2001年12月当時の八戸駅の仮駅舎(筆者撮影)

2022年12月1日で東北新幹線開業から20周年の青森県八戸市。人口約22万、県の東半分・南部地方の中心都市は、「100年に1度」の変化に不安と悩みを抱えて向き合った。その体験は、人々の意識を変え、「モノづくりのまち」「水産のまち」が「観光のまち」に生まれ変わった。

開業の余波はまだ、まちを動かしている。しかし、人口減少は止まらず、中心市街地は課題を抱える。節目を機に、足跡をいかに確かめ直すか。20年目の宿題だ。

「全国で最もみすぼらしい駅」

「全国で最もみすぼらしい八戸駅。この駅を何とかしなければ……!」

新幹線開業前の2000年ごろ、当時の市長だった中里信男氏(故人)は会合や選挙の応援演説でマイクを握るたびに強調した。


改築工事が進む旧八戸駅舎=2000年8月(筆者撮影)

八戸市は、青森市や盛岡市に匹敵する人口や都市機能、経済力を有する。しかし、知名度が低い。加えて、駅舎は都市規模に似合わない、こぢんまりした平屋。この2つがシビック・プライドに刺さったとげだった。

新幹線が待ち遠しい。それ以上に、駅一帯を造り替えたい。地元の願いは「駅ビルの建設」に集約された。しかし、要望を受けたJR東日本は開業まで2年を切っても煮え切らない。その状況へのいらだちが、「最もみすぼらしい駅」の連呼の背景にあった。

まちの歴史は中世に遡る。14世紀、甲斐源氏の流れをくむ南部氏が現在の八戸市に移り住み、根城(ねじょう)を建て、後に八戸氏を名乗った。

江戸時代初期は盛岡南部氏の領地だった。しかし1664(寛文4)年、世継ぎの事情で八戸藩が盛岡藩から独立し、2万石の城下町・八戸が誕生した。八戸藩領は現在の八戸市周辺から岩手県北に広がり、今も県境を越えた意識とつながりが残る。

また、八戸市が事務局を務める「北奥羽開発促進協議会」(1968年発足)」は青森・岩手・秋田3県の6市14町4村にまたがり、“隠れ広域自治体”の趣がある。拠点機能は県庁所在地に劣らない。三菱製紙などの企業が製造拠点を置く新産業都市であり、全国有数の水揚げを誇る「水産のまち」でもある。

「尻内駅」が八戸駅に改称

八戸駅は中心市街地から約6km西方の内陸に位置する。1891年に開業した。当時の駅名は、駅舎が建つ地域の名を取った「尻内」(しりうち)だった。1894年に尻内駅から中心市街地へ、そして太平洋岸へ延びる八戸線が開業し、八戸城跡の最寄り駅が「八戸」と名付けられた。

時代が昭和に飛んで1971年、尻内駅の名が八戸駅に改められた。前後して、それまでの八戸駅は「本八戸(ほんはちのへ)駅」に改称された。その理由は地元でも諸説ある。市史などに記述はないが、大きな要因は、北東北3県を揺るがしていた東北新幹線の建設構想だった……と記憶をよみがえらせる人もいる。


東北新幹線・八戸駅の位置(地理院地図から筆者作成)

駅名が改まったこの年、東北新幹線は盛岡までの工事が始まった。そして盛岡以北のルートとして「太平洋回り」と「日本海回り」の2案が浮上していた。前者は八戸市と青森県南部地方、岩手県が、後者は青森県弘前市と津軽地方、秋田県が連携して互いに優位性を主張し、譲らなかった。

「八戸の顔」にふさわしい新幹線駅の名は――。誘致運動の過程で、そんな議論があったらしい。

ルート問題は1973年の整備計画決定時、現行の「太平洋回り」で決着した。しかし、その年、日本の高度経済成長はオイルショックなどによって終わりを告げた。さらに国鉄の財政悪化に伴い、着工は先へ先へと延び続けた。新幹線開業に伴う改築を想定していた八戸駅は、小さな駅舎のまま、取り残された。

1982年6月、東北新幹線・大宮―盛岡間が開業。八戸市民はそれからさらに20年、新幹線延伸を待たねばならなかった。

「盛岡で新幹線『やまびこ』から特急『はつかり』に乗り継いで、窓から『ジャンプ台』を見るたびに悲しくなった。今は本当に東京が近くなった」

かつて八戸市に勤務し、都市整備部長などを歴任した妻神敬悦氏は感慨を語る。駅や周辺整備、さらには市の開業対策全般を担った「ミスター新幹線」の一人だ。「ジャンプ台」とは、新幹線高架が盛岡駅の北方で途切れていた姿を指す。スキー・ジャンプ競技の踏切台に似た光景から、青森県の新幹線関係者が自嘲を込めてそう呼んでいた。

1987年の国鉄分割民営化を経て、東北新幹線・盛岡以北の建設が動き出した。一時は部分的に「ミニ新幹線」規格の導入が決まった。しかし、どんでん返しを経て、盛岡―新青森間の全線がフル規格で着工されることになり、代わりに、八戸駅までの部分開業が差し挟まれた。

八戸は期間限定ながら、想定になかったターミナルの地位を得た。開業の時期は、青森県を会場に開催される冬季アジア大会に合わせて、2002年12月と決まった。

「八戸十和田」の駅名案も

だが、開業年が迫っても市内は混沌としていた。切望していた駅ビルの建設は決まらず、駅前一帯の商店街もめぼしい整備構想がない。駅舎が市街地から離れ、工事の進捗状況も感じられない。市役所と経済界には心理的な距離感もあった。

