フィリピンが中国の南シナ海進出に対抗するために座礁させたシエラマドレ号(2014年8月、写真・柴田直治)

南シナ海のスプラトリー(南沙)諸島で動かない1隻の「難破船」をめぐり、フィリピンと中国の間で緊張が高まっている。

老朽艦を意図的に座礁させて実効支配の拠点とし、海兵隊員らを駐留させているフィリピンに対して、周囲を多数の艦船で囲んで兵糧攻めをしてきた中国側が、ここに来てフィリピンの補給船に放水銃を浴びせたり、巡視艇にレーザー照射したりと妨害をエスカレートさせている。そうした映像が繰り返し報じられているフィリピンでは対中感情が著しく悪化している。

レーザー照射に放水銃

フィリピン沿岸警備隊(PCG)は、中国海警局の大型船が2023年8月5日、フィリピンの小型船に接近し、放水銃で激しく放水する様子の映像を公開した。上空からの撮影では、小型船は放水を避けるため進路変更を余儀なくされていた。さらに中国の大型船がPCGの巡視艇の進路を阻止している動画もメディアに提供された。


(地図・共同)

PCGの巡視艇と小型船は、同国南部パラワン島の西190キロメートル(103海里)に位置するアユンギン礁(英語名セカンド・トーマス礁、中国名・仁愛礁)に向かっていた。フィリピンの排他的経済水域(EEZ=沿岸から200海里以内)内に位置し、中国からは最も近い海南島からでも1000キロ以上離れている。

アユンギン礁内には、フィリピンが実効支配の拠点とする老朽軍艦シエラマドレ号が座礁しており、そこに10人ほどの海兵隊員が駐留している。小型船は食糧など生活物資を届けるために軍がチャーターし、巡視艇が警護していた。

2023年に入り、アユンギン礁付近で中国艦船による強圧的な行動が頻発している。2月6日にはPCGの巡視艇が中国海警局の船舶から「軍用級」のレーザーの照射を受け、乗組員が一時的に失明した。

4月28日には、航行中のフィリピンの巡視船に中国海警局の大型船が40メートルまで接近し、衝突寸前となった。フィリピン側はいずれもSNSなどで動画を公開しており、中国側の強圧的な対応が世界に伝わった。

米中対立が深刻化するなか、アメリカ政府は2022年来、南シナ海でフィリピン軍や艦船が攻撃されれば、両国の防衛義務を定めた米比相互防衛条約(MDT)が発動されるとオースティン国防長官やブリンケン国務長官らが繰り返し明言している。


サーチライトを浴びせてきた中国海警局の巡視船(2014年8月、写真・柴田直治)

中国側の挑発行為は一触即発の危機につながりかねないため、以前にも増して耳目を惹くニュースとなっている。アメリカ、日本、オーストラリアなどの「同志国」は事案が発生するたびに中国の対応を非難し、フィリピンの立場を支持する声明を出している。

中国艦に沈められそうになった体験

アユンギン礁をめぐる中国のハラスメントは最近始まったわけではない。私は朝日新聞国際報道部で記者をしていた9年前、それを実体験した。

多くの記事を書いてきた南シナ海の領有権争いについて、実際の現場を見たいと思い立ち、この海域を管轄する自治体カラヤン群島町のユーヘニオ・ビトオノン町長(当時)の乗る漁船にカメラマンと同乗してアユンギン礁をめざした。そこで中国船による「接近拒否」の洗礼を受けた。

2014年8月1日午後6時半ごろ、私たちの漁船はアユンギン礁まで16キロメートルの場所にいた。パラワン島の港を出てから20時間ほどが経過していた。台風の接近による荒天で、行程は予定より10時間も遅れていた。

目の良い乗組員が、日の沈みかけた水平線の近くに停泊する中国海警局の大型船「3111」を見つけた。漁船とは逆方向を向き、動く気配がなかったので、夕食のカップ麺を乗組員らとすすり始めたときだった。

操舵士が「向きを変えたぞ」と叫んだ。中国船がUターンし、猛烈な勢いでこちらに向かって突進してきた。船長は「礁に入るのを阻む気だ」と言う。

6ノット(時速約11キロメートル)の漁船に対し、中国船は37ノット(同約68キロメートル)。10分ほどで漁船の目の前に割り込み、強力なサーチライトを当ててきた。「ブオー」と威嚇するように大きな警笛を鳴らす。私たちはあわてて救命胴衣を身につけ、柱やへりにしがみついた。

