ジャニーズとビッグモーターに共通する問題点とは(写真上:SASA/PIXTA 下:mizoula/PIXTA)

なぜ「無敵の人」が増え続けるのか、保守と革新は争うのか、人間性と能力は比例するのか。このたび上梓された『武器としての「中国思想」』では、私たちの日常で起こっている出来事や、現代社会のホットな話題を切り口に、わかりやすく中国思想を解説している。

同書の著者で、中国思想・日本思想の研究者、大場一央氏が2つの企業事件の「深層」を読み解く。

2つの企業事件と一族経営

2023年も半ばを越えた頃、2つの企業事件が社会を賑わせた。1つがビッグモーター社による保険金不正請求問題であり、もう1つがジャニーズ事務所による性加害問題である。両者の不祥事は、表面上は異なる内容に見えるが、それを惹起した要因には共通項がある。


ビッグモーター社は、保険金不正請求以外にも、副社長による「パワハラ」とおぼしき現場への圧力や、恣意的な人事異動が頻発しており、それが社内の閉塞感と不正を生む温床となっていた。ジャニーズ事務所は、圧倒的な業績をあげた創業者とその親族が、絶対的な権威として君臨しており、それが被害者や周囲の感覚を麻痺させ、数十年にわたる被害を野放しにしていた。

こうした問題が発生する要因として、「ガバナンス」が機能していないことが挙げられる。ガバナンスとは、経営陣が適正な経営を行っているか、管理監督する仕組みのことであり、これによって、経営不祥事を防止し、企業の所有者である株主をはじめ、従業員などの権利を維持する。

また、これに付随して、意志決定のプロセスを明確化し、組織を機能化していく「内部統制」や、規範意識やルール理解を徹底する「コンプライアンス」など、必ずしも語義が明確に規定されていないものの、おおむね組織体系を整え、規範意識を高めるという流れが、2000年代から強まっている。

両社の引き起こした事件は、一族経営によるガバナンスの軽視が表面化したものであり、それは、ガバナンスに代表される企業統制の必要性を裏づけるものとなった。

ただ、それは単に一族経営だから深刻化した問題なのか。中国思想の観点から考えてみたい。

古代中国の組織と思想

企業に限らず、およそ異なる利害や価値観を持った人間が集まることで、組織は誕生する。その最たるものが国家であり、国家はすべての国民の利害を調整し、価値観の相違によるいさかいを調停することで、その権威と権力とを保持している。

組織の原則として、「利害の調整」と「価値観の調停」こそ、最大の目的となる。それは企業においても、株主、経営陣、従業員、顧客の利害を調整し、それぞれが企業活動に対して抱く価値観を調停することで、利益構造をつくりだす。

ところが、組織の原理として、力関係の強弱が生まれることは避けがたく、まったく平等な関係ということはありえない。したがって、この調整や調停には、いきおい理不尽な処理が行われ、誰かが泣き寝入りすることも避けがたい。

ここに生じた不満や矛盾が臨界点に達すると、そこには不合理な経営による破綻や、内部の反乱などが発生し、組織は崩壊することとなる。

古代中国では、広大な大陸に広がる、さまざまな文化や言語を持つ人々をとりまとめるため、王朝は「礼」を定め、人々の利害や価値観の相違をとりまとめた。

礼とは、それぞれの官職における立場と役割を定め、その責任範囲における規範を明示化したものであり、そこには職責と権限はもちろんのこと、その立場や役割にふさわしい言葉づかい、ふるまい、衣服、調度品に至るまで、細々として規定がなされた。

ここにおいて人々は、礼にもとづく言動を通じて、その形に込められた心を感じ取ることが可能となり、目に見える形を通じて誤解なく意思疎通し、協働することが可能となったのである。つまり、礼は人々の利害や価値観の最大公約数を設定し、誰もが納得(あるいは妥協)できるラインを視覚化したものであり、そこには形と心、すなわち規範と倫理が備わっているものでなければならなかった。