事態がようやく、しかし一気に動き始めたのは2001年だった。八戸市と八戸商工会議所は7月、それまで別々に設けていた開業対策組織を統合した。

その直後、JR東日本が駅ビルの建設を公表した。安定したテナントとして公共施設の入居を求められ、市は運営水準で全国的に評価が高かった市立図書館の分館を入居させることにした。新たな駅づくりのための基金には、市民や企業から約4億円の寄付が集まった。

この時期、開業への対応が加速した背景には「駅名を『八戸十和田』にしてはどうかという県からの提案があった」。八戸市で貸しビル業を営む傍ら、「哲学カフェ」を運営する石橋司氏は振り返る。

命名案には、北東北有数の観光地・十和田湖への誘客を進める意図があったとされる。しかし、市や経済界は猛反発し、それが市民の関心を高めるとともに結束を固めた、という。

やがて駅名変更は立ち消えになり、「十和田」の名は結果的に、2010年12月に開業した東北新幹線・七戸十和田駅に冠せられた。

朝日と青空に見守られ、一番列車「はやて2号」は2002年12月1日午前6時55分、八戸駅を出発した。新たな時計が回り始めた。東京―八戸間は在来線当時から37分短縮され、最短2時間56分となった。盛岡―八戸間の利用者は1.5倍に増え、「開業は成功」という評価を獲得した。

観光面では、市民や周辺地域の台所だった「八食センター」が新たなスポットとなり、中心市街地にオープンした屋台村「みろく横丁」は市民と観光客の列が途切れなかった。

地元に伝わる「えんぶり」や「三社大祭」といった祭りもファンを獲得した。地域の人々が愛してやまない「八戸せんべい汁」の魅力は旅人にも受け入れられた。八戸港に面した館鼻岸壁で開かれる朝市は年を追うごとに成長、コロナ禍前には1日数万人が訪れるようになった。

開業はIT系や製造業など多様な企業の進出も加速した。企業誘致は開業前の10年間が11件、これに対し開業後の10年間は28件、さらにその後の10年間は42件に上る。開業時、懸念されていた“ストロー現象”はほとんど起きなかった……と石橋氏は証言する。

ただ、新幹線がもたらしたのは恩恵ばかりではない。日本の大動脈だった東北本線は盛岡―八戸間がJR東日本から切り離され、青森県部分は第三セクターの「青い森鉄道」、岩手県部分は同じく「IGRいわて銀河鉄道」に移行した。

運賃は値上げされ、特急列車は寝台特急を除いて姿を消し、やがて寝台特急そのものがなくなった。鉄道通学を忌避して、進学する高校を変更せざるを得なくなった生徒も多数存在した。駅の隣に誕生した飲食施設は数年で空き店舗になった。

新幹線開業が“スイッチ”に

新幹線で地元は何を手にしたのか。「八戸は観光を産業だと思っていなかった。しかし、観光都市に成長した」。八戸商工会議所の副会頭を務め、八戸圏域DMO「VISITはちのへ」理事長を兼務する塚原隆市(たかし)氏は市民の見立てを代弁する。

ただ、20年間の地元の変化を概観すると、その足跡を「観光開発に成功」と形容するのは皮相的に思われる。

人々が自らの地域資源を確かめ、その貴重さを再認識し、人とお金を呼び込んだ点で、八戸市は王道を歩んだと言える。

しかし見逃せないのは、新幹線開業をいわばスイッチとして、自らの価値と手法に自信を持ち、地域のマネジメント力とプロモーション力を向上させていったプロセスそのものだ。さらに、「模索し、変化し続ける」仕組みを獲得したことが最大の成果かもしれない。

そのプロセスはまちづくりにも現れている。中心市街地にどう人を集め、市民の暮らしや活動と観光をリンクさせるか模索した結果、2011年2月に「八戸ポータルミュージアム・はっち」が誕生した。市民活動の拠点機能を兼ね備える「地域観光交流施設」だ。

「はっち」の機能は好意的に受け止められた。2016年10月にはほぼ隣接して、全国でも珍しい、市が運営する書店「八戸ブックセンター」がオープンした。市が進める「本のまち八戸」の拠点だ。この施策は2024年春に北陸新幹線開業を控える福井県敦賀市にも採り入れられた。

さらに2018年7月、「八戸まちなか広場」を名乗る「マチニワ」が、「はっち」と八戸ブックセンターの間に開設された。2021年11月には、やはり中心市街地にあった八戸市美術館が改装、開館した。

これらの投資には異論もある。だが、塚原氏は「中心市街地はまちづくりのためにある」と意義を強調する。中心市街地を整備することが目的ではなく、まちづくりを進めるための手段・装置が中心市街地であり、施設群だ……というわけだ。

止まらぬ人口減少、中心商店街にも危機

新幹線開業の成功事例」と評される八戸だが、人口流出は止まらない。今年になって、中心市街地に2店あったデパートのうち1店が閉店した。その向かい側で個性的な映画の上映を続けてきた9スクリーンの映画館も、入居するビルの再開発に伴い、2023年1月早々に閉館する。中心市街地の曲がり角に市民は危機感を強める。

残念なのは、まちとして新幹線開業20周年を振り返り、総括する機能が半ば失われていることだ。開業記念のイベントの予定はあるが、新幹線開業がもたらした変化について語り合う催しはまだ見当たらない。

20年以上にわたる街の変化をどう総括し、2031年に予定される札幌延伸にどう向き合うか。そして「開業30周年」へどう歩んでいくか。意見を交わすフォーラムを開けないかと考えている。


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(櫛引 素夫 : 青森大学教授、地域ジャーナリスト、専門地域調査士)