1997年にいすゞが発売した「ビークロス」。後に日産自動車へ移籍した中村史郎の手による、独特かつ近未来的なフォルム、ボディ下半分を無塗装樹脂とした2トーンカラーなどは現在も古さを感じない(写真:いすゞ自動車)

20〜30年以上経った今でも語り継がれるクルマが、続々と自動車メーカーから投入された1990年代。その頃の熱気をつくったクルマたちがそれぞれ生まれた歴史や今に何を残したかの意味を「東洋経済オンライン自動車最前線」の書き手たちが連ねていく。

いすゞ自動車といえば、日野自動車と並び立つ商用車界の雄である。

トラックなら小さいほうから「エルフ」「フォワード」「ギガ」。バスなら路線バスの「エルガ」、観光バスは「ガーラ」。たとえ日野と区別がつかなくとも、写真を見れば「あぁコレ!見たことある!」と思うはずだ。

街中で、バイパスで、高速道路で、日本人の移動と物資の流通を支えている。世界的に見ても、中小型トラックの分野では世界販売台数2位のビッグメーカーである。そんないすゞが乗用車メーカーでもあったことを知っている読者はどのくらいいるだろうか。

デザイン性の高い乗用車を数多く生み出した

いすゞの前身である東京石川島造船所(現・IHI)が自動車製造事業に進出したのは1916年のこと。英国ウーズレー社と提携して1922年に完成させた第1号車「ウーズレーA9型」は乗用車だった。ちなみにトヨタ自動車の源流となる豊田自動織機製作所が自動車部を設立したのは1933年である。

軍国主義の道を進む日本政府の意向で、ディーゼル車専門・商用車メーカーとなるが、戦後1953年には英国ルーツ社からの技術援助を受ける形で乗用車事業に再参入した。

いすゞはその美しさで忘れ難い名車をいくつも生み出してきた。流麗なスタイルと居住性を両立させた「117クーペ」はその筆頭だろう。パッケージとスタイリングはイタリアのデザインスタジオ、カロッツェリア・ギア。当時チーフデザイナーとして在籍していたジョルジョット・ジウジアーロが手がけた。


流麗なスタイルと居住性を両立させた「117クーペ」。1968年から4年間の“ハンドメイドモデル”は現在でも珍重されている(写真:いすゞ自動車)

さりげなくも複雑な局面で構成されるボディパネルは、金型プレス機で量産するのが難しかったらしく、1968年のデビューから4年間は多大な手作業を伴ったという。これらは“ハンドメイドモデル”と呼ばれ現在でも珍重されている。

1981年までの13年間における117クーペの総生産台数は8.5万台にすぎないが、旧車趣味の世界で人気は高く、残存率は極めて高いといわれる。後継車の初代「ピアッツァ」とともに、ジウジアーロのオリジナルデザインを損なわずに市販まで漕ぎつけた好ましくも珍しい例である。


初代「ピアッツァ」のデザインも秀逸だった(写真:いすゞ自動車)

トヨタ「カローラ」やニッサン「サニー」のライバルであった小型乗用車「ジェミニ」も忘れ難い。1974年デビューの初代はGMのグローバルカー構想に基づく世界戦略車で、オペル「カデット」やシボレー「シェベット」との姉妹車であった。

販売面においてカローラやサニーを上回ることはなかったと記憶しているが、欧州風情のスタイリングは評価が高かった。また、独自のツインカムエンジンを搭載したグレードはZZ(ダブルジィ)と呼ばれ、ラリーをはじめとするモータースポーツ愛好者の支持を集めた。


FRの初代「ジェミニ」。ZZはモータースポーツ愛好者の支持を集めた(写真:いすゞ自動車)

テレビCMで一世を風靡した2代目ジェミニ

1985年に2代目が登場。パリの街中をドリフト走行するテレビCMで一世を風靡したことを覚えていらっしゃる方も多いことだろう。2代目はいすゞの独自開発で、先代の後輪駆動から前輪駆動となった。直線基調でありながらほのかな丸みを感じさせる魅力的なエクステリアは、初代ピアッツァと同様にジウジアーロの手による。テレビCMと独特な商品性が記憶に残るモデルだ。


2代目「ジェミニ」のイルムシャー4ドアセダン(写真:いすゞ自動車)

117クーペの前年、1967年に発表した「フローリアン」の後継として1983年に送り出した「アスカ(正式車名フローリアンアスカ)」は、外来語由来のカタカナ車名に占拠されていた日本の市場に一石を投じた。アスカとはむろん飛鳥のことである。


飛鳥から車名と取った「フローリアンアスカ」。和名車名の先駆けだった(写真:いすゞ自動車)