「ぶつけられるかも」。漁船は面舵をきり、北に進路を変えるが、中国船は執拗に追ってきた。船間が50メートルほどに迫った時、中国船は突然止まった。漁船は船長の機転で浅瀬を走り、引き潮も味方して、中国船はそれ以上進めなくなったようだった。何とか礁内に逃げ込めた。

ビトオノン町長は「これまでも何度も中国船の嫌がらせを受けてきたが、今回は沈められるかと一番緊張した。荒波のなかで民間船をここまで追い詰めるとはひどい」と憤慨していた。単なる威嚇ではなく、沈めるつもりだったのだろう。海の藻屑と消えた漁船もあると聞いた。

私たちは荒天が収まるまでシエラマドレ号に6日間滞在した。その間、中国船はつねに環礁の外の南北に2隻が停泊し、威嚇するように時折400メートルほどにまで近づいてきた。中国の偵察機が上空を旋回していた。

この老朽艦はもともと、第2次世界大戦中の1944年にアメリカ・インディアナ州で建造された戦車揚陸艦(LST)USSハーネット・カウンティ(LST-821)だった。2024年で建造80年、傘寿である。


シエラマドレ号内の海兵隊員の住居スペース(2014年8月、写真・柴田直治)

ベトナム戦争中、アメリカ政府が南ベトナム政府に海軍輸送船として引き渡した。1975年にサイゴンが陥落すると、アメリカはフィリピン海軍に譲渡し、シエラマドレ(LT-57)と改名された。

フィリピン政府は1999年、シエラマドレ号をあえてアユンギン礁に「難破」させ、海兵隊員らを駐在させることで実効支配の拠点とした。中国が1995年、「漁船の避難所」との名目で、フィリピンのEEZ内にあるミスチーフ礁に建造物を構築したことに対抗する措置だった。両礁の距離は33キロメートルだ。

アメリカ軍撤退の隙を突いた中国

アメリカ軍は、フィリピンが1946年に独立した後も南シナ海に面したスービック湾に在外最大の海軍基地、中部にクラーク空軍基地を置き、インドシナ戦争の出撃拠点とした。ところが冷戦が終結し、フィリピン上院も基地協定の延長を拒んだため、1992年に両基地から撤退した。

この隙を突く形で中国がミスチーフ礁を奪取し、南シナ海に足場を築いた。ミスチーフ礁は2010年代に中国が埋め立てて整備し、現在は3000メートル級の滑走路を持つ巨大な海上軍事基地となっている。

シエラマドレ号は全長約100メートル。遠目からは対空砲を備え、レーダー塔が周囲を見渡す立派な巨艦に見えなくもないが、近づくと船体はさびだらけだ。乗船すると甲板のあちこちに穴があいていた。

「梁を踏んで歩け。でないと踏み抜くぞ」と警告された。砲台は朽ち、ドアはないか外れている。船倉は巨大なゴミ屋敷と化していた。蚊とゴキブリが大量に繁殖し、ネズミが走り回っていた。


ネズミやゴキブリが走り回っていたシエラマドレ号の船倉(同)

フィリピンは南シナ海で9つの島や環礁を占有するが、中国船がつねに監視し、近づく船を妨害するのはアユンギン礁だ。補給船を入れさせず、大規模補修を阻めば、遠くない将来に「難破船」は崩れ落ちると踏んでいるようだ。そうなれば多数の船舶でフィリピン側の接近を阻止して実効支配をめざす熟柿作戦である。

私が滞在したころでも補給船が中国の妨害で近寄れず、フィリピン空軍機が食料を投下することがあった。環礁内を素潜りして魚や貝類などその日のおかずを確保することが海兵隊員の日課でもあった。海兵隊員らは約半年で交代する。

中国は最近になり、アユンギン礁への締め付けをさらに強めている。私が訪れた9年前、監視する海警局の船舶は2隻か多くても4隻だったが、現在は大型巡視船数隻が常時周囲を回遊しているほか、民兵が乗り組んでいるとみられる漁船が数十隻の船団を組んで停泊する様子も確認されている。

妨害行為の激化は、親中派とされたドゥテルテ前政権の外交・安全保障政策をマルコス政権がアメリカ寄りに大きく転換したことと関連がありそうだ。

前政権の政策継承を公約にしたマルコス氏だが、2022年6月に大統領に就任すると比米防衛協力強化協定(EDCA)に基づき、アメリカ軍が利用可能な国内の基地を4カ所増やし9カ所にした。南シナ海問題を念頭に「領域は1インチたりとも譲らない」と宣言するマルコス氏をアメリカ政府が支える現状に、中国の対抗措置の象徴がシエラマドレへの兵糧攻めだ。

