小田原城(写真: KiRi /PIXTA)

今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は家康と秀吉が小田原の北条氏と戦った背景を解説する。

天正14年(1586)11月、豊臣秀吉に臣従した徳川家康は、遠江国浜松城に帰還した。それからしばらく経った12月4日、家康は1つの決断をする。

駿府城に本拠地を移す

本城(本拠地とする城)を駿河国の駿府城(静岡県静岡市)に移したのだ。秀吉は関東、東北の惣無事(大名間の私闘の禁止)に向け、家康にその役目の中心を担わせた。そのためには、浜松より駿府が適している、そう考えて家康は駿府城を本城としたのである。

家康を臣従させた秀吉は心配事もなくなり、自ら九州に出馬(1587年)、島津氏を降して九州を平定したのであった。

諸大名が次々に秀吉に服属するなか、いまだ臣従していない有力大名がいた。小田原の北条氏である。家康と北条氏は縁戚関係にあった。家康の次女・督姫が北条氏直に嫁いでいたのだ。

家康は、秀吉に臣従しようとしない北条氏政・氏直親子に宛てて、書状(起請文)を送っている(1588年5月21日付)。その内容は、北条氏の領国を望むようなことはないこと、氏政の兄弟衆を5月中に上洛させること、秀吉に出仕することに納得しないのであれば娘(督姫)を返してほしい、などであった。書状からは強硬な態度が読み取れる。

しかし、氏政の兄弟衆の上洛はなかなか実現しなかった。北条氏の中で秀吉への融和派(北条氏直・氏規)と強硬派(北条氏政・氏照)の対立があったのだ。

閏6月になると、北条氏規の上洛のための準備の兆候が見え始めたが、それでも上洛はすぐには実現しなかった。

7月中旬には、家康は徳川家臣の朝比奈泰勝に対し、北条氏規の上洛を重ねて催促するように命じている。氏規が上洛し、秀吉と聚楽第で対面したのは、8月22日のことであった。豊臣政権は、北条氏は臣従したものと見なし、領土の裁定を下すことになった。

沼田領の引き渡しで、解決と思われたが…

その焦点となったのが、信州の上田城を本拠地とする真田氏が押さえていた上野国沼田領(沼田市)である。

豊臣政権は、沼田城と沼田・吾妻両領の3分の2の領域を北条のもの、3分の1を真田氏に残すことにした。北条氏はこの取り決めに不服であったが、最終的にはこの裁定に従った(1589年6月)。北条氏への沼田領の引き渡しが行われ、事は平穏に進むかに見えた。

ところが、天正17年(1589)10月末に事件が起こるのである。それは、沼田城の猪俣邦憲(北条方)が、沼田領内にある真田方の城、名胡桃城(群馬県月夜野町)を奪うという事件だった。

北条方による城の奪取は、豊臣政権の領土裁定を侵害するものである。北条氏政の上洛を待つのみという状況のなかで起きたこの出来事は、秀吉を激怒させた。秀吉は北条氏を討つ決意を固める。

一方の北条氏は強気の姿勢で、氏政自らが上洛し、謝罪をするということをしなかった。

12月10日に家康は上洛し、秀吉と小田原攻めの軍議を行う。家康は3万騎の軍勢を率い、先陣を務めることになった。天正18年(1590)2月10日に家康が出陣し、秀吉は3月1日に出馬する。

戦は避けられずと見た北条氏は、領国内の要衝・城に一族や重臣を配置し、秀吉軍の襲来に備えていた。北条方の諸城は、秀吉の大軍の前に次々と落城。4月には、小田原城が包囲される。小田原攻めの秀吉方の軍勢は約20万。このような大軍を前にしては、名城といえども持ちこたえるのは至難である。

7月5日、ついに北条氏直は開城し、降伏した。氏直は高野山に追放され、氏政と氏照は自害を命じられた。ここに、北条早雲以来5代にわたって続いてきた北条氏は滅亡したのである。

北条氏はなぜ戦の道を選んだのか。名胡桃城の奪取事件があったとしても、北条氏政が早々に上洛して謝罪すれば、戦は避けられたであろう。

それをしなかった理由の1つには、本城・小田原城の堅固さへの自信があったのではないか。あの越後の上杉謙信も小田原城を攻囲したが、攻め落とすことはできなかった。秀吉ごときが攻め落とせるはずはないというおごりがあったのではないだろうか。

また2つめには、秀吉の軍勢は遠く西国からやって来る、いずれは兵糧が枯渇し、兵を退くに違いないとの目算もあったのだろう。持久戦で粘れば、縁戚の家康も加勢してくれるかもしれない。奥州の伊達政宗も我が方に付いて来援、秀吉軍を襲うこともありえるだろう、そうした楽観論が北条氏にはあったのではないか。しかし、北条方の目算は外れた。

秀吉軍には、九鬼・毛利・長宗我部の水軍がいて、大量の兵糧を沼津に運び込む体制を作ったのである。逆に、北条軍は、相模湾を秀吉方の水軍に封鎖されたこともあり、城への補給の道は閉ざされることになる。

家康の厳しい軍法

家康も政宗も、北条氏に加勢することはなかった。家康は小田原への出陣に際し、軍法(15カ条)を定めている。

その一部を紹介すると「喧嘩口論の禁止」「下知なく、先手を差し置いて、物見を遣わしてはならない」「先手を差し置いて高名を挙げても軍法に背いた者は妻子以下も成敗する」「進軍にあたっては脇道してはいけない」「奉行人の指図に従うこと」「派遣した使者の言うことを守ること」「命令がないのに、男女を略奪してはいけない。命令がないのに、敵地の家を放火してはいけない」「勝手に陣払いしてはいけない」「進軍の時は、小旗・鉄砲・弓・槍の順番を決め、奉行を付けて進むこと」「商売・押買・狼藉をしてはならない」というものであり、これらの軍法を守ることができない者は容赦なく成敗すると記されている。

抜け駆けして武功を挙げても手柄にはならず、家族まで処罰するとは厳しい内容ではあるが、戦においては規律こそ重要ということだろう。

さて、小田原攻めの最中には、奥州の伊達政宗も秀吉に帰順してきた。これにより、秀吉の天下統一は目前に迫ったのであった。

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)