これは今始まったことではない。社会の変容がもたらす「言葉のレボリューション」はいつの時代にも起きている。

日本の場合、社会の動きを正しく表現できる言語へのクエストは、平安時代まで遡る。中国から輸入された漢字、文字と音を力ずくでくっつけた万葉仮名、そしてひらがな……複数の表現方法が共存するなかで、平安人は四苦八苦していたのだが、彼らにとって、「中立化」どころか、言葉はなるべくはっきりと性別や教養などを表す身分証明書のようなものだった。

しかし、厳しい規則があれば破りたくなるのは人間の性である……。そこで、あるおじさんが小さな「言葉のレボリューション」を起こした。それは和歌のマイスター、紀貫之先生だ。

「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」というふうに始まる『土佐日記』は、まさしく「言葉のルールを破りまくる」という画期的な試みのもとに生まれている。

国司の任期を終えて帰京する紀貫之は本来の姿をくらまし、女性として筆を走らせるわけだが、「オトコ言葉」対「オンナ言葉」にとどまらず、本作はいろいろな「意外性」を秘めているのである。

秩序が何度も覆される

自分の内面や感情など、男性官人が日記のなかで書けなかったことを書くために、作者の紀貫之が、架空の女性に仮託しなければならなかったという解釈が現在の通説だが、50日以上も続く海の旅の間には不可解なことがたくさん起こって、『土佐日記』においては秩序が何度も覆されている。

まずは、身分違いや大人と子供の区別がしっちゃかめっちゃかだ。

ときは930年前後、年の暮れが近づいている頃。とある官僚(つまり紀貫之)と一緒に帰京することになった一行は出発の準備に取り掛かる。

廿二日、和泉の國までとたひらかにねがひたつ。〔……〕上中下ながら醉ひ過ぎていと怪しくしほ海のほとりにてあざれあへり。

【イザ流圧倒的意訳】
二十二日、せめて和泉国までたどり着けるように、神仏に願いをかけた。そのときは上・中・下なんぞ関係なく、みんなすごく酔っ払った。塩海は魚が腐らないが、すぐ海のそばにいてもなお誰もが腐ったように潰れていた。

平安時代の船旅は大変危険なものだった。海賊に遭遇する可能性だって高いし、波に飲まれてしまってもおかしくない。レーダーもなければ地上と連絡が取れる無線機ももちろんなく、神様に祈りを捧げるしかない。

そんな命取りの旅に出かける前に、気合いを入れるべく、宴が開かれた。しかし、その集いはかなり野蛮なものとなる。距離的にも文化的レベルにも都から遠く離れている土地柄のせいだろうか、参加者全員は本来守らないといけないエチケットをすっかり忘れて、立場の違いを超えた空間がそこに広がっている。

我々現代人はそれを祝祭的状況と捉えて、微笑ましくさえ思うが、何よりも身分を重要視していた平安人からしてみれば、恐ろしくおかしいわけだ。

ダジャレが大好きな紀貫之おじさん

二十四日の記事にも似たような描写がある。

廿四日、講師馬の餞しに出でませり。ありとある上下童まで醉ひしれて、一文字をだに知らぬものしが、足は十文字に踏みてぞ遊ぶ。

【イザ流圧倒的意訳】
国分寺の住職が、餞別をしにきた。その場にいた人は身分が高い人も低い人も子供まで酔いつぶれて、「一」という字も書けない人たちなのに、千鳥足で「十」の字を踏んでいるかのようにぐでんぐでんだった。

上下関係を構わず騒ぐのはまだ許容範囲にしても、子供まで酔っ払ってしまうのは非常事態だ。たとえ野蛮な(失礼……)土佐といえども、童がお酒を飲み、大人と交えて夜更かししているなんて、非常識を極めた光景だと言えるだろう。

紀貫之おじさんは言葉遊びが大好きなので、それはただの言葉のあやとして受け止めることももちろんできる。ところが、常識破りのことが起こるのは門出のときに限らない。

送別会の日々を終えた一行がやっと出発して、浦戸から大湊にたどり着く。大湊は現在の高知県南国市前浜あたりのところ、実は8キロほどの距離しか旅が進んでいないけれど、早くも悪天候のため、数日足止めとなる。

