麻布競馬場・初長篇連載スタート! 「令和元年の人生ゲーム」#001

写真拡大

「タワマン文学」の旗手・麻布競馬場
初めての長篇連載スタート!

第一志望だった慶應に合格し、晴れて上京。
新生活への希望に胸を膨らませる僕を迎えたのは、
「元」高校生社長と、暗い目をした不気味な男だった――

第一話

 2016年の春。第一志望の慶けい應おうに合格して、僕は地元の徳島を離れて上京した。キャンパスは横浜市の日ひ吉よしだったし、新居は川崎市の新しん丸まる子こだったから「京」と言っていいのか分からないけど、とにかく僕は東とう横よこ線せんに乗って、テレビで見た通りに自由が丘に行って、どうせ買ったきりロクに使いもしないマグカップやランチョンマットを選んだりした。

 大学に入りたての頃はみんな意識が高いもので、月曜の一限から小難しい名前の一般教養を取ったり、語学の授業でもわざわざ上級クラスを選択したりする。
 僕もその一人だった。大学は遊ぶための場所じゃなくて、勉強をしたり、人脈を作ったり、学生のうちにしかできない経験をしたりするための神聖な場所だと思っていた。せっかくここまで18年間の人生を真面目に頑張ってきたのに、ここでサボって今後の人生を台無しにするのはあまりにもったいないと思った。僕はこれまでの自分の人生を十分に愛していた。それで、日々新歓のチラシを押し付けてくるサークルの中でも、テニスサークルとかフットサルサークルとか、その手のお酒を飲むことと精子を出すことしか頭になさそうな集団には脇目も振らず、三み田た祭さい実行委員会とか、せっかく商学部に入ったのだから経済新人会とか、そういう意識の高い集まりの新歓ブースばかりを回っていた。

 そんな中で出会ったのがイグナイトだった。「キミのココロに、点火する。」その日の15時から大教室で始まったサークル説明会で、キャッチコピーがスクリーンに大映しになった瞬間、ボクのココロも点火されてしまった。
 イグナイトは、全国から毎年100を超えるチームが参加する大学生向けビジネスコンテスト「IGNITE YOU」を企画・運営する学生団体だ。今年で創立10周年とそれなりに歴史があるらしい。メインの活動は1、2年生が主体となっていて、所属メンバーは70人程度だという。ちなみに発音はイ↓グ↑ナ→イ→ト→だった。
「イグナイトは自由なサークルです。他のサークルや体育会に入っている人でも、誰でもウェルカムです。でも、これだけは覚えておいてください。僕たちは、本マ気ジです。日本のビジネスシーンを、大学生の力で、本マ気ジで変えたいと思っています。だから、生半可な気持ちの人には向いてないと思います。悪いけど。それでも本マ気ジで入りたいって人は、ぜひうちにチャレンジしてみて欲しい。以上です」
 代表の吉よし原はらさんという人がスーツ姿でそんなふうに挨拶すると「吉原やばいって(笑)」「さすがに尖りすぎだろ(笑)」と、ステージ脇に控えるサークルのメンバーらしきスーツ姿の男たちが、わざわざ大きな声を上げていた。
 そんなふうに盛り上がる彼らを、二、三歩離れたところでひとり腕を組んで、ニヤニヤ笑って見ている男がいた。ふちなしメガネの奥のその目は、教室の真ん中くらいにいた僕からでも分かるくらいに、人を馬鹿にしたような、見下したような、そんな色をしていた。
 その日の夜に渋谷の宇う田だ川がわ町ちようの合コン専用みたいな大箱イタリアンを貸し切って開かれた、イグナイトの新歓飲み会でのことだった。会も終わりかけのころ、僕はトイレ待ちの行列に並んでいた。この手の飲み会で、真っ白な顔で俯うつむきがちに個室に入ってゆく人というのはトイレの滞在時間が長い。ドア越しに響く「オエーッ!」という野獣のような咆哮に混じって「ビタビタビタビタ」という固体と液体の中間に位置するものが硬い陶とう製せいの便器に叩きつけられる音がして、そのあと小さく「ウッ……」と断末魔のような声が聞こえたかと思うと、もうその扉の奥からは一切の音がしなくなる。僕が並ぶ個室はもう5分間は噓みたいに静かで、慣れないビールに酔った頭がじんじんと痺しびれる心地よさに任せて、安っぽいピンチョスなんかが出る立食パーティーが発する喧騒をぼんやりと聞いていた。
「多分このあと10分くらいは出てこないよ、あいつ」
 突然、後ろから声をかけられて、びっくりして振り返る。あの腕組みニヤニヤ男だった。左胸には「沼ぬま田た 経済学部2年」と書かれたガムテープが貼られていた。妙に薄い眉毛の下の、フチなしの分厚いメガネのレンズは皮脂のせいか白く濁って、変な光り方をしていた。この人とはあまり深く関わらないほうがいいな、と直感的に思った。
「うち入るの?」
「そのつもりです」
「あの、吉原大先生の大演説に、まさか感動したんですかぁ?」
 その沼田さんという先輩は、醜みにくく歪ませた分厚い唇くちびるの隙間から、うすら笑い混じりの言葉を唾の飛沫と一緒に嬉しそうに吐き出した。「大先生」「大演説」も、語尾の取って付けたような敬語も、すべて敬意のまったく正反対にある感情から発せられたものだと理解するだけの感受性を、駿台センター模試の国語で200点満点を取ったこともある僕は十分に持ち合わせていた。
「……しましたよ。ああいう真面目でアツい人、僕は好きなんで」
 たしかに、吉原さんのあのスピーチは正直だいぶイタかったし、あれに感動したから入会を決めたわけではなかった。でもこういうサークルの代表をやって、大教室を埋める新入生に堂々とスピーチをしていること--つまり目の前のことに真面目に打ち込み、そのことを周囲の目を気にすることなく誇り、自分の未来を信じているということが、僕は素直にすごいと思った。
 そういう、ある種のみっともなさを伴うアツさを「意識高い(笑)」と後ろ指差して笑う冷たい空気が、僕は高校時代から大嫌いだった。それは卑怯者たちのすることだと思っていた。心の中では何者かになりたいと切望しているくせに、そんな青臭い衝動を持っていると表明することは恥ずかしくて、自分がそうなる代わりに他人を叩いて回る人々。彼らはそうやって何もしない自分を肯定して、何なら「賢いね」とか「分かってるね」とか褒めてもらえるのを待ち続けている。これまでは対面せずにすんできたそんな仮想敵が、沼田さんという形を持って、この渋谷の居酒屋のトイレの前に顕現したように思えた。
「真面目ねぇ」
 沼田さんは、僕の発言を拾い上げて投げ返してきた。
「あんな不真面目なやつ、いないと思うけどねぇ」
 そう沼田さんは続けて、僕は耳を疑った。ちょうどトイレから死にそうな女の子が出てきたし、もうこれ以上彼と話したくなかったから、僕は沼田さんに軽く会釈してそのままトイレに入ってしまった。

