精神科医・香山リカさん 北海道で僻地医療を「自分をだますのはやめました」
北海道・むかわ町穂別。
道の南西部、苫小牧市や室蘭市と同じ胆振地方に属するむかわ町の北部にあり、人口2千300人ほどの地区だ。
この山あいの集落の一角にある、打ちっぱなしのモダンな施設が、穂別診療所。同地区で唯一の医療機関で、地域の人はなにかあるとまず、ここに診察に訪れる。
入院患者を受け入れることもでき、保有ベッド数は19床ある。
中の処置室で、高齢の女性が診療用のベッドに横たわっていた。
「痛いよね〜」
白衣にマスク、メガネをかけた女性医師が、この高齢の女性患者の耳に顔を近づけて、ささやくように話しかける。「はい」とやや遅れて患者が声を絞り出した。
女性は近接するグループホームの入居者で、転倒して眉のあたりに少し裂傷を負ったため、同スタッフに連れてこられたという。
CTスキャンで頭蓋内の出血などがないことを確認した後、医師は、患部ににじんだ血をぬぐい、ハサミを用いて慣れた手つきで、皮膚接合用のステリテープを使って処置した。
胸に「中塚」と名札がある彼女は同診療所の副所長。
「中塚尚子」は本名だが、世間では「精神科医・香山リカ(62)」のほうで通っている。
■“有名文化人”が「中塚尚子」の本名で、過疎の町で僻地医療に取り組んで
’80年代後期にマスコミに登場し、丸メガネとリボンの精神科医というユニークなキャラクターで話題となった。
’08年からは立教大学現代心理学部教授として教壇に立ち、’09年に発売した『しがみつかない生き方「ふつうの幸せ」を手に入れる10のルール』(幻冬舎)は48万部超のベストセラーに。
情報ワイド『スッキリ!!』のコメンテーターを長年務め、『徹子の部屋』に出演したこともある。
そのように世間の関心を集める“有名文化人”が、今年4月から本名で、北海道の過疎の町で総合診療を担っているのである。
高齢化で地域の過疎化は進み、医師不足で診療に深刻な影響が生じている市区町村は多々ある。
同診療所も不在だった副所長職の公募をかけていたところ、’21年6月に香山さんが応募したのだ。
だがこれまでの精神科の専門性とは異なり、僻地の診療所では、虫刺されに打撲・外傷の救急搬送、ときに入院患者の臨終まで、あらゆる医療への対処が求められる。
「8月のお盆明けは、新型コロナ第7波の発熱外来が大変でした。1日で30人もいらして、抗原検査で陽性が出なければPCR検査。医師もそのつどフルPPEという防護服に着替えました。
裏口の検査場と、一般外来での診察の往復だけで、1日10回近くにもなったんです」
慌ただしく日課をこなす香山さんに、その決断と転身の真意を語ってもらうために、北海道むかわ町穂別をたずねた。
■中村哲さんが凶弾に倒れて。「私のような人間がのうのうと生きていていいのか」と
「精神科医・香山リカ」として、多メディアでの活躍を続けてきた香山さんだったが、ここ10年、つらい経験に続けて見舞われた。
両親との死別である。
’10年に父が82歳で他界すると、母は小樽で独居を望んだという。
「私は、母を東京に呼び寄せようと何回も説得したのですが、母は『絶対にいやだ。迷惑かけたくない』と。私と弟の自主的な生き方を尊重する両親でしたから」
そして父が亡くなった2年ほどあとに、母の肺がん闘病が始まる。
「私は月1、2度、小樽に帰って母の様子を見ていました。そこでも、母は『ひとりで頑張る』と」
そんな最中の’17年、香山さんは立教大のサバティカル休暇で1年間、授業のない期間を得た。
大学の同級生の依頼で、四国に講演に出向いたときのこと。
「その彼が四国の山あいの診療所を父親から継いだことを知りました。学生時代は遊んでいるイメージでしたが、地域医療に根差しているのを見て感心したんです」
また、北海道の空港で別の同級生に声を掛けられたこともあった。
「彼は公衆衛生学の研究者でしたが、やめてオホーツク海のそばで地域医療をしていると聞かされました。1年間研修を積み、医療過疎地域で頑張っていると知り、ビックリしましたね」
香山さんは、医者として、どれだけ医療分野に貢献できてきたのかと自問自答した。
「ぜんぜん。せっかく医師免許を持っているのに、私はちっとも生かしていないじゃないかって」
まず同級生に倣うように、専門外の知識や総合診療の修得のため、母校・東京医大病院で研修を。
「血圧測定や聴診器で心音を聴くことから始め、ほとんどしていなかったことを、20代の若い先生に教わりながら、1年間、研修しました」
しかし病床の母は、教授を辞めることに大反対だったそうだ。
「母にとっては、立教大学は憧れでしたし、そこで教授職を得たことを誇りに思ってくれていました。私のキャリアに、母は満足していたんです」
だから当初は医療貢献への転身時期を、定年後と想定していた。
ところが、大きな出来事が立て続けに起きるのだ。
「’19年7月、母が87歳で亡くなりました。晩年には『あなたのやりたいことをやるのがいちばんよ。楽しみなさい』と言っていたのが印象的でした……」
その年末には、アフガニスタンで30年以上、医療、治水などの総合的な支援に尽力した中村哲さん(享年73)が凶弾に倒れるという悲報に衝撃を受けた。
「医師の偉大な先輩として尊敬していました。こんな方が非業の死を遂げ、私のような人間が、のうのうと生きていていいのかと」
■「一隅を照らす」――僻地医療こそ自分が手伝える場所と肝に銘じて
それまでの香山さんは、教授や執筆、講演など、医師以外の顔を多く持つことで「逃げ場にしていた」と自身で振り返っていた。
「頑張りすぎない」ことで精神的なバランスが保てるという持説は、自ら実践してきたものだ。
でも、香山さんは今回、自分の使命と真正面から向き合うことに決めた。
それは、「医療が行き届かない場所で、医師としてのキャリアやスキルを生かすこと」だったのだ。
’20年、60歳になる年の香山さんを妨げるものは何もなかった。
まず海外赴任の道を描き、緊急医療のNGO「国境なき医師団」応募を考えたが、英語力や救急スキルなどのハードルが高く断念。
次に発展途上国への医療ボランティア「ジャパンハート」参加を志願したが、コロナ禍で渡航フライトがキャンセルとなり頓挫してしまった。
海外への道が閉ざされた後に、残ったのが「僻地医療」の医師への公募。
それが’21年6月、むかわ町穂別診療所で空いていた、副所長職の求人だったのである。
「ある講演会で中村さんは、国際貢献したいという学生に『いまいるところにあなたを必要としている人はいます』と『一隅を照らす』という言葉で答えられました。
私は『深刻な医師不足に困っている僻地医療こそ、私が手伝える場所だ』と肝に銘じたんです」
(取材・文:鈴木利宗)