そこで、都人を前にして自作の歌を披露したくてうずうずする現地人が現れる。それはケチな差し入れしか持ってこないばかりか、歌も下手という救いようのない人だ。そして誰もが返歌を送りたくなくて、変な雰囲気が流れたそのときに……。

歌までできる「神童」が登場

ある人の子の童なる密にいふ「まろこの歌の返しせむ」といふ。驚きて「いとをかしきことかな。よみてむやは。詠みつべくばはやいへかし」といふ。〔……〕「そもそもいかゞ詠んだる」といぶかしがりて問ふ。この童さすがに耻ぢていはず。強ひて問へばいへるうた、

「ゆく人もとまるも袖のなみだ川みぎはのみこそぬれまさりけれ」

となむ詠める。かくはいふものか、うつくしければにやあらむ、いと思はずなり。

【イザ流圧倒的意訳】
まだ幼い、ある人の子が「私がこの歌の返しをしようかな」とこっそり言う。みんなびっくりして、「歌を詠めるなんて素晴らしい! 詠めるなら早く聞かせてよ〜」とせがむ。〔……〕「そもそも何の歌なの?」と興味津々だ。この子はさすがに恥ずかしくて、口をつぐんだが、無理やり言わせた歌は次の通りだった。
「帰る人も残る人も別れを悲しみ、川の水のように流れてくる涙で袖を濡らしている。その涙川はまるで水嵩が増して岸が濡れるように、袖もぐっしょり濡らすのです」
幼い子がこんなにも上手に詠むものだろうか。そこまで感心するのは、その子が可愛いからだろうか、とにかくとても思いがけないことだった。

幼い子供の歌にもかかわらず、贈歌にきちんと対応しており、歌のやり取りの基本がしっかりと抑えられている。しかし、子供の作った歌を送り返すわけにはいかないので、大人が詠んだかのように見繕うという形でこのエピソードが終わる。

ウケ狙いのくだりとはいえ、酔い潰れている童の次に、大人よりTPOをわきまえた行動ができて、歌まで作れちゃう童が登場するとは……この一行は一体どうなっているのか、と疑問に思わずにはいられない。

しかも、読み進めれば読み進めるほど新たな不思議にぶち当たる。そもそも女のふりをして書いているという時点で自由すぎるが、作者の紀貫之先生は妙に不自然なディテールにこだわっているように思える。

どこに向かっているのかわからない航海

たとえば、出発して数日が過ぎ去った九日の記事。

かくあるを見つゝ漕ぎ行くまにまに、山も海もみなくれ、夜更けて、西東も見えずして、天気のこと楫取の心にまかせつ。男もならはねばいとも心細し。まして女は船底に頭をつきあてゝねをのみぞなく。

【イザ流圧倒的意訳】
このように美しい景色を眺めながら漕いでいくうちに、山も海もすっかり暮れて、夜が更けて、西も東もわからず、天候のことは楫取に任せるしかあるまい。慣れていない男にとっても船旅は本当にきついが、女である私たちはもっともっと心細く感じる。船底に頭を押し付けて、声をあげて泣くばかりです。

暗闇に包まれた船がゆらりと進んでゆく。地上であれば、前国司や彼に仕えている人々は身分の低い船乗りを偉そうな態度でこき使うに違いない。

しかし、いざ海に出てしまうと、立場が逆転して、楫取りが彼らや彼女らの運命を握ることになる。しかも、女は泣いて、男は不安が募るといった切羽詰まった状況にもかかわらず、楫取や水夫たちは歌を歌ったりして、呑気なものでる。空気をまったく読めていないというか、珍しく優位に立ってかなり楽しんでいるご様子。

社会的立場を失った前国司たちは、夜間の航海は特につらく、方向感覚まで奪い取られている。上記した九日の記事のなかにも「西東も見えずして」とあったが、あたり一面に広がる海に囲まれている一行は、しかるべき方向に進んでいるのかどうかすら確信が持てない。はたして都にたどり着けるのだろうか……と読みながらこちらまでハラハラしてしまう。

