関東大震災当時、猛火に包まれる東京・丸の内の状況(撮影日不明、写真・共同通信)

この2023年9月1日は、関東大震災から100年である。50年前の1973年に比べるとあまり話題になっていないのは、当時は50年周期説なるものを国民がまだ信じていたからであろうか。これは、大震災は50年周期で起こるという説である。 

1973年は、小松左京(1931〜2011年)の小説『日本沈没』(光文社)が話題をさらった。日本がまるごと海に沈むという、まるで太平洋の南中央部に存在していたものの、天変地異によって水没されたという「ムー大陸伝説」のような奇想天外の小説の大ヒットは、この関東大震災50年という節目を抜きにしては、ありえなかったかもしれない。

流言飛語の犠牲になったアナキスト

しかし、その後第4次中東戦争が起こって50周年への不安もあっという間に吹き飛び、日本は迫り来る石油高騰におびえ、やがて大阪からはじまるトイレットペーパーの買い占めへと話題が変化していく。

これは、「トイレットペーパーがなくなるわ」というある主婦の発言が、なくなる前に買わねばならないという、買い占めの衝動を生み出したことで起こった騒ぎであった。

いわゆる流言飛語であり、実際は石油ショックと直接関係のないトイレットペーパーがスーパーから消えたのである。1人の主婦の誤解が、トイレットペーパーの不足というデマと狂乱を招いたのである。

流言飛語という点でいえば、100年前の関東大震災も悲惨な結果を招いた。とりわけ震災の後流れたのが、朝鮮人が井戸に毒を入れ、窃盗を繰り返し、暴動を起しているという、デマである。そしてそれを組織しているのが、大杉栄(1885〜1923年)などのアナキストであり、彼らは国家転覆を謀ろうとしているというデマが流れる。

民衆は、このデマに乗じて、やられるまえに先にやるということで、朝鮮人を攻撃し始めたのである。こんな中、朝鮮人の虐殺(数千人が殺害された)、そしてアナキスト大杉栄の虐殺が起こる。

もちろん、流言飛語はなにも日本だけの現象ではない。一種の集団ヒステリーである。極度の被害妄想はやがてやられる前にやれという攻撃に変貌していく。パニック状態がデマを現実化し、それに対して過剰防衛ともいうべき攻撃に至らしめるのである。

ちょうど関東大震災から1年後の1924年に、物理学者で随筆家の寺田寅彦が「流言蜚語」という随筆を書いているが、その中で原因となる源がなければ、またそれを伝搬する媒体が存在しなければ、拡がらないと書いている。しっかりとデマであることを理解し、デマを広める市民がいなければこんなことは起きなかったというのである。

しかし、市民が科学的であれば起きないのかというと、ナチス政権時代のドイツを見てもわかるように、けっしてそうではない。その後も次々と起こるこうした現象を、たんなる市民の科学的知識の善し悪しで判断することはできないだろう。むしろ、付和雷同や体制順応という大きな政治的流れの中で狂気が始まっていくからである。

『世論』のリップマンの指摘

アメリカの社会学者ウォルター・リップマン(1889〜1974年)は、『世論』の中でこう述べている。「大衆が耳にする報道は、事実そのままの客観性を備えたものではなく、すでにある一定の行動型に合わせてステレオタイプ化したものである」(『世論』掛川トミ子訳、岩波文庫、下巻76〜77ページ)

すでにある一般に流布した考え方にすべてをねじ込むことで、まさにそうであるに違いないと思われるものをつくりあげ、そうであるに決まっていると判断していくのである。それは、まさに戦争下における報道管制に似たもので、反対するものには徹底した弾圧と村八分が待っていることで、ここから抜け出ることは簡単ではないのだ。

1923年といえば、第1次世界大戦が終わり、日本が期待していたとおりに戦後が進まなかったことで、国民全体が不満を持っていた時代であった。戦争の勝利による利益が思ったほど得られなかったという事実は、国民の失望を高めた。

第1次世界大戦後の不景気の中で、1910年日本に併合した朝鮮では1919年3月1日に独立運動が起こり、その2カ月後の5月4日には、中国で日本に対する抵抗運動が起きていた。

一方で、その日本はパリ講和会議では、人種差別撤廃を掲げていた。アジアの植民地の人種差別を肯定しながら、白人による黄色人種差別を撤廃せよという相矛盾するこの政策は、結局日本人のアジア蔑視をより強化することになってしまう。

こうした相矛盾する言動の本当の理由は、アメリカのカリフォルニアで、アジア人移民に対する白人の排斥運動が起きていて、アジア人でもある日本人移民を守るために、これを人種差別という観点から批判したかったからであった。

しかも、日本の楽観的予測としては、日本人以外のアジア人は移民排斥となるが、日本人をアメリカが排斥することは、よもやないだろうと考えていた。

しかし、結局白人にとって日本人はたんなるアジア人にすぎないという世論に押され、大震災の翌年成立する排日移民法では、日本人もアジア人として人種差別の対象となっていたのである。これは多くの日本人のプライドを傷つけた。