また、アスカにはMTをベースとするAT「NAVi-5」の搭載モデルがあった。流体トルクコンバーターで駆動力を伝達する通常のATと異なり、NAVi-5はクラッチ板で伝える。ざっくりいえば、クラッチペダルを踏む/離すことと、シフトレバーを動かすことを人間に代わって床下のロボットが電気的にやっていた。


アスカに搭載されていた「NAVi-5」。機械式ATとして時代を先取りしていた(写真:いすゞ自動車)

現在では一般に機械式ATもしくは自動MTなどと呼ばれる類で、NAVi-5はその分野の量産型としては世界初であった。しかしこのシステムの完成度は低くトラブルが頻発、乗用車用としてはしばらく後続が絶えた。

いすゞはNAVi-5をトラックやバスなどで継続的に発展させたが、乗用車用として他メーカーに波及するのは20世紀も終わる頃、アルファ ロメオの「セレスピード」やフェラーリの「F1マチック」などを待たねばならない。

同様に和名車名もメジャーにはならなかった。近頃でこそトヨタ・ミライやニッサン・サクラが挙げられるが、いずれにしろいすゞの施策は時代に先行しすぎていたのかもしれない。

1990年代、RVで存在を主張した

前置きが長くなったが、当欄は『1990年代のクルマはこんなにも熱かった』である。乗用車メーカーとしては小粒ながらユニーク、特に先進的なデザインのクルマを世に送り出してきたいすゞだったが、1993年に商用ワンボックスとSUV(スポーツ多目的車)を除く乗用車の新規開発と自社生産をやめてしまった。

その後は2002年まで他社からOEM供給された車両にいすゞのバッジを貼り付け、トラックを買いに来た顧客の普段のアシとして細々と売っていた。ホンダ「ドマーニ」をいすゞ「ジェミニ」とし、スバル・レガシィをいすゞ「アスカ」とした。

1990年代、一般の自動車ユーザーから遠ざかっていく中で、いすゞがその存在を主張したのが「ビッグホーン」や「ミュー/ウィザード」などのSUV(当時はRVといった)だ。中でも1981年の初代ビッグホーンは1980年代に巻き起こったRVブームの草分け的存在で、副変速機を備える本格派4WDとしてマニアの間では一定の存在感を保っていた。

「イルムシャー」や「ハンドリング・バイ・ロータス」といったスポーツカーブランドとの協業による特別仕様車は、現代に続くSUVの源流と見ることもできる。しかし、三菱パジェロ(1982年)やトヨタ・ハイラックスサーフ(1983年)に押され、徐々に立ち位置を失っていった。


初代「ビッグホーン」。「イルムシャー」のショート&ロング(写真:いすゞ自動車)

そして、デザインのいすゞとして最後の光を放ったのが1997年に登場した「ビークロス」だ。後に日産自動車へ移籍した中村史郎の手による独特かつ近未来的なフォルム、ボディ下半分を無塗装樹脂とした2トーンカラーなどは現在も古さを感じない。

ただ、樹脂を多用したボディの生産に手間がかかったことや個性が強いデザイン、2ドアという使い勝手などから、4年間の日本での総販売台数は2000台にも満たなかった。現在興隆を極めるクロスオーバーSUVの先駆け的な存在だったが、時代に先んじすぎたのかもしれない。


樹脂を多用したビークロスのデザイン。個性が強すぎて販売は苦戦した(写真:いすゞ自動車)

結局、いすゞが上記RVのほかOEM乗用車の販売からも撤退したのは2002年のこと。現在、いすゞのホームページにはトラック/バスの他に商用ワンボックスとRVを見ることができるが、商用ワンボックスは日産からのOEMであり、RVはタイで生産しているピックアップ型の「D-MAX」と「MU-X」だが海外向けで日本では売っていない。


タイで生産するピックアップトラックの「D-MAX」。海外向けで日本では売っていない(写真:いすゞ自動車)

乗用車撤退は賢明な経営判断だったが…

デザイン、技術、ネーミング……時代を先取りする感性を持っていたいすゞ。もし今でも乗用車を手がけていたらどのようなクルマを生み出したのだろうか。商用車市場で確固たる地位を固めている現状を考えれば、長らく不振だった乗用車市場から撤退したことは賢明な経営判断だったといえる。

いすゞは伝統的にディーゼルエンジンに強みを持つ。しかしクリーンディーゼルが注目された2010年代にも、乗用車市場への再参入はなかった。EVや自動運転化などを契機に新参メーカーが続々参入する現在もまた再参入のチャンスかもしれないが、そうしたニュースはまったく聞こえてこない。

それもまた、経営判断としては正しいのだろう。筆者としては、ビッグホーンやビークロスを「熱かった1990年代」に記録しておきたい。


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(田中 誠司 : PRストラテジスト、ポーリクロム代表取締役、THE EV TIMES編集長)
(加納 亨介 : エディター・ライター)