これはいわゆるガバナンスやコンプライアンスと共通する発想であり、またそこに組織の安定を見いだした思想表現であった。

「功利」と社会の崩壊

ところが、礼を基盤とする王朝は、崩壊の時を迎える。それは、礼の制定者である「王」が、みずから礼を破ったことではじまる。王は世襲制によって国家を統治していたため、優れた王もいれば、暗愚な王も存在した。

本来であれば、どの王が即位しても、恣意的な意志決定ができないようにするための礼であったが、暗愚な王が恣意的な運用を行った結果、国家統制が崩壊したのである。周囲は礼を守ることよりも、礼を破ることで利益を確保しようと考え、互いに争うようになり、それは価値観の違いによる憎悪によって増幅され、ついに数百年にわたる国家の分裂と戦乱へと発展していった。

この時、人々に起こった新しい考えが「功利」である。

これは、成果をあげ、利益を出すことが最も正しいことであり、成果や利益がないものは、何を言っても、何をしても、何の意味もないという考えを意味する。

これにより、礼は不要な規制によって功利を妨げ、既得権益を守るための障碍だと非難され、身分にかかわりなく、能力のあるものが上に行くことが尊ばれた。この時、組織のありようも変化し、組織は利益追求を至上価値とする一方、能力のない者や資産の少ない者を切り捨て、戦乱を生き残るために最も「合理化」された姿を目指すようになる。

合理化といっても、それはあくまで組織の利益上のことであり、この場合、従業員たる家臣や国民の利益は考えられていない。したがって、いわゆる「富国強兵」によって国力が上昇したとしても、そこには不安定な国民の経済生活と、明日をも知れぬ不安が渦巻いており、かつ経営陣たる君主や大臣であっても、能力に不足があると見られれば、その地位を剥奪され、場合によっては殺される事態となる。

功利が行き着く先は、たえまない競争と弱肉強食の社会であり、国家のソフト面を支えている国民の規範意識や倫理観を破壊した結果、不正や汚職、反乱などの不安定要素にかかるコストが膨れ上がり、当初こそ羽振りの良かった国々は、最終的に滅亡の道を歩むこととなった。つまり、功利が主張していた規範や倫理の「合理的」維持は、まったく起こらなかったのである。

「功利」の闇

この歴史を見る限り、今回問題となった2つの企業は、致命的な間違いを犯している。

それは、一族経営による、ガバナンスやコンプライアンスの軽視によって、組織の管理監督が行われず、規範意識や倫理観の欠如が発生し、組織の利害調整や価値観調停が行われていなかったことである。

これにより、従業員へのパワハラ、性被害といった人権侵害が行われ、従業員のみならず、顧客の利益をも失ってしまった。これは、古代王朝にすら存在した、「公器」としての機能が存在せず、あくまでも経営陣の私益を追求するだけの私的集団となったことを意味する。

すなわち、この集団では株主、経営陣、従業員、顧客が、その業務に関係することで得られる利益や満足は、あくまでも一部の人間の欲望を満たすためのものとなるから、つねに誰かの利益と満足を犠牲にして成り立つこととなり、たとえその被害が従業員や一部顧客に限られたものであったとしても、それが際限なく拡大していくと、やがては多くの人々に被害をもたらす事件を引き起こす可能性が高いものである。

また、これら企業が今日まで隆盛を誇った理由は、その業務によって多大な利益をあげており、その利益を共有する他の企業や個人が、その利益をもって評価し、ガバナンスやコンプライアンスの欠如を、相対的に問題としなかったことである。

これは正しく「功利」にもとづく判断であり、一族経営でない関係企業だとしても、それをチェックし、是正するはたらきかけができなかったことに注目すべきである。つまり、「功利」的社会が一族経営による私益を守ってきたのである。

そうした時、問題の焦点は「功利」にこそあることが理解できる。現在、2社に対する風当たりは強くなり、CMやスポンサーの撤退を通じた圧力が生じているが、それも輿論の反発によって、自社の利益に影響が出ることを天秤に掛けた結果であり、本質的解決のない「功利」的行動にほかならない。こうして日本社会にはいつまでも、口にするのも憚られる闇が残るのである。

