「チャンピオンズリーグに出場するような選手になってほしい」。セルティックの旗手怜央が目標の舞台を前に思い出す恩師のひと言
旗手怜央の欧州フットボール日記 第9回 連載一覧>>
CLを前に思い出す高校時代/前編
スコットランドのセルティックでプレーする旗手怜央。初めての欧州サッカー、欧州生活で感じた、発見、刺激、体験を綴っていく。9月6日に目標にしていた大舞台、CLを戦うにあたって、旗手には思い出す高校時代の恩師のひと言があるという。
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高校時代の恩師のひと言確か川崎フロンターレへの加入が内定した時だったから、2018年のことだっただろう。
母校である静岡学園高校に足を運び、サッカー部の川口修監督に進路について報告した。
「順天堂大学を卒業したら、川崎フロンターレでプレーすることになりました」
今後についての話をしていると、川口監督はいきなりこう言った。
「怜央には、将来UEFAチャンピオンズリーグ(CL)に出場するような選手になってほしい」
リーグ戦で好調の旗手怜央。いよいよ楽しみにしていたCLが始まる
正直に言うと、大学生だった当時の自分はピンときていなかった。あまりに絵空ごとすぎて、「この人は一体何を言っているんだろう?」とすら思っていた。
今日まで、静岡学園高校のサッカー部を経てプロになった選手は数多くいる。なかには川崎フロンターレ時代の先輩でもある(大島)僚太さんのように、日本代表に選ばれた選手もいる。
その一方で欧州のクラブに移籍し、CLのピッチに立った選手はいなかった。CLと言えば、世界中の名の知れた選手たちが集う大会。川口監督としても、世界最高峰の大会と言われるそのピッチに、自分の教え子が立ってほしいという思いがあったのかもしれない。
ただ、川口監督に言われたからといって、プロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせてもいなかった自分が、ましてや"海外挑戦"など、当時は考えもしなかった。
だけど、2020年に川崎フロンターレでプロとしての一歩を踏み出した時から、事あるごとに川口監督の"ひと言"を思い出すようになっていた。まるで、その言葉が脳裏に焼きついているかのように自分に刻み込まれ、気がつけば心の底から「CLに出たい」と思うようになっていった。
苦しい時には、自分を奮い立たせる呼び水になっていた。
「CLに出られる選手になるためにも、こんなところで挫けていてはいけない」
調子がいい時にも志を高く持つ起爆剤になっていた。
「自分が目指しているのはCLだから、今の出来に満足していてはいけない」
自分の土台を築いた静岡学園時代今日まで自分に関わってくれたすべての指導者が、自分が成長していくうえで欠かせない人たちだったと感謝している。そのなかでも静岡学園高校で過ごした3年間は、自分の土台を築くうえでは本当に重要な時期だった。
とくにセルティックでプレーする今も、自分の武器になっている繊細なボールタッチの技術を教えてくれたのが川口監督だった。そうしたプレーはもちろんのこと、人としても大きく成長させてくれた恩師。プロになったあとも、自分の人生を大きく導く"ひと言"を与えてくれていたくらいに......。
少しだけ昔話をすれば、三重県鈴鹿市で生まれた僕にとって、名門と言えば"四中工"と呼ばれる四日市中央工業高校だった。だから自分も周りの同級生たちと同じように、自然と進路のひとつとして四中工への進学を思い描いていた。
ところが、だった。幼い時の記憶だから朧気なところもあるけれど......ある時、ふっと「プロになるためには"静学"に進学したほうがいいのではないか」と思った。
だから、今さらながら打ち明けると、中学受験で静岡学園を受けたことがある。ちなみに、サッカーしかしていなかった当時の自分は、学力が足りず、受験に失敗するという苦い経験をしていたりもする。
中学生になってからも"静学"に進学したいという思いは変わらなかった。中学受験を許してくれた両親は反対することなく、自分の選択を応援してくれていたように思う。
その意志を強く確認してくれたのは、中学時代にプレーしていたFC四日市の監督だった。わざわざ家の近所まで出向いてくれると、「本当に静学に行きたいのか?」と確認されたのを覚えている。そこで僕が「行きたいです」と答えると、静学への練習参加を打診してくれ、扉を切り開いてくれた。
川崎フロンターレの練習に初めて参加した時、レベルの高さに驚いたが、「このなかでやれるようにならなければいけない」と、すぐに前向きになれたのは、静岡学園に入学した時の衝撃が強く、免疫があったからかもしれない(苦笑)。
ボールを扱う技術が圧倒的に足りなかった静岡学園高校のサッカー部は1学年で50人以上。3学年合わせれば150人を優に超えていた。試合に出るには、そのなかの11人に選ばれなければならない。入学当初はその競争の激しさと厳しさに直面し、"怖ろしさ"すら感じたほどだった。
何を隠そう、当時の自分は全く走れなければ、うまくはなかったのだから......。ただし、当時はFWだったこともあり、シュートだけは認めてもらえていた。それもあって1年生だけで臨む試合には出場させてもらっていたが、ボールを扱う技術が圧倒的に足りず、いつも足元の技術を磨こうと、リフティングやドリブルの練習を繰り返していた。
また高校時代は1年に一度は、成長への転機になるような出来事があった。1年生の時は、(高円宮杯U−18)プレミアリーグの試合に出場させてもらった。夏場になり出場機会を与えられると、トップチームのレベルを知り、全国レベルを戦う選手たちの実力を肌で感じられたのは励みになった。
2年生の時は、高校サッカー部員の憧れでもある全国高校サッカー選手権大会に出場した。準々決勝で日大藤沢高校に1−2で敗れて、ベスト8止まりだったが、大会を通じて2得点を挙げることができ、選手として経験を積ませてもらった。
高校3年間で全国大会に出場したのはあとにも先にもこの選手権が唯一。この活躍により、高校選抜に選ばれた僕は、おそらく"天狗"になっていたのだろう。
だから、高校3年生になったある日、背番号10を剥奪されたのである。
(後編「自らの指針を決めた、静岡学園時代の出来事」>>)
旗手怜央
はたて・れお/1997年11月21日生まれ。三重県鈴鹿市出身。静岡学園高校、順天堂大学を経て、2020年に川崎フロンターレ入り。FWから中盤、サイドバックも務めるなど幅広い活躍でチームのリーグ2連覇に貢献。2021年シーズンはJリーグベストイレブンに選ばれた。またU−24日本代表として東京オリンピックにも出場。2021年12月31日にセルティックFC移籍を発表。今年1月より、活躍の場をスコットランドに移して奮闘中。3月29日のカタールW杯アジア最終予選ベトナム戦で、A代表デビューも果たした。