 沼田さんへの不快感はありつつも、でもそれは僕のイグナイトへの情熱からすればほんの些細なことだった。あの飲み会の翌週、僕は日吉キャンパスで毎月第2木曜日の夕方に開催されているという定例会に顔を出していた。会場はサークル説明会と同じような階段状の大教室で、その日は1、2年生が40人くらい参加していた。

 2時間ほどの定例会を仕切るのは、例によって代表の吉原さんだった。前回はバシッと決まったスーツ姿だったが、今日は黒いパーカーにこれまた黒いエアマックスと、ずいぶんカジュアルで、それでいてシュッとオシャレな私服が意外だった。手首には高そうなシルバーのアクセサリーを巻いていた。すぐにスマホでこっそり調べたらエルメスのもので、15万もするらしかった。なるべく多くの時間をイグナイトのために使いたいからバイトはしてない、とこの間の新歓飲みで言っていたし、吉原さんはいいとこのお坊ちゃんなんじゃないかと思った。
 吉原さんはいかにも頭ず脳のう明めい晰せきという感じで、落ち着きのある低い声で淡々と議事を進行した。誰かが話しているときはもちろんのこと、自分が話しているときもPCの画面を凝ぎよう視しし続けたりはせず、二重のぱっちりした目で出席者一人ひとりの目をじっと見つめるのが印象的だった。新入生の女の子たちからも「吉原さんイケメン!」とさっそく人気を集めていた。スラリとした高身長、大学生には珍しくきちんと前髪を上げておでこを出した清潔感ある髪型、細くて長い首に太い喉のど仏ぼとけ。そして誰にでも分け隔てなく接する誠実で優しい性格。吉原さんは、これまで僕が見てきた中で最も「完璧」に近い人間かもしれなかった。

