大阪城(写真:でじたるらぶ / PIXTA)

NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第37回は、秀吉の妹の朝日姫をめぐる、悲しい逸話を紹介する。

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家康の子どもを切望した秀吉

徳川家康と豊臣秀吉が激突した「小牧・長久手の戦い」は、織田信雄が和睦したことで、ピリオドが打たれた。

天正12(1584)年3月に始まり、和睦が成立したのが、同年11月なので、戦は8カ月にわたって行われたことになる。

実は9月の段階でいったん和議の話が持ち上がるも、決裂。その後も、秀吉の信雄への工作は続けられて、11月11日に和議が成立した。家康も16日には岡崎に帰還している。

この和議によって、信雄は自分の娘を人質として渡したうえに、北伊勢五郡を除く伊勢国と伊賀国を秀吉に引き渡すこととなった。

そして12月12日には、秀吉は「家康の子どもを養子として迎えたい」と言い出した。『徳川実紀』によると、秀吉からは信雄を通じて、こんな要請が行われたのだという。

「秀吉の年齢は早くも50才になるが、いまだ家を譲る男子がいないので、徳川殿の御曹司のうち1人を申し受けて養子にして一家の交わりを結べば、天下にとってこのうえなくめでたいことである」

家康は、これに応じるほかなく、次男の義伊(ぎい)を養子として送っている。このときに、石川数正の息子である勝千代と、本多重次の息子である仙千代も随行した。

家康勢が幸先よく劇的な勝利を飾ったことから、小牧・長久手の戦いについて「実質的に家康の勝利だった」と喧伝されることもある。だが、和議の内容からして、実質的にも秀吉の勝利だったと言わざるをえないだろう。

翌年になると、秀吉の勢いはさらに増していき、四国の長宗我部元親や、越中の佐々成政など家康勢と通じていた諸勢力も、秀吉の軍門に下っていく。

そして、7月11日には、秀吉が従一位関白に叙任される。「藤原秀吉」として内大臣から関白となり、われこそが政権を担っていくという姿勢を打ち出すこととなった。

石川数正の逃亡で家康が大ピンチ

家康が孤立していくなかで、秀吉は9月になると、家康にさらなる人質の提出を強要。そのうえ上洛まで求めてきた。時期的には、徳川勢が上田合戦で真田昌幸に敗れたばかりの頃だ。家康はいよいよ劣勢に立たされている。

そこで家康は10月28日に、諸将たちを浜松城に収集。今後の秀吉への対応について話し合いを行っている。

「これ以上、人質など出す必要はない」と、酒井忠次や本多忠勝をはじめ秀吉との全面対決を望む家臣が圧倒的に多いなかで、「秀吉と融和すべきだ」と唱えた重臣がいた。石川数正である。

数正は外交役として、秀吉との講和交渉にあたってきた。それだけに、秀吉のとてつもない勢いを肌で感じていた。なにしろ、京には豪華な聚楽第を築いて、関白の地位にまで上り詰めているのだ。強硬論者のように「調子づいた秀吉を撃つべし」と単純に考えることが、数正にはどうしてもできなかったのである。

数正は秀吉に通じているのではないか――。数正があまりに秀吉に対して弱腰なために、そんなふうに疑いの目を向けられることさえあった。前述したように、数正の息子が秀吉のもとにとられていることも、そんな噂に信憑性を持たせたらしい。

もはや、ここには自分の居場所はないと感じたのだろうか。話し合いから半月後、数正は出奔。妻子とともに、あろうことか秀吉のもとへと向かうこととなった。

家康にとっては、寝耳に水というほかはない。重臣の思わぬ裏切りに大きなショックを受けながらも、家康は軍制を刷新している。数正が秀吉方についた今、家康陣営の状況は相手に筒抜けになってしまっているからだ。

合わせて、家康は岡崎城や東部城などの普請も始め、本多重次を新たな岡崎城代に任命している。必要に迫られて、バタバタのなかでの組織変更となった。

一方の秀吉からすれば、家康にダメージを与える、これ以上の好機はない。数正が出奔してからわずか6日後、秀吉は動く。上田合戦で家康に勝利した真田昌幸に書状を送り、数正が家康のもとを去ったことを知らせたうえで、自身が家康を討つと宣言。真田に協力を要請している。