対中強硬論の台頭と沈黙する親中派

アユンギン礁周辺でのトラブルを中心にフィリピン政府は、2023年に入って8月初旬までに中国政府に35回抗議したという。

一方の中国は「中国領であることが歴史上明らかな海域にフィリピン船が侵入したため」という従来の弁明に加え、最近「フィリピン政府は過去に何度も艦船(シエラマドレ号)を撤去すると約束してきたが、果たされていない」と主張するようになった。マルコス大統領は8月9日「そんな合意は認識していないし、もしあったとすればいま破棄する」と話した。

合意があったのかどうかはやぶの中だが、フィリピン政府はシエラマドレと同時期に同様の手法で南シナ海のスカボロー礁に座礁させた海軍の老朽艦ベンゲットについて、1999年11月に中国の朱鎔基首相(当時)がマニラを訪問した際に撤去したことがある。


朝、国旗を掲揚するシエラマドレ号の海兵隊員ら(2014年8月、写真・柴田直治)

2001年から9年間にわたって大統領職にあったグロリア・アロヨ氏は合意を否定する談話を発表した。その前任者でシエラマドレやベンゲットを座礁させた当時のエストラダ大統領の息子らも、「父の時代にそうした約束はなかった」との声明を出した。

アロヨ氏は在任中から中国企業との癒着を指摘されてきた。ほかにも「親中派」とされていた政治家らがここにきて中国との関係については口を閉ざしている。

ドゥテルテ前大統領は2023年7月17日、中国・北京を訪れ、習近平国家主席と会談した。現職でない他国の政治家に会うのは珍しいとされる習氏は「大統領在任中に対中関係を改善するという戦略的選択をした」と称え、「今後も友好協力のために役割を果たしてほしい」と述べたとされるが、この会談についてドゥテルテ氏は沈黙を貫いている。

他方ミグズ・ズビリ上院議長が、中国船の妨害活動に抗議する意思を示すためとして中国製品のボイコットや中国企業の公共事業締め出しを提案するなど、政治家の間でも強硬な意見が目立ってきた。国民の対中感情の急激な悪化が背景にある。

民間調査会社パブリクス・アジアが2023年3月に実施した他国や国際機関の信頼度に関する調査では、対象の12カ国・国際機関のなかで中国への信頼度が最も低く、「とても信用する」は9%と唯一の1桁だった。

64%が「中国を信用しない」

「ある程度信用する」でも25%。逆に「まったく信用せず」は断トツの28%、「あまり信用せず」を合わせると64%が不信感を抱いていた。ちなみに「とても信用する」が最も多かったのは日本で55%だった。

他の調査でも同様の傾向が示され、しかも中国への不信感が年を経るごとに広がっている様子がうかがえる。別の調査機関パルスアジアが南シナ海問題をめぐって実施した2023年6月の調査では、友好国と同盟関係を結ぶことを支持する回答者は80%に上り、反対はわずか3%だった。

領有権問題の解決に向けてマルコス政権が取り組むべき施策について聞くと、「軍事力の強化」が72%、「同盟国との合同海上警備や軍事演習」が64%、「外的脅威から国を守る能力の強化」が61%だった。アメリカ軍との「訪問アメリカ軍地位協定(VFA)、EDCAの遂行」が54%の支持だったのに対して、中国が力を入れる東南アジア諸国連合(ASEAN)の「行動規範」策定の支持は37%と最下位だった。


ぼろぼろの甲板に、海兵隊員らが貝殻で書いた「PEACE」(2014年8月、写真・柴田直治)

在フィリピン・アメリカ大使館は8月1日、南シナ海の環礁を軍事基地化する事業を請け負ったとしてアメリカ政府がブラックリストに搭載している中国交通建設(CCCC)がマニラ湾の埋め立て事業に関与しているとフィリピン側に注意喚起する声明を出した。

これを受けてマルコス大統領は8月7日、マニラ湾で計画されている埋め立て事業のほぼすべてを凍結するように命じた。上院でも中国交通建設を締め出すよう求める議員がいる。領有権争いの敵方であるとともに最大の貿易相手である中国や中国企業とマルコス政権がどう向き合うか今後が注目される。

(柴田 直治 : ジャーナリスト、アジア政経社会フォーラム(APES)共同代表)