 スポンサー営業やゲスト審査員の選定なんかの進捗共有がひと通り終わると、最後の30分ほどでビジネスやテクノロジーに関する勉強会をやるのが恒例らしかった。発表者は持ち回り制で、その日は平ひら井いさんという文学部の2年生が発表する日だった。「えー、僕の今日のテーマはですね、えー、ソーシャルグッド系ベンチャーの事例について、発表します」
 その名前の通り弥生人系の平たい顔をした平井さんは、ベタベタと派手なステッカーが貼られてリンゴマークが見えなくなったMacBookをプロジェクターに繫つないでプレゼンテーションを始めた。ソーシャルグッド系ベンチャー、つまり営利追求だけではなく社会にポジティブなインパクトを与えることを重視した企業運営は僕も興味があるテーマだったし、何より最近の起業界隈においてトレンドになっていたから、僕は平井さんの15分ほどの発表を真剣に聞いていた。
 発表が終わると、フリーディスカッションの時間に入った。今日のテーマは僕だけでなくみんな興味があったらしく、収益構造的にはこういう課題があるとか、大企業側ではこういう動きがあるとか、あちらこちらで知の創造的摩擦が生まれて、飛び散った火の粉がキミのココロに点火するようだった。この間の飲み会では泥酔してTシャツを脱いで上半身裸で発泡酒のピッチャーを一気飲みしていた平井さんも、みんなからのフィードバックを真剣に聞き、真剣にメモしていた。僕はやっぱりこのサークルの雰囲気と、ここにいる人たちが好きだと思った。彼らは自分の人生に対して真面目で、それでいてその真面目さを自虐して笑う余裕もあった。吉原さんはサークル説明会ではあんな尖ったことを言っていたけど、実際にはここには誰にでも居場所があって、お互いにリスペクトの気持ちを持っていた。
「みんなとっくに理解した上で黙ってると思うんですけどぉ、ソーシャルグッド系とかって、偽善じゃないですかぁ?」
 だから、教室の後方に座って、また腕を組んでニヤニヤしながらそんなことを言う沼田さんみたいな人にも居場所があってしまうのが、このサークルの欠点でもあると思った。今日の沼田さんは、目の覚めるような鮮やかなグリーン地に、胸元に「Chill Out...」という文字が白でプリントされたピチピチのTシャツを着ていた。
「やべ、沼田劇場始まっちゃったか~」
 平井さんがさも困惑したように両手を頭の後ろに組んでそう言うと、みんな笑った。沼田劇場という言葉はその時初めて聞いたけど、それがどういう「劇場」なのかはすぐに分かった。
「資本主義社会において最優先されるべきなのってぇ、あくまでも利潤追求じゃないですか」
 つまり沼田さんは、ソーシャルグッド系ベンチャーとか言うのは偽善的な利潤追求に過ぎなくて、そのマーケティング力こそは評価に値するけれど、実際には何ら新しいものではなく、何なら社会の本当に困っている人たちをダシにしてお金を稼ぐ、そういう罪深い存在だと考えているらしかった。その主張には確かに納得できる箇所もあったけれど、でも何か、この人の言うことをそのまま受け入れたくないという生理的な抵抗感があった。
「では沼田先生、例えばフードロス問題はどう解決すればよろしいでしょうか?」
 平井さんはそこで「先生」という敬称を使った。なるほど、あの日のトイレの前で沼田さんが「大先生」という皮肉を使ったのは、彼自身が日頃からこうやって皮肉を言われているせいなのだと理解した。
 沼田先生はその牽けん制せいに怯ひるまなかった。怯まないどころか、より一層ニヤニヤしながら、両手の掌てのひらを顔の横に掲げて、堂々と続けた。
「そんなこと僕に聞かないでくださいよ。ここはビジコン運営サークルであって、起業研究会じゃないんですから。今日は初めて定例会に参加する新入生も多いと思うので改めて言いますけど、これまで何度も言ってる通り、たかがビジコン運営サークルにこんな勉強会、必要ですかねぇ? こんな無駄なことに時間使うくらいなら、吉原大先生みたいにご自分で起業されたほうがよっぽど有意義だと思いますけど」
 そう言うと沼田さんは、次はお前が反論する番だとでも言わんばかりに、教室の前方で、僕たち参加者がいるほうに向いて座っている吉原さんのほうを見た。
「そうですね、確かに僕自身も、自分のビジネスを立ち上げ、グロースさせてゆく試みの中で、多くのことを学ばせてもらいました。ただ、今思うのは、自分で起業するにしろ、もっと視野を広げて、知識を深めて、そうしてマーケットの選定からもっともっと考えていれば、また違った結果になったのかなと。そういう点でも、僕はこの勉強会に意味があると思うし、逆に意味があるものになるよう、いや、この言い方だと平井の発表が意味ないみたいに聞こえちゃうかな」
 一同爆笑。平井さんは不服そうな顔で、時間稼かせぎをするサッカーの選手みたいに両手を大きく広げて抗議の意を表明して、それでもうひと笑い取っていた。
「でも、沼田の言うとおりでもあって、イグナイトの活動の多くは自由参加です。最初のうちはとにかく何でもやってみる、でもいいけど、全体感が見えてきたら、自分にとって必要だと思う活動を選んで、それに集中して打ち込むというのもアリだと思ってます。イグナイトは手段です。イグナイトを使って、みんながなりたい自分を実現してくれたら、代表としては嬉しい限りです」
 おぉ~、と出席者が沸わいた。完全勝利。一切のスキのない、まったくの正論だった。吉原さんは照れ隠しでもするように不器用にはにかみながら、右手を上げてそれに応えた。その美しい決着に満足したくて、僕はもう沼田さんのほうを振り返ることすらしなかった。

 その日は勉強会が終わったあと、アフターと称して予定のない人たちで飲みに行くことになった。吉原さんや平井さんが先導していたけれど、そこには沼田さんの姿はなかった。新歓特有の僕ら1年生へのお客さん扱いも終わりつつあったのか、イグナイト御ご用よう達たしだという日吉駅前の安い焼き鳥屋さんに連れて行ってくれた。このあたりには、平日なら予約がなくても30人程度ならすぐに入れて、本当にビールなのかも怪しい、ピッチャーに注がれた謎の激安液体を大量に出してくれる居酒屋が無数にあった。
 掘りごたつの座敷席に通された。6人掛けのテーブルに奥から順に適当に詰めていったら、平井さんと同じテーブルになった。ぬるい発泡酒のピッチャーが各テーブルに配られて、吉原さんの発声で盛大に乾杯した。ピッチャーは次々と空いて、次々と新しいのが来た。最初のうちは探り探りに硬い話をしていたみんなも徐々に酔ってくると、サークル内恋愛事情とか、楽に単位をとれる授業の情報とか、しょうもない話と馬鹿笑いが飛び交うようになった。
「沼田さんって、あんまり飲み会とか来ないんですか?」
 本当に聞きたいことに辿り着くためのジャブとして、まずは平井さんに尋ねてみた。飲み始めてまだ30分も経っていないというのに、平井さんの顔は早くも真っ赤になっていた。
「沼田? いや、普通に来るよ。今日バイトじゃなかったっけ。中目黒の、何だっけ、グルテンフリーのハワイアンカフェ?」
 僕に聞かれても困る。平井さんの顔が赤くなる頃には、もうアルコールが脳みそまで回ってダメになっているのだと理解した。
「あー、勘違いしてるかもしれないけど、沼田は、ツンデレだからあーいうこと言うけどさ、真面目なやつなのよ。イグナイトガチ勢だから。愛ゆえなのよ、愛! 聞いてない? 最初はあいつが代表なりかけてたんだから」
 そんな話は当然聞いたことがなかったし、これまで見てきた限りではそんな沼田さんをまったく想像できなかった。

