朝日姫は突然夫と離縁させられ、敵方である家康に嫁がされました(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

NHK大河ドラマ『どうする家康』第33回「裏切り者」では、地力に勝る秀吉が各地で敵を調略し、徳川家臣団の重鎮である石川数正を秀吉の配下にするまでが描かれました。第34回「豊臣の花嫁」では、未曾有の大地震により方針転換をした秀吉が次々と手を打ちますが、その1つである朝日姫について『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら』の著者・眞邊明人氏が解説します。

1543年生まれの朝日(旭)姫は兄・秀吉の6歳下で、父は竹阿弥で母はなか。秀吉とは異父妹にあたります。朝日姫は(当時は姫とは呼ばれていなかったでしょうが)農民として両親とともに暮らしていました。

兄の秀吉は早くから家を離れていたので、彼女にとっては遠い存在だったでしょう。秀吉が信長に取り立てられ出世していくと、朝日姫の3つ年上の兄である秀長も武士として取り立てられ、家を出ます。

朝日姫の最初の夫・佐治日向守(副田甚兵衛という説もあります)も秀吉に仕えることになり、彼女の人生は一変していきました。

戦局を一変させた天正の大地震

小牧長久手の戦いでは局地的に敗れた秀吉でしたが、家康と同盟していた織田信雄と講和し、家康との軍事対決をいったん終わらせます。すると、家康による秀吉包囲網の西側の柱だった雑賀・根来衆、四国の長宗我部元親を屈服させ、さらには北陸の佐々成政も降し、家康は孤立状態に。

そして秀吉は関白の宣下を受け、織田家の重臣としてではなく、朝廷という国家権力を背景に自身の政権の正当性を手に入れることに成功します。この時点での秀吉の対徳川政策は「討伐」の二文字でした。

このころ家康は、信濃では真田昌幸に手こずり、領内は相次ぐ戦によって荒れ果て、さらには重臣の石川数正が秀吉に寝返り、家康自身は背中の腫れ物に苦しむなど、最悪と言っていい状態に。この状況を見た秀吉は一気に攻め滅ぼす計画を立て、その準備にかかっていました。まさに絶体絶命でしたが、ここで「天正の大地震」が家康を救うことになります。

1586年1月18日、日本列島をマグニチュード8クラスの大地震が襲いました。東海、北陸、近畿は壊滅的な被害を受け、秀吉は早急な領内の復興を余儀なくされます。

徳川の領内の被害は比較的少なかったようですが、それでも荒廃し、戦を継続する力は残っていませんでした。この状態の徳川の討伐を秀吉は諦め、和解の道を選びます。

その理由は、よくわかっていません。

秀吉がその気になれば2、3年後ろ倒しにしても徳川討伐は可能だったでしょう。しかし秀吉は、家康を自身の政権に取り込むことを第一目標に変更します。

信頼の置けない配下の抑えとして家康を利用

これは推測ですが、秀吉は大地震を機に、戦を長引かせるより早く天下統一を果たしたほうがいいと考えたのでしょう。であれば最大の難敵・徳川と戦うより、自分の側に取り入れたほうが得策だと計算を働かせたのかもしれません。

さらに秀吉政権の配下は、ほとんどが織田の同僚たちです。子飼いの家臣ではないため、秀吉からすれば信頼を置けない者ばかりでした。彼らからの反感を抑える意味でも、織田唯一の同盟国だった徳川が自分の配下に入れば、自分への信頼もまた違ったものになると思ったのかもしれません。

