近鉄生駒ケーブルの宝山寺線を走る車両。近鉄線生駒駅隣接の鳥居前駅と宝山寺を結ぶ(写真:ポニー/PIXTA)

資金難に苦しみ、沿線の寺からお賽銭を借りて窮地を脱した鉄道会社がある――という“都市伝説”をご存じだろうか。大阪電気軌道、現在の近鉄である。

この寺の協力がなければ近畿一円に広がる現在の近鉄の姿はなかったかもしれないというこの話、はたして本当なのだろうか。社史や寺に残る資料などをもとに、当時の事情を探ってみた。

近鉄奈良線と宝山寺の関係

近鉄の始まりは1910年。当初は奈良軌道という名称で設立され、その後すぐに社名を大阪電気軌道(通称「大軌」)に改めた。現在の大阪上本町と近鉄奈良を結ぶ近鉄奈良線の建設から事業をスタートし、1911年には大林組の手で生駒トンネルを着工。この際、石切駅で生駒山にある宝山寺が地鎮祭を執り行ったという。宝山寺住職の大矢実圓さんは「大軌にとっても宝山寺にとってもお互いに持ちつ持たれつの関係という意識があった。沿線住民と参拝者の利便のため協力するのは当然」と語る。


宝山寺の境内と本堂(写真提供:宝山寺)

1911年6月に着工したものの、資本金300万円に対して上本町―奈良間の建設費は570万円。300万円の資本金は生駒山をトンネルで貫く想定で用意した金額ではなかったが、ルート検討の結果、当時としては長大な生駒トンネルの掘削を決断したことで建設費が倍近くにふくれあがった。

この建設費を賄うための資金調達に、創業期の大軌は苦労することになる。「借入金や社債による調達も検討したが、不況のためにそれも叶わず、株主からの株式払込金収受を進める以外に方法がなかった」(『近畿日本鉄道100年のあゆみ』より)。

そんな中、1913年1月26日に生駒トンネル導坑内で岩盤崩落事故が発生。この事故で大軌に対する評価が悪化し、世間では会社解散の噂も飛び交い株価は大暴落。株主が大軌事務所に押し寄せる騒動にまでなった。

それでも同年4月までに株式払込金300万円の収受が完了。5月と8月には計300万円の社債を年利8%で発行。総額600万円の資金を確保したという。だがこの時すでに建設費として500万円を支出しており、さらなる資金調達を必要とした。

1914年、大軌は優先株式発行を図ったが応募総数に達せず、続いて計画した財団抵当借入も実現しなかった。このため既発社債の償還もままならず、支払猶予公告を出すに至る。まさに近鉄ならぬ「金欠」の危機である。この危機の中でも大軌は1914年4月、現在の近鉄奈良線上本町―奈良間の開業になんとかこぎつけた。


開業時に建設されたかつての生駒トンネル(右)と、建設中の現在の生駒トンネル=1964年(写真:時事)

給与支払いに窮してお寺に…

開業したはいいが、問題はその後の運転資金である。参拝客の利用がメインだったため、運賃収入は天気に左右され、「大阪天気軌道」と揶揄されるほど安定しなかった。


宝山寺に保存されている開業時の大軌の「賃金(運賃)」表(写真提供:宝山寺)

そんな中、当時の岩下清周社長はほとんど東京におり、開業直後の1914年11月には辞任してしまった。岩下社長を支えていたとされる七里清介専務も過労から病床に倒れ、創業以来ただ1人残った金森又一郎支配人が矢面に立ち、ほぼ空っぽの金庫を前にして債権者に会社の実情を訴え、支払いの猶予を懇願するという状態だったという。

近鉄『50年のあゆみ』によると、世間では「電車が差し押さえられた」「他社へ身売りか」などの噂が流れ、大軌の信用は地に落ちた。同社は付帯事業として、電車と沿線住民への電力供給を目的に放出で石炭火力発電所を営んでいたが、その日その日に石炭代金を用意できなければ業者から石炭を供給してもらえず、電車の乗車券印刷でさえ、前金でなければ印刷会社は応じなくなったという。

『大阪電気軌道株式会社三十年史』には「会社としてはその支払に窮した結果、電車停留所の出札口から五銭十銭の小銭を掻き集めて、辛うじて支払ったこともあった。また毎月二十五日の社員従業員の給料支払日は、会社にとっては大苦痛で、此所彼所から、金を借り集め、暫く燈のつく頃に至って、これを渡すといった工合(具合)、時には生駒の宝山寺に頼んで、電車の回数券や参詣券を何千円と買って貰って、社員従業員の給料に充てたこともあった」とある。

ここで冒頭の「賽銭」が登場するのである。

前記の『三十年史』には「時には生駒の宝山寺に頼んで」との記述はあるものの、実際には金森支配人が宝山寺に駆け込み「賽銭を貸してもらった」というわけではなく、乗車券類のまとめ買いに協力してもらい、その代金を賽銭で受け取ったということのようである。その後、金森支配人は賽銭を給料袋に詰め、従業員に渡していったのだそうだ。その給料袋はそれはそれはズッシリと重かったそうである。

当時の領収書と住職の想いが綴られた文章が宝山寺資料室に残されている。


宝山寺資料室に保存されている領収証。「大正三年八月廿九日」の日付と当時の大軌支配人金森又一郎氏の署名がある(写真提供:宝山寺)


宝山寺資料室に保存されている当時の「生駒宝山寺案内」(写真提供:宝山寺)

「参拝者雲集す、之れ実に大軌開通の賜(たまもの)にして、生駒聖天ありて大軌あり、大軌あって聖天の殷盛(繁盛)を見る」

開業時の大軌と宝山寺の関係をよく表しているといえるだろう。

経営再建に成功した本当の事情は?

その後大軌は経営の再建に成功する。1915年、大軌は一部の債権者からの提案をきっかけに債務整理と会社再建の協議が進んだ結果、優先株と社債の発行で550万円を調達し、ようやく窮地を脱することができた。

大軌が救われたのは、確かに宝山寺の協力のおかげでもあるのだが、実のところこの再建案によるところが大きかったようである。この5年間の金森氏の金策の苦労があったからこそ、今日の近鉄、そして沿線の発展があるといえるだろう。

『近畿日本鉄道100年のあゆみ』は「周到な計算と熱心な議論の末に下したこの英断こそ、現代における当社の礎となっているのである」と振り返る。


現在の近鉄奈良線の電車(写真:HAYABUSA/PIXTA)

「賽銭」がなかったら今日の近鉄はなかったかもしれないというこの“都市伝説”、はたしてどこまで本当か、信じるか信じないかはあなた次第だ。だが、創業時の苦境を乗り切るのに宝山寺の協力があったことは、寺に残る領収書などさまざまな資料が示している。


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(北村 幸太郎 : 鉄道ジャーナリスト)