 平井さんが言うにはこうだ。
 沼田さんは今でこそああいう性格だが、イグナイトに入ったばかりの去年の春なんかは、皮肉っぽい面は多少ありつつも、何と言うか、もっと素直に熱くなれるタイプの人だったそうだ。初回の勉強会のテーマを事前に確認して、ディスカッションの予習をして先輩たちを感心させたり、みんなが面倒臭がる会計やホームページ管理を進んでやったり。15人ほどの同期の中でも沼田さんは頭ひとつ抜けた存在で、きっと彼が来年のイグナイトの代表になるだろうと、誰もがそう思っていた。おそらくは沼田さん自身もそう信じていたのだろう。
 そんな状況がすっかり変わってしまったのは、その年の「IGNITE YOU」が終わった、秋の終わり頃だったという。何が起きたかというと、吉原さんがイグナイトに入ってきたのだ。
「吉原の名前、聞いたことない? 現役高校生起業家みたいなので、昔は結構有名だったんだよ」
 吉原さんは、僕の予想した通り由緒正しいお家の出なのだそうだ。おじいちゃんが戦後すぐに肥料の会社を興して成功して、お父さんは経産省官僚を経て会社を継いで、三代目と目される吉原さんは高校1年生のときに起業した。高校生のうちから親が買ってくれたKENZOを愛用するなど、若くしてファッションに強い関心を持っていた彼が、そのセンスを生かして古着をECで東アジア向けに販売するという、いわゆる越境ECのビジネスだったらしい。
「小学校から立教内部進学の、育ちもツラもいいKENZO着てるオシャレなお坊っちゃまがさ、腕組んで日経とかに載るわけよ。どうなると思う?」
 ネットでボコボコに叩かれたらしい。そりゃそうだ。5ちゃんには連日アンチスレが立ち並び、そこに同級生を名乗る人が真偽も定かではない暴露なんかを書き連ねた。炎上のせいか、あるいは元々筋のよくない事業だったのか、とにかく現役高校生起業家・吉原の挑戦は一年半ほどで、彼がまだ「現役」高校生のうちに終わってしまったらしい。最初のうちこそ黒字で回っていたようだが、事業を畳むころは月商が10万にも届かなかった。大赤字。完全な失敗だった。
 そうして吉原さんは失意の中、環境を変えて心機一転とでもいうつもりか、エスカレーター式に立教大学には進学せず、AO入試で慶應に入った。
 転落した「元」高校生起業家は、それでもなおビジネスの道を諦めてはいなかった。起業研究サークルに入り、渋谷のメガベンチャーでインターンを始めた。そういう、吉原さんの再起を賭けた無数の取り組みの一つに「IGNITE YOU」への参加もあった。大抵は3、4人でチームを組むコンテストに、吉原さんは1人でエントリーした。
「そこでさ、去年のゲスト審査員で、伝説の起業家みたいなおじさんが来てたんだけどさ、もう一周回って痛快なぐらいに吉原のプランがディスられてさ」
 --君のかつての起業のことも聞いてる。今回の事業計画も見せてもらった。残念だけど現状では君の事業が成功する見込みはない。本気で成功したいなら、まずはよく勉強することと、仲間を見つけること。今日みたいに一人で来るというのは、一人でもやり遂げられるという傲おごりがあるんだ。まずはチームで何かすることを学ぶといい。例えば、このビジコンの運営に入るでも、何でもいい。
 例えば、というその話を、生真面目な吉原さんは生真面目に信じたらしかった。翌日、吉原さんはイグナイトに入会を申し込んできた。10月も半ばになっての新規入会なんて聞いたことがなかったけど、吉原さんは、「遅れてきた超大型新人」としてイグナイトの一員になった。
「それまではさ、日頃の頑張りもあったから、沼田が代表になるんじゃないかって言われてたんだよ」
 だが、沼田さんがその「慶應の意識高い系サークルの代表」という栄冠を手にすることはなかった。そりゃそうだ。あんな「完璧」が人の皮をかぶって歩いているような吉原さんがサークルに入ってきたら、全部持っていかれるのがオチだ。沼田さんが悪いんじゃなくて相手が悪かっただけだ。
 とはいえ、実のところ吉原さんはお世辞にも頭が切れるというタイプではなかった。ただ情熱があった。周りから笑われるくらいに、恥ずかしいぐらいに吉原さんは真面目だった。
 僕が大学に入る直前の3月にイグナイトの代表選挙があって、みんなの予想通り沼田さんと吉原さんが立候補して、見てられないくらいの票差で吉原さんが圧勝した。沼田さんには10票も入らなかった。
「そこからかな、沼田があんな感じになっちゃったの。でも偉いよ、沼田は。イグナイトのために一年尽くしてきてさ、それなのにサークル全員集まってる前であんな恥かかされて、それでも辞めずに、派手な立ち回りは全部吉原に譲って、それで会計とかホームページの管理とかを陰でコソコソやってさ。あいつなりにイグナイト愛を持ってんのよ。いいやつでしょ?」
 なんだか恥ずかしいことを告白したかのように、平井さんはただでさえ細い目を照れ笑いでギュッと線にして、グラスに半分ほど残った発泡酒を全部飲み干した。人がいいメンバーばかりのこのサークルの中でも、平井さんはとびきり人がよさそうだった。その後、平井さんは他のテーブルで開催されていた一気飲み大会に引っ張られていった。僕の前の空席には、壊れたおもちゃみたいに「お前はどうしたいの?」を繰り返すリクルートかぶれのダルい先輩が来て、彼を適当にあしらっているうちに飲み会は終わった。