「功利」の克服と「礼」の回復

中国の歴代王朝では、その誕生時こそ君主のカリスマがものを言ったが、代を重ねるにつれて組織や規範の整備が進み、システム化された体系の中で、次第に君主を象徴的存在にしていった。それは、その組織に関わる人が多くなり、その動きに左右される人が増えることで、必然的に起こる動きであった。

ここでは礼による規範の設定にはじまり、制度や法令が明文化された。こうして王朝は国民全体の利害を調整し、価値観を調停することが可能となる。この時、王朝は君主の私的権力機関よりも、「公器」としての性格を強める。

ただ、時代の流れに応じて、そうした規範や制度にもぶれが生じ、過剰な変革や停滞によって、行き先が見えなくなることがある。その時、評価が分かれて対立を生みやすい実質的な指導者に代わり、王朝の理想を体現する象徴として、人々をとりまとめるのが君主である。君主を通じて人々は、在りし日の理想を感じ取り、現在の政治の是非を越えて、国家が再生することに期待をかける。

そうした機能を無視して、みずからが意志決定に積極的に関与し、実質的な指導者となろうとした君主は、おしなべて独裁者として忌み嫌われ、やがて王朝そのものに対する信頼を失っていく。何故なら、たとえその独裁が上手くいったとしても、現実に撤廃しがたい理不尽による不満の矛先は、実質的指導者たる君主に向かうからであり、最終的にどこかでミスをすると、一気に王朝批判につながるのである。

これを企業にあてはめると、創業者、および創業一族は、経営規模が拡大し、より大きな規模の利害関係者が生じた時点で、ガバナンスの構築に全力を挙げ、経営から手を引いて、経営や人事に影響力を行使できない割合まで、保有株式を引き下げるべきである。

その事業は、すでに公益性、すなわち人々の生活を良くし、社会がより豊かになるための経済活動にシフトしており、またそこで働き、取引をする人々の利益や価値観を保証する「公器」としての性格を強めているからである。したがって、企業の公益性が低くなることは、必然的に社会全体の規範や倫理が低下することにつながるから、創業者や創業一族が私益を追求することは、反社会的集団の存在を許すことを意味する。

そして、創業者と創業一族は、みずから第一線を退くことで、人々に「功利」以上の社会的価値、「公益」の存在を明示し、その後の実質的経営にぶれが生じた場合、その存在によって企業の精神的団結をもたらすべきではないだろうか。それこそが、創業者にしかなしえない「礼」である。

一族経営は、親族の苦労や努力の歴史を継承することで、その経営方針や理想の一貫性を維持することに有効であり、本質的に悪いものではない。しかし、2社のように、そもそも私益性が強い組織では、むしろ規範意識や倫理観の欠如した、身内意識ばかりが強く、反社会性を育み、隠蔽する体質を強める。

風通しの良い「公器」としての企業

そうすると、両社の一族経営による隠蔽体質やハラスメント気質を、日本の企業風土として批判することは表面的であり、本質的な改善にはならない。まして、両社の収益を維持するために一族経営をやめたところで、それに関係する一般企業において、利益の確保が最優先になる限り、そこには相変わらず従前の利益を維持するための不正や隠蔽が残ることは必至であり、看板の掛け替えでおためごかしをしようとする姿勢は、人々によって容易に見抜かれる。

したがって、両社の一族経営を解体することはもちろん必要だが、それ以上に、この二社の存在を許してきた、社会や企業における「功利」の存在に目を向け、ガバナンスの必要性の裏にある、「礼」の思想への欲求を、もっと真剣に考えてみるべきではないだろうか。そうした時にはじめて、一族経営の長所による安定を図りつつ、風通しの良い「公器」としての企業が生まれ、社会の安定と公益の確保ができると思う。

(大場 一央 : 中国思想・日本思想研究者、早稲田大学非常勤講師)