新宿と箱根・江ノ島方面を結ぶ小田急電鉄の電車。自治会向けSNS「いちのいち」は同社が開発した(記者撮影)

隣は何をする人ぞ――。都市部だけでなく郊外や地方でも、隣人や町内の住民を誰も知らないなど「地域のつながりの希薄化」が指摘されるようになって久しい。地域社会の衰退は高齢者の孤立化などにもつながるが、コミュニティの維持を担う自治会や町内会は担い手不足が常態化し、加入率も低下している。

国や地方自治体、住民らがこれらの課題解決を探る中、各地で利用が広がっている「ご近所向け」のSNSがある。従来は手間のかかる回覧板を使っていた情報の伝達や、町内会内の役員会や子供会といったコミュニティでのやり取り、防災情報の発信などに使える地域向け情報共有ツール「いちのいち」だ。全国の約600自治会が採用しているといい、自宅にチラシが入っていたという人もいるかもしれない。

一見するとITスタートアップ企業などが展開しそうなサービスだが、実は開発したのは小田急電鉄。鉄道の集客や沿線開発とは違う、異色の事業はなぜ生まれたのか。

発案者は畑違いの「電気のプロ」

企画したのは、小田急電鉄デジタル事業創造部の東海林勇人氏。現在は同部で「いちのいち」プロジェクトの統括リーダーを務めるが、もともとは電気のプロだ。2008年に小田急に入社し、架線や駅施設をはじめとする電気設備の保守点検を行う部署に配属。複々線化事業の工事担当として駅の地下化や駅舎設計なども手がけた。

ITやコミュニティビジネスなどとは畑違いともいえる東海林氏がこの企画を立ち上げるきっかけとなったのは、小田急が2018年に設けた社員向けの新規事業公募制度「クライマーズ」だ。「新しいものに飛びつくタイプ」という東海林氏はさっそくアイデアを練り始めた。

だが、最初から自治会・町内会向けのサービスを考案したわけではない。“通勤の途中で買い物を受け取れるサービス”や“車内で座れるよう駅で椅子のレンタル”などさまざまなアイデアを考える中で思い浮かんだのが、東海林氏の祖母が直面していた「高齢者の社会的孤立」という課題だった。

東海林氏の祖母は秋田県出身で、高齢になってから首都圏に転居。このため近所付き合いが少なく、会話するのは同居する東海林氏の母とヘルパー程度で寂しい思いをしていたという。同じような状況の高齢者を、自治会や敬老会など地域のお年寄りが集まっている団体と何らかの方法でつなぐことはできないか――。この発想が企画の出発点となった。事業公募制度は「社会課題の解決」を1つの軸としており、東海林氏のアイデアは選考を突破した。

自治会が抱える「情報共有」の課題

具体的な動きは2019年にスタートしたが、企画の発端が「高齢者の社会的孤立の解決」だけに、当初から地域向けSNSの作成に絞っていたわけではなかった。「例えば近所のお年寄り同士がテレビ電話で会話しながら、地域の人がファシリテーションするといった『ご近所通話』のような仕組みを考えていた」と東海林氏は言う。だが、実際に自治会関係者や地域住民の話を聞くと、別のニーズが浮かび上がってきた。


「いちのいち」の企画を立ち上げた小田急電鉄デジタル事業創造部の東海林勇人氏(記者撮影)

出身地や当時の勤務地が小田急沿線の神奈川県秦野市だったことから、東海林氏は同市の担当部署に市内の自治会を紹介してもらい、関係者に現状の課題などをヒアリングして回った。自治会のほか、独居女性が集まる会や、駅前を歩いているお年寄りにインタビューするなど150人以上に話を聞いた結果、見えてきたのは自治会の抱える「情報共有」の課題だった。

東海林氏が調査を進めると、自治会の役員らはお年寄りが会を辞めて孤立してしまうことを危惧してイベントを企画するなど工夫しているものの、「会の活動をしっかりと知らせる方法が欲しい」と考えている関係者が多いことがわかった。回覧板は手間がかかり、情報が行きわたるまでに時間がかかる。災害時の防災情報提供も大きな課題だった。