 二次会もあるらしいが、今日はここで切り上げて家に帰ることにした。目黒線の各停に乗って、3駅先の新丸子駅で降りる。改札の向かいにある24時間営業の東急ストアで安い缶チューハイを買う。平日21時過ぎ。東口の商店街に人はまばらだった。同じ街に住んでいるのに二度と会うことのないかもしれない人たち。オートロックが故障しっぱなしの古いマンションの、タイムマシンみたいに煌々こうこうと冷たい光を放つエレベーター。縁起が最悪の409号室。狭い1Kの南向きの窓からは、背の低い雑居ビル越しに、ここ数年で急速に増えたらしい武蔵むさし小こ杉すぎのタワマンがいくつも見えた。
 なんとなく、そのまま電気をつけずにチューハイを持ってベランダに出る。4月の夜は少し肌寒いが風が気持ちいい。カシュ、と気の抜けた音とともに、頼りない炭酸と人工的なレモンの匂いが立ちのぼる。じゅ、と一口吸い込んで、真っ赤な航空障害灯の群れが、眠たそうにのんびりと瞬まばたきを繰り返すのをぼんやり眺めていた。味気ないけど、人を酔わせるという目的のためだけに研ぎ澄まされたアルコールがまっすぐ脳に届くのを感じた。
「お前はどうしたいの?」
 例のダルい先輩の顔が浮かぶ。僕はどうしたいんだろう? どうなりたいんだろう?
「イグナイトを使って、みんながなりたい自分を実現してくれたら」
 吉原さんの整った顔と、15万のシルバーのブレスレットも浮かぶ。彼はイグナイトを踏み台にして成長して、いつの日か、伝説の起業家とやらにリベンジマッチをやるつもりなんだろうか?
 そして何より、沼田さんは? そもそも彼は何がやりたくてイグナイトにいるんだろう。イグナイトでどうなりたいんだろう。実は起業したい? 実は吉原さんやメンバーのことを愛している? でもそんな人があんな、人を見下したような態度を取るだろうか--。
「お前はどうしたいの?」
 僕はどうなりたいんだろう? 息子がちょっと勉強が得意だと気付いた親に言われるがままに小学5年生から塾に通って、中学では部活が強制だったから何となく軟式テニス部に入ったけどすぐ辞めてしまって、暇だったから勉強してたら地元で一番の県立高校に受かって、そこでも帰宅部で暇だったから勉強して……そこに僕の意志はあったのか?
「なりたい自分を実現してくれたら」
 成功したい? 吉原さんみたいに起業して、成功してお金持ちになって、あのタワマンに住みたい?
 本当にそうなれる自信はある? 吉原さんすらうまくやれなかったのに?
 周囲には記念受験と言いつつかなりの本気度で受けた慶應経済にも受からなかったのに?
 無意識のうちに、指の腹が真っ白くなるくらい強く握りしめてしまっていた缶チューハイ。奪われた体温を取り戻すように中身をゴクリと飲み込む。斜めにずれて二重になってゆく世界。もう寝たい。チューハイの残りをベランダの隅の排水溝にビチャビチャと流して、缶を床に置いてそのまま真っ暗な部屋のベッドに転がって、目を瞑つぶるとすぐに意識は音もなく溶けて消えた。

 5月に入るとイグナイトの活動が本格化してきて、僕はそういう抽象的な問いから逃げることができた。忙しいというのはいい。手を動かすというのはいい。忙しく手を動かしている限りは、頭を動かしていなくても許される気がした。少なくとも自分は怠惰ではない、無価値ではないと自分自身にアピールできる気がした。日本人の真面目な国民性というのも、つまりはそういうことなのかもしれない。
「ごめん、お待たせ」
 12時過ぎの混雑した学食。4人掛けのテーブルでぼんやりとスマホをいじっていたら、村むら松まつがリュックを背中から降ろしながら近付いてきた。村松はイグナイトの同期で、学部も一緒だったからこうやってよく一緒にお昼ごはんを食べていた。僕は野菜ラーメン、村松はスタミナ丼にした。
「候補者のリストアップ、済んだ?」
「一応やった。10人とか全然埋まらなくて、普通に孫そんさんとか三み木き谷たにさんとか入れちゃったけど」
 イグナイトでは、1、2年生が縦割りのチームになって行動する。僕たち二人は、人数の一番多い「IGNITE YOU企画・運営チーム」に所属していた。というか、だいたいの人がこの通称「企画チーム」に入って、その上で余力や特別な興味関心がある人が営業とか広報とかを兼務するという仕組みだった。企画チームにおいては、10月のはじめのコンテストに向けてゲスト審査員を決めるべく、話題性や現実性なんかを考慮してアタックリストにまとめて、その上から順に打診してゆくというのが一つの大きな仕事だった。僕たち1年生も、そのリストを作るためにまず候補者を1人につき10人考えて、明日までに吉原さんに送るようにと言われていた。
 村松は、いわば吉原さんのワナビーで、「いつか起業したい」「できれば学生のうちに起業したい」が口癖だった。かといって起業の準備をすることも、どこかのベンチャーでインターンをすることもなく、今日もこうやって大学の講義に真面目に出て、イグナイトのメンバーとお昼を食べて、そのまま一緒にタスク作業なんかをして、そのまま一緒にチーム定例会に出て、そのまま平井さんあたりに飲みに連れて行かれて、終電ギリギリまで飲んで、何なら日吉か元もと住すみ吉よしあたりに住んでいる誰かの家に雪崩れ込んで、朝まで飲んで……と、意識の高いサークルにこそ入っているが、実際には意識の低い他の大学生と同じような、意識の低い暮らしを送っていた。
 一ヶ月経ってみて分かってきたが、イグナイトには村松みたいな人がたくさんいた。「いつか」「できれば」と、壮大な、しかし意識の高い学生にはありきたりな夢を語り、しかしその「いつか」を近くにたぐり寄せたり、「できれば」の実現性を高めるための努力はまったくしていなくて、そして彼らはそのことについて特に罪悪感を持っていないようだった。
「しかし楽しみだなー、二次審査と最終選考はゲストがやるけど、一次審査は俺らがやるんでしょ? 1年にもやらせてくれんのかな」
 その原因は、ビジコン特有の「審査をする」という点にあるような気がしていた。自分が頑張って何かをするのではなく、(もちろん審査だって頑張ってする何かではあるけど、それよりもむしろ)頑張って何かをする誰かを評価する、評価してやることの愉ゆ悦えつや優越感が、意識の高い学生たちにとっての麻薬になっていて、それが彼らを自分の人生を自分で進めることから遠ざけてしまっている気がしていた。
 そして--もしかするとあの吉原さんすらも、そこに囚われてしまっているんじゃないか。ミニ吉原さんであるところの村松を最近見ていると、そんな嫌な想像をついしてしまう。そして、沼田さんが吉原さんに向ける、あの吉原さんのすべてを知った上で馬鹿にしたような笑いも、もしかすると沼田さんがそんなことを看破しているからなんじゃないかと思うようになっていた。だとすれば、そういう人を責めるような思考を僕が沼田さんと共有しているという事実--僕の中にもあの沼田さんが潜んでいるかもしれないという可能性が、なんだか気持ち悪くもあった。
 沼田さんとは一体何なのか? どういう訳か、最近こんなことばかり考えてしまう。