もしも、それを説いたのが、あの石川数正だったら……。

秀吉が恐ろしいのは、一度決めたら、その目的に対する手段を選ばないところです。

秀吉の目的は家康自身を上洛させ、諸大名の前で家康に臣下の礼をとらせることでした。すでに家康は次男の秀康を人質に出していましたが、自身の上洛は拒否していました。

家康が「上洛したら討ち取られる」と懸念しているのではと考えた秀吉は、自らも人質を送ることを考えます。

天下の覇者が自ら人質を送る。

これは秀吉以外、考えつかないような奇策です。

もちろん、体裁は整える必要があります。

朝日姫、夫と離縁させられ家康に嫁ぐ

そこで秀吉は、家康が築山殿の後に正室を持っていないことに目をつけ、妹の朝日姫を家康に嫁がせるという荒業を思いつきました。

このとき朝日姫は44歳、家康は45歳。当時の感覚でいえば老齢と言ってもいい年齢です。


家康を滅ぼすのではなく利用する道を選んだ背景とは(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

夫と2人で暮らしていた朝日姫を強引に別れさせ、家康のもとに送ります。「嫁ぐ」と言いながらも、実際は人質でした。

徳川方も、花嫁ではなく人質として扱ったようです。この時代ならセカンドライフと言ってもいい年齢で、夫と別れさせられ敵地と言っても過言ではない場所に送られた朝日姫の心中を思うと、残酷な仕打ちと言ってもいいでしょう。

秀吉としては、これで家康も上洛してくるだろうと思ったはずですが、家康はなんと、それでも上洛の意思を見せませんでした。どうやら、この朝日姫が本当に秀吉の妹か疑っていた節があります。

こうなると秀吉も意地です。

秀吉、実母まで家康に送りつける

なんと今度は見舞いと称して、自分の母親である大政所を岡崎に送ることを決めます。

真偽のほどは定かではありませんが、大政所が岡崎に着き、朝日姫と手を取り合って泣いているところを見て、ようやく家康は秀吉の覚悟が腹落ちしたという話もあったようです。

こうして家康は上洛の意思を固めます。

ただ、家臣たちは家康に何かあればと朝日姫と大政所のいる屋敷のまわりに薪を積み上げ、いつでも焼き殺せるようにしていたとの話も。これらの逸話の信憑性は低いですが、おそらくそれに近いことはあったのではないでしょうか。

徳川方としては、それほど家康の上洛に危機意識を持っていたのです。

もっとも天下人となった秀吉からすれば、家康を騙し討ちするくらいなら時間がかかっても大義名分のもとに徳川征伐を行ったほうがいい。

家康を妹婿とすることで、国内最大勢力であり織田時代からの同盟国である徳川を政権に取り込んだほうが、はるかにメリットは大きかったと思われます。

秀吉による苦肉の策だったとはいえ、家康にしてもみても、この婚姻は家康が天下人たる秀吉の身内になることであり、対外的にも徳川のメンツを守るいい口実でした。もちろん利用された朝日姫の心中を除けばですが。

家康の上洛によって朝日姫の人質としての役目は終わりましたが、彼女はそのまま家康の正室として駿河に居を構え暮らしました。そのことから駿河御前と呼ばれます。

家康が彼女のもとをどれくらい訪れたのかは記録として残っていません。ただ、その扱いは丁重であったようです。

輿入れしてから2年後の1588年に母、大政所の見舞いに上洛するまで彼女は静かに駿河で暮らしていました。しかし、体調は思わしくなかったようで、翌年に亡くなりました。大政所の見舞いで上洛したまま、駿河に戻ることなく亡くなったという説もあれば、駿河にいったん戻って、そのまま亡くなったという説もあります。

死因は「気うつ」と言われています。

気うつとは、一種の精神疾患であり、強い不安から起こるものです。老齢に入ってからの静かな暮らしを奪われ、場違いな武士の世界に組み込まれ、長年連れ添った夫を奪われ、そして天下のためと言われ見知らぬ土地と敵対心の強い集団のもとに送られた朝日姫の心は、すでに限界だったのでしょう。

1590年2月18日、朝日姫は47歳の生涯を終えます。

朝日姫の訃報を受けた家康の行動は?

朝日姫の訃報に接した家康は、このとき小田原征伐の準備の最中でしたが、彼女を東福寺に葬り、のちに朝日姫のために南明院を建立しました。この寺は、徳川将軍家の菩提寺になっており、彼女の肖像画もここに所蔵されています。


また、家康は駿府にも彼女の墓を建立しました。

家康は彼女をきちんと徳川家の一員として、自分の正室として認めたということです。

実子や側室に時に冷たい仕打ちをした家康ですが、家康なりに朝日姫の苦悩やそのつらさを理解していたのかもしれません。

家康と朝日姫がどんな言葉を交わしたのかは、どこにも手がかりはありません。しかし彼女への思いやりとも解釈できる家康のいくつかの行動から、朝日姫の晩年に突如訪れた過酷な運命に、少しの安らぎを見出せるような気がします。

(眞邊 明人 : 脚本家、演出家)