斎藤佑樹は夏の甲子園2回戦で中田翔擁する大阪桐蔭との対戦が決まった瞬間、確信した。「一気に優勝が見えてきた」
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2006年、夏の甲子園。早実は西東京代表として10年ぶりの出場を果たした。日大三との決勝が8月1日、甲子園の開会式は8月6日。組み合わせ抽選で早実の主将、後藤貴司は第1日のクジを引く。それは斎藤佑樹にとっては厳しい日程......のはずだった。
夏の甲子園2回戦で大阪桐蔭・中田翔から3三振を奪った早実の斎藤佑樹
甲子園を勝ちとった翌朝、起きたら右手首がめちゃくちゃ痛かったんです。おそらく三高(日大三)との決勝で221球も投げたからだと思います。しかも変化球をかなり投げた。三高はインコースの真っすぐと外のスライダーを駆使しないと抑えられない打線でしたから、手首を酷使しすぎて腱鞘炎みたいな感じになっていたのかもしれません。
試合当日の夜は大丈夫だったのに、次の日になったら突然、痛みが出たんです。慌てて病院へ行ったら「これは注射を打たなきゃダメだ」と言われて、すぐにヒアルロン酸の注射をその場で打ってもらいました。
それで少し痛みは和らいだんですが、練習でピッチングしてみたら、スライダーを投げるとものすごく痛い。ストレートもフォークもカーブも投げられるのに、スライダーだけが思うように投げられませんでした。投手生命を断たれたんじゃないかと思ったほどです。
そんな状態だったのに初戦が大会の第1日目ですから、普通なら勘弁してくれ、となるはずですよね。でも、そう思った記憶がないんです。なぜなんですかね。
初戦の鶴崎工業との試合ではたしかに投げていて痛かった記憶があるのに、時間がないとは思わなかった。日常生活では痛みはなかったし、真っすぐを投げる時にも痛みがなかったから、そんなに深刻に考えていなかったのかもしれません。もしかしたら、スライダーを投げなくても抑えられる以外の球種で勝負できるとでも思っていたんですかね(笑)。
僕らは第2試合でした。甲子園で開会式に出て、その後、阪神タイガースの二軍が使う鳴尾浜球場へ移動して練習。それから鶴崎工との試合に臨みました。覚えているのはピッチングより、ライトからの景色です。
点差が開いた9回、ピッチャーが塚田(晃平)に代わって、僕はライトに入りました。応援席が近いなと思った記憶があります。何しろアルプススタンドのチームメイトから「斎藤ーっ、ちゃんと守れよーっ」なんてヤジ紛いの声が聞こえてきましたからね(笑)。
あの時の僕は「塚田、頑張れ」と思いながら遠いマウンドを見ていました。でも塚田はコントロールが定まらなくて、結局、僕がもう一度、投げることになって......あの試合、手首は痛かったんですけど、真っすぐは抑えめに投げて、スライダーはほとんど使わなかったんじゃないかな。遅いカーブをうまく使って投げたという感じです。試合は13−1で勝って、2回戦に進みました。
横浜高校が1回戦で負けた...その2回戦、早実は勝ち進めばセンバツで負けた横浜と当たる組み合わせでした。もちろん横浜も勝ち進むことが条件ですが、僕のなかではあの時の横浜は僕らに勝ってセンバツで優勝した最強のチームでしたから、当然、勝ち上がってくるだろうと思っていたんです。
ところがその横浜が1回戦で負けた......あの横浜が負けるんだとすごく驚きました。僕らのすぐあとの第3試合、横浜を倒したのは大阪桐蔭です。あの横浜にどうやって勝つんだろうと思ったら、完全に打ち勝っていた。
当時、高2だった4番の中田翔くん(のちにファイターズ)がホームランを打って、3番の謝敷正吾くん(のちに明大)もホームラン。そうか、横浜にはこうやって勝つのか、と思いました。
横浜高校の野球って繊細で緻密で、とにかくいろんなことを仕掛けてくる。そこに勝とうと思ったら、似たような野球をやっていてはダメなんだということだったんです。あの時の大阪桐蔭はスラッガーを揃えて、圧倒的なパワーでホームランを連発して相手を圧倒していた。早実はどう見てもそういうタイプのチームじゃなかったので、たぶん横浜と当たっていたら厳しい試合になったはずです。
それが、横浜が負けて、大阪桐蔭との対戦になった。その瞬間、優勝が微かに見えてきた気がしました。もちろん、ずっと甲子園で優勝するんだと言い続けてきましたが、いつも引っかかっていたのが横浜高校の存在だったんです。全国優勝の前に立ちはだかる横浜高校というカベを、僕はものすごく高く感じていました。それほど横浜の存在は大きかった。