また、家康も甲斐や信濃の国衆に人質を出すように求めて、自陣の結束を固めるべく動いている。北条との同盟も強化しながら、安房の大名である里見義康に書状を出して、誓約を結んだりもした。

まさかの大地震が発生

秀吉の勢いに押されながらも、確実にやれる手を打っているのが、家康らしい。秀吉との対決も近いかと思われたが、事態は意外な方向へと転がり出す。

鼻息荒く家康征伐を真田に宣言した秀吉だったが、まさに攻め入ろうとしていたタイミングで、大地震が起きる。天正13(1586)年11月29日、中部地方から近畿地方にまたがる広域に発生した天正地震のことだ。

天正地震の震央(震源の真上の地表の地点のこと)は岐阜県大垣付近で、推定マグニチュードは7.8とされている。震度5〜6の揺れが富山から大阪にかけて広範囲で起こったというから、ただ事ではない。

各地で甚大な被害が出るなか、最も大きな被害を受けたのは、織田信雄の領地だったようだ。「小牧・長久手の戦い」では、家康に泣きついておきながら、秀吉と和睦してしまった信雄だったが、この地震ののちには、秀吉と家康の間に積極的に入って、戦が起きないように間をとりもっている。両者とも地震の影響で戦どころではなくなったこともあり、天正14年正月に、信雄が岡崎城に出向いて、秀吉と家康との間にも和議が成立することとなる。

同時に秀吉は、戦で叩くのではなく懐柔することで、家康を自分の臣下として従わせようとしている。秀吉は上洛を何度も促すが、家康からすれば、重臣たちの秀吉への反発も無視はできない。あくまでも臣従を拒否する姿勢を貫いている。

妹を離婚させた秀吉のえげつなさ

そこで秀吉は次なる一手として、自分の妹である朝日姫を、家康の正室にと差し出した。『徳川実紀』によると、秀吉サイドから次のように持ち掛けられたという。

「家康の北の方は先年あることが起こったあと、いまだ正室を迎えられた方も聞かない。秀吉の妹を差し上げたい」

朝日姫の母は、秀吉の生母と同じ大政所である。大政所は、前夫である木下弥右衛門が死去したのちに、幼い秀吉を連れて、筑阿弥(竹阿弥)と再婚。秀長と朝日姫が誕生したとされている。

秀吉はそんな朝日姫を家康の正室にと送り込んだわけだが、朝日姫は44才で、すでに他家に嫁いでいた。夫の名には諸説あるが、尾張の農民から武士となった佐治日向守だともいわれている。

秀吉は朝日姫を離縁させてまで、家康に嫁がせたのだから、あまりにも強引だ。

家康はといえば、秀吉の妹を正室として受け入れながら、それでもなお上洛を渋っている。粘れるところまで粘ろうという腹だったのだろう。

すると今度は、自分の母親まで送り込んで、秀吉は家康を自分に従わせようとしてきた。そんな「狐と狸の化かし合い」のような攻防戦の末、家康がついに折れて、天正14(1586年)10月24日に上洛。27日に大坂城で秀吉に拝謁することとなる。

二度も正室を亡くした家康

朝日姫はというと、7カ月ほど浜松城ですごしたのちに、家康の移動に伴って、駿府城へ。「駿河御前」と呼ばれた。だが、やがて聚楽第に住むようなり、家康のもとに嫁いで4年後の47歳で朝日姫は死去している。

東福寺に埋葬された朝日姫には「南明院殿光室総旭大姉」という法名が与えられた。罪滅ぼしなのか、秀吉は同境内に南明院を建立。菩提を弔っている。

築山殿に続いて、今度は朝日姫と、二度も正室を亡くした家康。これ以来、生涯を通じて、正室をとることはなかった。

【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉〜〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
太田牛一、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
野田浩子『井伊家 彦根藩』(吉川弘文館)

(真山 知幸 : 著述家)