逝去したフランスの経済学者・思想家、ダニエル・コーエン氏(写真:Alain DENANTES/Gamma-Rapho/Getty Images)

私たちは無限の欲望という「呪い」から逃れられるのか。経済成長なき産業革命の時代でも進歩はありうるのか。

現在の世界的な「脱成長」論ブームにもつながる問いを投げかけた『経済成長という呪い:欲望と進歩の人類史』の著者で、トマ・ピケティ、ジャック・アタリと並ぶ欧州最強の知性である、経済学者・思想家のダニエル・コーエンが、先日、70歳で逝去した。

本稿では、2017年に日本で翻訳刊行された本書の日本版序文を一部編集してお届けする。

経済成長が停滞しても現代社会は存続できるのか

私の著書が日本語に翻訳されるのは、大変名誉なことだ。


本書が掲げるおもな疑問は次のとおりである。経済成長が停滞しても、現代社会は存続するのだろうか。日本は1990年代の金融危機以来、力強い経済成長を取り戻そうと努力してきただけに、この問いは日本にとってきわめて重要だろう。

実際に、ヨーロッパ諸国やアメリカなど、先進国全体の経済成長率は低迷している。フランスの経済成長率は、3%、1.5%、0.5%と、10年ごとに低下している。アメリカの経済成長率がフランスより高いのは確かだ。

だが、トマ・ピケティの研究によって明らかになったように、アメリカでは、経済成長の果実の大部分は、所得上位10%の懐に収まり、国民の90%は購買力の上昇とは無縁だった。ちなみに、所得上位1%は、経済成長の果実の55%を手中にした。

このような格差を目の当たりにし、われわれはそのような経済成長のあり方に疑問を抱かざるをえない。経済学者たちの間では、現状の解釈について激しい議論が巻き起こった。見解は大きく分かれている。

現代の産業革命は人間の労働を内包できない

経済は低成長率の時代に入ったと主張する者たちがいる。彼らは、コンピュータ化がどれほど魅力的に思えても、その影響力を20世紀の科学技術革命と比較すると、かなり劣ると述べる。

これはアメリカの経済学者ロバート・ゴードンの見解でもある。ゴードンによると、20世紀にはいくつもの科学技術革命によって社会が大きく変化したという。たとえば、下水道の完備、さまざまな電化製品の登場、エレベーターの配備、観光業の発展などである。

一方、コンピュータ化によって、現代社会はどう変化したのか。ゴードンに言わせると、現在の革命はせいぜいスマートフォンの登場に過ぎないという。したがって、現在の革命によって社会が急速に変化しないのは、決して驚きではない。

しかし、ゴードンと正反対の見解を示す経済学者たちもいる。内生的成長論を唱える彼らは、新たなテクノロジーの熱狂的な信奉者だ。また、レイ・カーツワイルをはじめとする未来学者たちは、「増強された人間」を製造するために、デジタル通信技術と生物学が融合する、トランスヒューマニズムを宣言する。

私は、現代社会の独創性に関するゴードンの見立てはあまりにも悲観的だと思うが、ゴードンの疑問はきわめて重要な意味をもつと考える。すなわち、テクノロジーが急速に発展しているのにもかかわらず、なぜ経済成長率は低迷しているのか、という疑問だ。

私の見解は次のとおりだ。それまでの産業革命は人間の労働を内包できたのに対し、現在の革命はそうではないからだ。

現在の革命により、社会はこれまでにない二極化構造になる。社会の頂点に立つ指導者たちは、スマートフォンを用いてほぼ自分たちだけで組織を動かせるようになった。

一方、価値連鎖の末端に位置する対人サービス業などでは、雇用は創出されるが、生産性が低く、低賃金を強いられる。

中位所得層では、強烈な圧力が生じ、逆に雇用が大量に破壊された。これは人間とコンピュータが競合した結果だ。

この観点に立ち、アメリカの社会的な富がどこにあるのかを考えてみたい。というのは、アメリカはコンピュータ革命の影響を知るうえでの実験場といえるからだ。アメリカの中産階級は過去30年間で衰弱し、社会全体に占める彼らの割合は、10%から15%減少した。そしてアメリカの中位所得は、ほとんど上昇しなかった。

医療、教育、環境は最も重要な財

今後、われわれは悲観主義者として生きるべきなのか。私はそうは思わない。近い将来、人間とテクノロジーの新たな補完関係が登場するだろう。そうなれば、コンピュータに対し、人間は独創力を発揮できるはずだ。

しかしながら、現代社会の逃れられない根源的な問題は、富をこれまでとは別の方法で考察することにある。経済成長率という統計の数値に囚われることよりも、社会が生み出すべき基本的な財について考えをめぐらせることのほうが急務なのだ。すなわち、医療、教育、環境である。それらの財は、統計にはコストとしてしか表れないが、われわれが何としても守るべき最も重要な財なのである。

(訳:林 昌宏)

(ダニエル・コーエン : パリ高等師範学校経済学部長、『ル・モンド』論説委員)