「では、今週の企画チーム定例始めます」
 その日もいつもと同じ大教室で、企画チームのリーダーを兼務している吉原さんがいつも通り仕切っていた。この間の平井さんの話によると、毎月学生部に通って教室を予約するのも沼田さんの献身的な仕事の一つらしかった。
「今日の一番大きい議題は、ゲスト審査員のアタックリストなんだけど、みんなの意見を踏まえて、こんな感じにしてみました」
 吉原さんは、候補者の名前がズラリと並んだエクセルをスクリーンに投影した。公平性と透明性を重んじる吉原さんらしく、名前の隣には得票数が記載されていた。セレクトは概おおむね得票数の通りだが、村松がやったように孫さんとか三木谷さんとか、みんなが苦し紛れに書いた大物は外されるなど、いろんな調整が入っているようだった。
 みんなリストを上から下まで眺めて、なるほど、みたいな顔をしてたまに頷いたりして、そうして1分近い沈黙が流れた。誰も異議なんて持ち合わせていないようだった。僕もそうだった。
「ちょっと、いいですかぁ?」
 劇場の主のことを忘れていた。今や彼の定位置となった教室の後ろのほうのその席に座って、いつものように腕を組んでいる沼田さんが、いつものように湿度と粘度の高い声を投げ込んできた。
「日くさ下か部べさんって、今年は審査員に入らないんですかぁ?」
 僕は村松と一緒に一番前の列に座っていたから、日下部さん、という名前を聞いた瞬間、吉原さんの顔が少しだけ、ほんの少しだけ強こわ張ばるのを、確かに見た。
「……日下部さんは、去年来てもらったし、冬に新しくファンドも立ち上げて、当面は忙しいって聞いてるから」
 それきり吉原さんも沼田さんも黙ってしまって、教室には不穏な空気が流れていた。日下部さんというのが何者なのか、僕を含めてこの教室にいる全員が理解していた。平井さんが「伝説の起業家みたいなおじさん」と話していた、吉原さんがイグナイトに入るきっかけとなった、去年の審査員のことだった。
「いや、吉原大先生が、ご自身の成長をいつ日下部さんにお見せになるつもりなのかな~って気になっただけで。すみません、それだけです。他意はないですぅ」
 いつもは半笑いで、またか、仕方ないなぁみたいな顔で沼田さんを生暖かく見守っていたイグナイトの面々も、今回ばかりはどういう顔でこの状況をやり過ごせばいいのか分からないようだった。少なくとも笑って見守れるノリのものではないことだけは分かっている、とでも言いたげな、バツの悪そうな顔でチラチラお互いの顔を見合ったりしていた。
 僕もみんなと同じような表情を顔に貼り付けてはいたけれど、内心は興きよう味み津々しんしんだった。不ふ謹きん慎しんだけど、沼田さんグッジョブ、とすら思った。結局、吉原さんにとってイグナイトとは何なのか? 彼は半年近くズルズルとここに居座って、代表にまでなっちゃって、あのとき日下部さんに言われた通りに頑張ることで、起業という夢のために正しく努力することから逃げてるんじゃないか?
「イグナイトを使って、みんながなりたい自分を実現してくれたら」とみんなに語り掛ける吉原さんはどうなりたいのか、僕はずっと気になっていた。そして、それはおそらく、親に言われるがままに、社会が何となく指し示すままに生きてきたこの曖昧な人生の末に、僕自身がどうなりたいのか分からないという自分の最近の不安の裏返しでもあった。
「……沼田の言うこと、もっともだと思います。僕がイグナイトに入った経緯も、みんな知ってる通りで、吉原は普段、人に本マ気ジ本マ気ジ言ってるけど、あいつこそイグナイトを起業の踏み台にして何かのついでのつもりでやってるんじゃないかとか、偉そうなこと言って入ってきたくせに、もう実は起業を諦めてて、起業に本マ気ジになれないからって、代わりにサークルを必死にやってるフリしてるんじゃないかとか、そう思われても仕方ないと思う」
 吉原さんがポツポツと、しかし覚悟を決めたように力強く前を向いて語る言葉の次を、みんな黙って待っていた。
「正直に言います。僕は起業という夢を、やっぱり諦められていません。でも、だから僕がイグナイトの活動を適当にやるとか、そういうことでは一切ありません。恥ずかしい話だけど、これまで自分が世界で一番頭がいい、自分だけで成功できると思っていた僕が、誰かと一緒に何かに本気で挑む、初めての機会なんです。僕は本気でこのイベントをやって、本気で成長したい。日下部さんを見返したい。この勢いで言っちゃいますけど、僕は今年のイベントが終わったら、絶対に、2度目の起業をします」
 おぉ~、と、まだまだ続きそうな演説を邪魔しない程度の歓声が小さく沸いた。
「だから、だからこそ、それまではイグナイトに本マ気ジになりたい。だから、みんなにも、安心してついて来てもらいたい。こう言うことしかできないけど、僕を信じてください。よろしくお願いします」
 最後に吉原さんが立ち上がって小さく頭を下げると、みんな拍手をした。大きくて長い拍手だった。吉原さんは、ずっと言いたかったことを遂に言うことができた解放感と、そしてそれがみんなに受け入れられた安心感のせいか、うっすらと目を潤ませているようだった。
 僕は沼田さんのほうを振り返った。沼田さんは、てっきり例によってつまらなさそうな顔で、ダルそうにしているのかと思っていたら、そうではなかった。唇をひどく嚙み締めて無理やり作った無表情、そんな不思議な形相で、人並みに拍手をしていた。