アジアの中で唯一白人の植民地とならなかったばかりか、西欧社会の一角を占めるようになったという自負は、この移民排斥法によってあっという間に崩壊してしまったのである。大震災当時フランスの大使であった高名な詩人でもあるポール・クローデル(1868〜1955年)は、日本人の失望についてこう述べている。

「アジアの民族とくに中国人との連帯の感情が強まるでしょう。日本人は、今後は否応なく、そうしたアジアの陣営に組み込まれるでしょう。これまで日本人は、自分たちの立場は隣のアジア大陸のとは違うものであり、自分たちは黄色い肌のヨーロッパ人であると思わせるよう奮闘してきました」(『孤独な帝国 日本の1920年代』奈良道子訳、草思社文庫、2018年、325ページ)

白人への怒りを中国や朝鮮に向けた日本

このクローデルの判断は間違っていないが、ただ中国と関係については間違っている。なるほど日本人は、白人と同格だと思っていたことがかなわなかったことで激怒したが、その怒りはアメリカに向かったのではなく、むしろ同じ排斥の待遇を受ける中国や朝鮮に向けられたのである。

これはまったくの方向違いであった。だから日本は、大陸に目を向け始まるとしても、むしろ軽蔑と差別のまなざしで向け始めるだけであり、アジア人を同格として取り扱うことはなかったのである。

戦後の不満は、戦後を都合良く操っていた西欧国家の横暴に向けられるのではなく、日本に抵抗するアジア人に向けられたともいえる。八つ当たりという言葉があるが、まさにそれである。

これはまるでこの頃文壇で活躍していた芥川龍之介(1892〜1927年)の「蜘蛛の糸」(1918年)の主人公カンダタの話に似てなくもない。芥川のことだ、そうした時代背景の不気味さをこの短編で示したかったのかもしれない。

大杉栄は関東大震災の年の初め、まだフランスにいた。中国経由で偽パスポートを使ってドイツのアナキストの大会に参加するつもりで、密航していたのだ。

大杉栄は異色の日本人である。陸軍幼年学校を中退し、東京外国語学科校(現在の東京外国語大学)へ進学し、やがて幸徳秋水(1871〜1911年)や堺利彦(1871〜1933年)などの社会主義に影響され、国家に縛られない自由なアナキストの闘志となる。

大正時代初期の日本は、ロシア革命以前で、まだマルクス主義の影響力はそれほどあったわけではなかった。彼の『日本脱出記』(1923年)は、今でも日本の若者にぜひ読んで欲しい書物だ。

思ったら吉日、どこにでもあまり考えないで出かけてゆく大杉、そして周りの日本人の動きにいっさいとらわれない非常識な大杉は、まさに西欧人の前で媚びへつらわない、堂々たる日本人であった。それは大杉には、当時の促成西洋型知識人のように西洋の知識に左右されない、確たる自己流の考えがそなわっていたからである。

その大杉は、1923年メーデーの際、パリの北の町、サン=ドニでフランス人労働者の前で突然立ち上がって演説し、そこでフランスの警察に逮捕され、強制送還となる。


大杉栄(写真・共同通信)

最初は中国人と思われ、やがて日本人であることがわかるのだが、パリの労働者たちは彼の逮捕に怒り、大杉を救おうと警察署に押しかける。それが新聞に掲載される。

この逮捕がなかったならば、大震災の後、陸軍の憲兵甘粕正彦大尉(1891〜1945年)に逆殺されることなどなかったであろう(甘粕事件)。しかし、大杉はやがて本国送還となり、9月1日大震災に遭遇する。

思想に自由あれ、行為にも自由あれ

確かに震災で死ぬことはなかったのだが、アナキストの活動をよく思わない国粋主義者はあちこちにいた。不幸にも、流言飛語が飛び交い、背後に黒幕がいるのではないかという民衆の恐怖の中で、大杉はその犠牲となる。

しかし、民衆の手によって殺害されたのではなく、官憲の手によって殺害されたのである。その意味は大きい。その際、一緒にいた伊東野枝と当時6歳だった甥の橘宗一も惨殺され、無残にも井戸に放り込まれたのである。

不思議なのは、大杉を含め3人も殺しておいて、首謀者の甘粕が10年の刑期で出獄したことだ。それはその後続いていく右翼によるテロ活動が、不思議なことに重刑とならずに、あたかも愛国無罪のように軽い刑で済んでいったこともある。

大杉栄の死以降、治安維持法が成立し、次第に国家に異論を吐く人々はつねにこうした愛国無罪のテロの恐怖におびえることになるのだ。流言飛語を否定する市民すらいなくなってくるのである。

流言飛語を打ち消すというのは、大杉のように日本脱出でも考えないと不可能な時代になる。

大杉は自由を求めた常識はずれの人物であった。彼が1918年に書いた「僕は精神の自由が好きだ」という短編の最後にこんな章句がある。

「僕の一番好きなのは精神の盲目的行為だ。精神そのままの爆発だ。しかしこの精神さえもたないものがいる。思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そして更にはまた動機にも自由あれ」

関東大震災100年、大杉栄虐殺100年に、この言葉をじっくりとかみしめたいものだ。 
 

(的場 昭弘 : 哲学者、経済学者)