十一日の記事にも恐怖感を覚える旅人たちの姿が綴られている。

十一日、曉に船を出して室津をおふ。人皆まだねたれば海のありやうも見えず、唯月を見てぞ西東をば知りける。

【イザ流圧倒的意訳】
十一日、まだ夜が明けないうちに船を出して、室津へと向かう。みんな寝ているし、暗くて海の様子が判別できない。ただ月を見て、西東がやっとわかったところだ。

長く続く船旅の唯一の救いは、微かな月の明かりだが、旅人がさまよう幻想的な世界において、それもよく雲に覆われて、海と区別がつかない空がどんよりとしているばかりだ。目を凝らしても海の状況すら判別できず、どれほど心細かったか想像がつく。

オヤジギャクや言葉遊びが連発される『土佐日記』

このように『土佐日記』のなかで、おじさんは女房の真似をして、子供たちは大人のように振る舞い、身分の低い人たちは権力を握るし、前国司をはじめとする一行は時間の経過も季節の移り変わりも感じられない非日常的な空間に放り出されている。そこでやはり、気になって仕方がない。紀貫之はなぜそこまでして常識に反した世界観を作り出そうとしていたのか、と。

オヤジギャクや言葉遊びが連発されている『土佐日記』だが、天候のことや旅の行程、京都への憧れなどが綴られているうちに、最も印象的なのは、土佐で急死した前国司、つまり作者である紀貫之本人の娘に対する哀切な追懐なのかもしれない。そのテーマは最初のほうに持ち出されており、作品全体を貫く主題の1つとなっている。

二十七日の記事には、悲嘆にくれる前国司の姿が早くも現れる。

廿七日、大津より浦戸をさして漕ぎ出づ。かくあるうちに京にて生れたりし女子こゝにて俄にうせにしかば、この頃の出立いそぎを見れど何事もえいはず。京へ歸るに女子のなきのみぞ悲しび戀ふる。

【イザ流圧倒的意訳】
二十七日。大津から浦戸を目指す。このような一行のなかに、京都で生まれた女の子が赴任先である土佐で急死してしまったので、この頃の出発の準備の様子を見ても、何も言わない。都に帰るのに、女の子がいないと思うと、悲しみが込み上げてくる。

親の先に死んでしまう子供。それこそ、社会的な上下関係の乱れや感覚の欠如より何倍も不自然なことだ。だからなのだろうか、そんなつらい経験を強いられた紀貫之は、不自然で理不尽なことばかりを眼で追い続けているのだ。

酔っ払ってしまう子供たち、上下関係を超越した船旅、左も右もわからない非日常的な空間……。何度も強調される「おかしさ」は、将来の夢を奪われた娘の悲劇を増幅するという効果をもたらす。

非日常的な理不尽さへのこだわりが物語ること

紀貫之がいつ『土佐日記』を書いたか、はっきりとはわからないが、作者がすでに60代に突入していたのではないかとも言われている。平安時代の平均寿命からしてかなりの高齢者だし、そんな年齢の人にははたして幼い娘が本当にいたのだろうか、という疑問が残る。

その謎を解明できる人がおそらくいないものの、『土佐日記』に漂う哀感、そして随所に感じられる非日常的な理不尽さへのこだわりがその真実を物語っている、と私は思う。

前国司と一緒に都に戻る妻も、旅の途中で何度も亡くなった娘を思い出し、悲しさに耐えきれず泣き崩れる。深読みだろうか、彼女を支える女房たちに紛れて、女のふりをしている作者本人の影が見えそうな錯覚に陥る。

平安朝はインクルーシブな社会では決してなかったけれど、「女になって」、女性の立場に立って考えるというのは、紀貫之ならではの心遣いだったのかもしれない。言葉は社会を反映するものであり、ときには社会を変えるものでもある。その大切さを、紀貫之先生に改めて教えられたような気がした。

(イザベラ・ディオニシオ : 翻訳家)