 そうするうちに大学は夏休みに入ったけど、僕は東京に残っていた。というのも、僕の所属する企画チームは、この夏休みの間に「一次審査」といって、100を超える参加チームがそれぞれに出して来た玉石混淆の事業プランの中から、ゲスト審査員に見てもらう20の「玉」を見つけ出す作業をやる必要があった。これがなかなか骨が折れる作業だった。各メンバーが1チームあたり10枚のピッチ資料を100チーム分全部読んで、ABCDの評価をつけて、それを集計して二次審査に進む20チームを決めるという仕組みだった。起業どころか一切の社会経験のない普通の大学生が分かったような顔で点数を付けるんだから、ずいぶん滑こつ稽けいな茶番ではある。

 週に2日ほど集中審査日というのがあって、その日は日吉キャンパスの教室を終日貸し切って、審査を一気に進めて、日が暮れると飲みに行くというものだった。ひとりで根詰めていると息が詰まるから、僕もこの集中審査日に3日ほど参加して、短期決戦で終わらせることにした。
 本当は朝9時くらいに行きたかったけど寝坊して、11時過ぎに会場の教室に行ったら、意外な人が会話の輪の中心にいた。沼田さんだった。
「さすがにこのクソサービスにA評価付ける人はもう一生ビジネス触んないほうがいいよ、センスなさすぎ」
 嫌味っぽい語り口はいつもの通りだったが、しかし沼田さんのコメントはどれも悔しいくらいに的確だった。サービス事例には詳しいし、数字まわりにも強かった。イグナイトに入って、沼田さんがこんなにイキイキとした顔をしているところを、僕は初めて見た。

「本人は否定してるけど、沼田は将来起業するつもりで相当勉強してるんじゃないかな」
 一緒に大戸屋にお昼を食べに行った平井さんは、そんなことを言った。僕の隣でかぼちゃコロッケを頰張る村松はそうは思わないらしかった。
「でも、あの人が社長やるなんて想像できないですけどね」
「何もCEOやるだけが起業じゃないよ。俺は、吉原が立ち上げメンバーとして沼田を誘うんじゃないかと見てる。あいつの頭の良さとか知識とか、絶対役に立つと思うし」
「えぇ~? 絶対ないですよ」
 平井さんの大胆すぎる予想を、村松は笑って否定した。でも僕は、なるほどそれはあるかもしれない、という妙な予感がした。

 一次審査が無事に終わって、お盆は実家に帰って、地元で一週間のんびり過ごしたらお土産をたくさん買って東京に戻った。一次審査が終わってしまえば、あとは今年の春のうちに押さえていた会場のレイアウトとか、スポンサー営業の最後の詰めとか、そういう細々した仕事はあったけど、少なくとも僕みたいな新入りはだいぶ暇になった。
「吉原さん、どんな事業やるのかなぁ」
 家系ラーメンの武蔵家で、隣に座る村松がそう呟きながら、「濃いめ固め多め」という若者の特権みたいなラーメンに酢をドボドボと入れていた。最近、村松と話すといつもこれだ。村松だけじゃなくて、吉原さん信者を中心とするイグナイトのメンバーの間で、間違いなくいま一番ホットな話題だった。
「俺は、吉原さんが沼田さんを誘うとはどうしても思えないんだよなぁ。あの二人が一緒に何かするイメージが全然湧かなくてさ」
 確かに、正反対とはまさにあの二人のことを言うのだと思った。失敗を恐れず挑戦し、失敗してもまた立ち上がる吉原さん。そうやって頑張る人を安全地帯から笑って、そうすることで自分が偉くなったつもりになっている沼田さん。
 村松は? と、僕はふと思った。「なんか、起業の準備とかってしてる?」
「え、俺? いや、今は吉原さんと一緒で、イグナイトに集中して、本マ気ジで成長したいって思ってるから、やるとしても終わってからかな~」
 村松はどっちだろう? どっちと言うのは、吉原さんなのか、沼田さんなのか。村松だけじゃなくて、イグナイトに数十人単位で存在する、「いつか起業したい」「できれば学生のうちに起業したい」系の吉原さんワナビーたちは? 自分たちは失敗を恐れて起業には踏み切れず、しかし自分たちの代わりに挑戦する人たちをビジコン運営という安全地帯から笑って、そうすることで偉くなったつもりになっている人たち。彼らはあたかも「自分は吉原さん寄り」みたいな顔で、内心沼田さんを下に見ている。
 そして僕自身は? 「僕もいいアイデアがあったら学生起業に挑戦してみたいな」とか、飲み会で適当に言ってなかったか?
 昔からそうだったのかもしれない。小学校2年生のとき、授業参観で発表するからと「しょうらいのゆめ」を考えてこいと言われても特に思いつかなくて、それで家に帰って、お母さんが焼いてくれたチョコチップクッキーをリビングで食べながら部屋をぐるりと見回すと、理系出身のお父さんの友達がJAXAだかNASAだかのお土産で買ってきてくれた、月面を歩くニール・アームストロング船長の絵葉書を発見して、それで2階の子供部屋に駆け上がって、プリントに「宇宙ひこう士」と書いた。当日、僕が「ぼくの、しょうらいのゆめは、宇宙ひこう士です」と堂々たる発表をしたとお母さんから聞いたお父さんはそれはもう大喜びで「ニュートン」を定期購読してくれたのに、息子は結局、英語と国語と日本史だけで私立文系に行ってしまった。哀れなものだ。読むのも億劫で、読んだフリだけして新聞と一緒に資源ゴミに出したニュートン。思い出したら笑えるくらいに申し訳ない。
 いつだって僕はソコソコ器用だから、いつも周りの顔色ばかり窺って、周りが望む通りのことを言ってやって、それで周りを喜ばせて、その隙に適当にサボったりして、でもみんなが納得する一応の成果は出して。そうやって生きてきた日々の連続の結果が今日のこの暮らしで、結局そうして今日も、就活で人事部に喜ばれそうな、ただ遊ぶだけじゃなく、でもただ勉強するだけじゃなく、意識の高い仲間たちと一緒に、チームワークを大事にしながら、意識の高いことを成し遂げようとしているんじゃないか。「イグナイトを使って、みんながなりたい自分を実現してくれたら」。僕には実のところ、本当になりたい自分なんてものはなくて、今日もまた、無意識のうちに誰かの価値観に迎合して、人生に関する本質的問いと向き合うことから逃げてるんじゃないか?