だから、どうやって勝てばいいのかをずっと考えてきました。明治神宮大会で負けた駒大苫小牧に対しては、「1−0で勝つ」という何となくのイメージを持てていたのに、横浜に勝つイメージはまったくつくれなかった。だから、圧倒的に横浜の存在がイヤでした。その横浜が負けて、一気に山頂までのルートが見えた気がしたんです。
中田翔を抑えるイメージはできていた大阪桐蔭というのは、やっぱり中田くんを抑えないと勝てない。でも、僕はそういうスラッガータイプが揃っていた三高と戦うためにさんざん対策を練ってきました。だから中田くんをなんとなく抑えるイメージは持てていたんです。
右のホームランバッターに対してはインコースを厳しく攻めて、外を遠く感じさせてからアウトコースのスライダーで勝負する......そんなイメージです。力でねじ伏せようとする相手に対して、僕にはどこか抑える自信がありました。
第1打席の中田くんへの初球は覚えています。外の真っすぐを投げました。でも映像を見ると、キャッチャーの白川(英聖)がいきなり初球から中腰で構えているんですよね。おもしろいなと思って......いや、自分で言うのも変な話ですが、たぶんそれが白川のクセの強さというか(苦笑)。白川って普通はやらないことを平気でやっちゃう図太いところがあるんです。
あの時、白川が中腰で構えたというのは、外の真っすぐを「間違っても低めに投げるなよ、高めに投げて来いよ」という意思の表れですよね。
中田くんはパワフルなホームランバッターですから大振りの印象があるかもしれませんが、じつはうまいバッターだという印象を当時から持っていました。配球を考えながら、ときにはコンパクトなスイングで対応してくる。だから、もしかしたら初球に外へスライダーがくるというイメージを彼が持っていたとしたら、低めの真っすぐはうまく拾われるリスクがあります。それを僕に伝えたくて、白川は中腰で構えたんじゃないのかな。そのおかげで僕は初球から振ってくるだろうというイメージを強く持てて、よりいいところへきっちり投げなきゃという気持ちになれていたと思います。
あの打席、初球がアウトハイへものすごくいいボールが決まって、2球目は外れた。1−1から外にスライダーを投げて泳ぐような感じをつくって、追い込みます。で、真っすぐ(ボール)、フォーク(ファウル)を外に投げて、2ー2からインハイへ(146キロの)真っすぐ(空振り三振)。外のスライダーとインコースへの真っすぐには自信がありましたから、追い込むまでに投げるアウトハイへの真っすぐがカギでした。
中田くんは最後、インハイへの真っすぐに対して避けるような感じで空振りをしましたが、あの球は白川が構えたところへズバリでした。僕は三高対策として、ピンポイントであそこへ投げる練習をずっとしてきましたから、まさに練習どおりのボールです。
じつは僕には、三高よりも前に意識させられた右のホームランバッターがいました。それが1学年上の桐光学園にいた岡山(真澄/のちに中大)さんです。早実って桐光学園とよく練習試合をするんですけど、4番の岡山さんをどうしても抑えられなかった。その時、和泉(実)監督から「右のホームランバッターを抑えるためにはインコース高めに、シュート回転でフケるような唸る軌道じゃなく、しっかりと投げきった一直線の真っすぐを投げられなきゃダメだ」と言われていたんです。それで僕はそのイメージをずっと追い求めてきました。
そういう軌道の真っすぐをインハイへ投げるのは簡単ではありませんでしたが、これじゃ岡山さんには打たれる、こういう軌道じゃないと岡山さんを抑えられない、と意識しながらずっと練習してきたんです。それが三高の時も、大阪桐蔭の時にも生きました。インハイいっぱいへ、一直線の真っすぐを投げるためには、こういうラインに右腕が入ってこなきゃダメだという感覚を、自分のなかにたっぷり染み込ませてきましたから......。
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第1打席でインハイを攻められた中田翔は、すっかりバッティングを狂わされてしまう。斎藤は中田から3つの三振を奪い、またも打線が爆発した早実が11−2で大阪桐蔭を下した。そしてこの試合、斎藤の運命を大きく変える出来事が起こる──それが"青いハンカチ"だった。
(次回へ続く)