また、情報発信用にホームページやツイッター(現X)などを運用している自治会もあるものの、「できれば自治会専用のものが欲しい」との意見もあった。そこで生まれたのが「自治会・町内会専用SNS」という発想だった。

試作品は2019年秋に完成し、小田急と街づくりなどに関して連携協定する秦野市の協力のもと、同市内の約400世帯が加入する自治会で試験的な運用を開始。当初はブラウザー上で動作するシンプルなサービスだった。ここで得られた経験を基に改良を加え、翌2020年6月には同市全域の約40自治会で実証実験を開始した。

「いちのいち」という名称は、「地域のつながりが今後の社会を支える上での1丁目1番地」(東海林氏)という意味を込めている。ロゴは青で、一見すると小田急カラーのようにも思えるが、実際には「とくに意識していない」という。

試験を重ね機能見直し

現在の「いちのいち」はパソコンとスマホアプリの両方で利用でき、自治会からのお知らせを表示する電子回覧板的な役割の「ホーム」のほか、自治会・町内会内の役員会や子供会といった個別のグループで情報発信・共有できる「コミュニティ」、自分のプロフィールなどを登録して地域住民との交流につなげる「マイページ」、そして災害情報などを発信する機能がある。これらは試験運用や実証実験の結果を踏まえてつくられた。


「いちのいち」のスマートフォンアプリの画面イメージ。左から「ホーム」「コミュニティ」「災害情報」の画面(小田急電鉄提供画像を記者加工)

試験段階で不要と判断されて消えた機能もある。悩みなどを相談する「助け合い広場」だ。これは「困りごとを投稿して住民同士でアクションしてもらう」(東海林氏)という狙いだったが、地域の誰もが見られる場所に実名で悩みを投稿するのはハードルが高かった。これは特定の参加者同士でやり取りできる「コミュニティ」機能で代替することにした。

実際に市内の約40自治会に導入されると、「回覧板だと行事の案内があっても終わった後に回ってくるが、このシステムならすぐに見られる」「写真もアップロードされるので、地域清掃や火の用心の見回りなどの様子がリアルタイムで見られるのがいい」といった声が寄せられた。また、雨でイベントを中止するといった告知や、地域によっては訃報の伝達に使われた例もあったといい、「情報の迅速性や気軽に投稿できるという点では一定の評価をいただいた」と東海林氏は話す。

秦野市の後も導入は広がり、2022年には小田急沿線の神奈川県川崎市麻生区で実証実験を開始。同年度には東京都から「町会・自治会への地域交流アプリの導入支援事業」を受託し、世田谷区、町田市でも展開している。


「いちのいち」の機能について連携協定締結式の場で説明する東海林氏(記者撮影)

沿線外にも使用例は広がり、2023年3月には京都市と小田急が「いちのいち」を地域活性化に活用することで連携協定を締結。同年5月には総務省の「自治会等における地域活動のデジタル化実証事業」に採用され、北海道から沖縄県まで全国9道府県の10市町村で利用が始まった。これらとは別に各地の自治会から利用の申し込みもあるといい、現在は全国約600自治会、ユーザー数は数万人まで増えた。

自治会向けは負担少なく

「いちのいち」の自治会・町内会向けの利用料金は、機能の多い「プレミアム」でも300世帯につき月5000円で、無料プランもある。ビジネスとして成り立つのか気になるところだが、東海林氏によると「自治会向けのプランは会費などで賄えるように負担を抑えた事業設計にしているが、行政(自治体)向けのプランは全て有償、別料金で個別見積もりのため、しっかり営業収益は上がっている」と説明する。


スマートフォンに表示した「いちのいち」の画面(記者撮影)

小田急線に乗ったことがない人も多いであろう地域でも採用が増える「いちのいち」。沿線に根差して展開してきた大手私鉄がこのようなサービスを展開する意義について、東海林氏は「私鉄は地域の方々やコミュニティとともに歩んできた歴史がある。(このようなサービスも)地域にどう価値を提供するかという点には変わりなく、その姿勢自体は小田急のあるべき姿だと思う」と語る。

ニッチな分野ながら行政なども注目する「ご近所SNS」。私鉄がリアルの世界で進めてきた「地域活性化」を、デジタルの世界でも展開できるか。


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(小佐野 景寿 : 東洋経済 記者)