 僕は吉原さんが羨うらやましかった。彼の人生には、明確な人生の目標みたいなものがあるように見えた。自分がどうなりたいか、そのために何をすればいいかを彼は完全に認識できていて、実際に努力を着々と行っていた。
「吉原さん、起業したら、インターンでもいいので雇ってもらえませんか?」
 数日後、アフターで吉原さんの隣になったから、そんなお願いをしてみた。うじうじ悩んで座り込んでいるよりも、間違っていてもいいからとにかく歩き続けるのがいいんじゃないかという結論になった。
「事業領域も決まってないってのに、気が早いな」
 吉原さんは苦笑していた。でも、その時は絶対声かけるよ、と言ってくれた。僕はその日から、いつか来るであろう「その時」に備えて、事業計画書の作り方とか、あと使うか分からないけどプログラミングとかを勉強し始めた。暇な時間がなくなると、要らぬことを考えずに済むからよかった。

「IGNITE YOU」の本番は、それはもうあっという間にやってきて、あまりに呆気なく終わってしまった。幸いにも何もトラブルは起きなかったし、メンバーお揃いのピンクのTシャツを着て、インカムをつけて忙しく走り回っていたら、気付けば吉原さんが閉会挨拶をしていた。東大の1年生3人組による空き家活用サービスが優勝して、やっぱり東大すげ~と村松が言っていた。彼は、自分と同じ歳の大学生がアイデアを形にして、ゲスト審査員に来ていた有名ベンチャー投資家からその場で資金調達を決めて、ビジネスの実現に向けて動き出そうとするのを、やっぱり他人事みたいに見ているようだった。日吉キャンパスの会場からそのままお揃いのTシャツを着ていつもの大箱居酒屋に行って、みんなのTシャツがビチャビチャになるくらい激しい打ち上げをした。いつもはそんなに飲まない吉原さんも、「代表一気」という無茶なコールでたくさん飲まされて、気付けば座敷の隅で半分くらい寝ていた。
 そうして、吉原さんが本マ気ジで成長するはずの1年が終わってしまった。みんな吉原さんに注目していた。吉原さんは次に何をやるんだろう? 誰を起業に誘うんだろう? どれくらい成功して、どれくらい稼ぐんだろう? みんな学食や飲み会でヒソヒソと話し合い、推測を交換していた。ビジコンも終わったし、次は吉原さんを「審査」する番だとでも言いたいようだった。

 その時期のイグナイトには特に大きなイベントはなかった。でも勉強会だけは定期的に開かれていたから、暇な大学生たちは日吉キャンパスに集まって、発表やディスカッションをぼんやり聞いて、早く終わらないかな、飲み会が早く始まらないかなと、みんな気の抜けたような顔で頰ほお杖づえをついていた。
 その日も誰かが適当な発表をして、適当にディスカッションをして、1時間が経ってさて終わったから飲みに行くかとみんなが荷物をまとめ始めたところに、「ちょっといいですか」と声が上がった。ここ最近はほとんど姿を見かけていなかった吉原さんだった。吉原さんはツカツカと教室前方に歩いていくと、小脇に抱えていたMacBookをプロジェクターに接続した。
 宇宙のような漆黒がスクリーンに投影されていた。神妙な表情をした吉原さんが、ッターン……とエンターキーを叩くと、「吉原、起業するってよ。(4年ぶり2回目)」という白い明朝体の文字が、時間をかけて、フワァ~ッと浮き上がってきた。
「ウェ~~~~~イ」
 真面目な子が想像する不良の真似事みたいな、脳みその表面がゾワゾワするような低い歓声が教室を揺らした。
「えー、皆さんお待たせしました、私、元・天才高校生起業家(一同大爆笑)、吉原が手掛ける第二の起業、事業領域は……高校生向けオンライン起業塾です!」
 そう来たか、という僕の気持ちは、実のところ落胆に近いものだった。「勝ち確やん!」「発想エグいてぇ!」とか盛り上がっていた一団もいたが、その場にいたメンバーの大半が、僕と同じような表情をして、しかしお行儀よく拍手をしていた。