「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第26回 小川邦和・後編 (前編から読む>>)

「昭和プロ野球人」の知られざる過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズ。尾道商高でセンバツの準優勝投手となり、早大、日本鋼管を経て1972年のドラフト7位で巨人入りした小川邦和(おがわ くにかず)さんは、わずか5シーズンでチームを去ってしまう。

 74年には12勝を挙げるなど実績を残してきたなか、唐突にも思える退団劇。その裏側では、V9時代が終わり、長嶋茂雄監督のもと最下位に転落するなど過渡期にあった巨人で"雑な扱い"を受けたことも一因だったようだ。

 巨人をやめた小川さんは新天地をアメリカに求めた。当時は「挑戦するという気持ちはなかった」と言うが、人の縁や自身のバイタリティーもあって、渡米2年目の79年、ついにブリュワーズ傘下の3A、バンクーバー・カナディアンズに入団。日本にはまったく情報が伝わらないまま"日本人2人目"のメジャーリーガーを目指す日々が始まった。


不敵な表情でサイドスローから投げ込む巨人時代の小川邦和(写真=産経ビジュアル)

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「いまだに初っぱなの試合は憶えてる。ドジャースの3Aと、ニューメキシコ州のアルバカーキで。開幕日は雪で中止になってびっくりした。南のほうにあるけど高地だから寒いの。翌日の試合もとんでもなく寒かったよ」

 小川さんのマイナーリーグ初登板の機会は、その寒かった開幕戦で巡ってきた。

「9回、3点差。ワンアウト一、二塁で、ペドロ・ゲレーロをショートゴロに抑えて。初めてのゲームでセーブを獲れた。ゲレーロは2年後にドジャースで4番打ったバッターだけど、何とか、幸先よく結果を残せた。でもそれは4月まで。だんだん相手バッターが調子を上げてきて、後半戦は不調だった。結局、28試合に投げて1勝7敗4セーブ、防御率は5点台だったもの」

 たとえマイナーでも、当時、アメリカでプレーする日本人選手はいなかったわけだ。本場のアメリカで野球をやっているんだ、日本の野球とは違うんだ、という実感はどれほどあったのか。

「それはもう毎日が実感の連続だったね。そういう面では肉体的にも精神的にもすごい疲れたよ。前の年にセミプロとかで野球をやったから、ある程度はわかっていたけど、気候も違えば、長時間の移動も大変だったし」

 にわかに声のトーンが下がっていた。野球そのもの以上に、環境の違いには相当に苦労させられたようだ。それでも、翌80年はマサチューセッツ州ホールヨークに本拠地を置く2Aのホールヨーク・ミラーズに移籍すると、47試合に登板して6勝2敗16セーブ、69回を投げて防御率1.96。リリーフとして好成績を挙げている。

「ボストンの2Aなんて、まずヒット打てなかったよ。『あいつに投げられたら打てない』って新聞にコメントを出す選手もいて。調子よかったときは、チームメイトみんなが、『クニ、おまえは今すぐ行ってもメジャーリーグでやれる。来年はメジャーリーグで契約してくれるかもしれない』って言ってたし」

 再び、「挑戦する気持ち」という言葉が頭に浮上する。自信につながるだけの結果を残して、そこまで周りの評価が高まっても、あくまでマイナーリーグだったのか......。

「あのとき、2Aで僕と一緒に戦った選手がそのあと6人、7人と上がっていった。で、僕のことは、スカウトが5人いるうち4人は『メジャーリーグでやれる』って言ってくれた。1人だけ『やれない』って言ったけど、結果的にそれがいちばん当たってたね」

 聞いた途端、確かめたくなった。1年目の79年とは違って実績を残していたのだから、メジャーに挑戦できたのではないか。なぜ、可能性に懸けなかったのか。

「いや、それは難しかった。今は契約の仕方も違ってるけど、当時、マイナーリーグの契約をしてしまったら、もうその年はほぼ上がれなかったから。それでブリュワーズからは次の年、『メジャーリーグのキャンプは参加させる』って言われたけど、『契約はしない』って言われた。『契約しないんだったら、俺はもう残らない』って言ってね。日本に帰ることにしたの」

 率直に「惜しい、惜しかった」と言いたくなってしまう。あともう一息で、小川さんが[日本人大リーガー第2号]になる、その可能性は高かったのだ。「挑戦する気持ち」はなかったとしても、「マイナーリーグ契約なら残らない」という決断に、メジャーを求めた確かな意志が刻まれていると思うし、最終的には、憧れの舞台でプレーすることを強く望んだのだ。

「しかしね、後々、僕がメジャーリーグのスカウトをやるようになったとき、自分と同じ体格(身長172センチ)で同じ特徴を持ってるピッチャーを獲るか、と考えたら、やっぱり獲らないと思った。これは大学のときの自分もそう。プロ野球は獲らないなと」

 小川さんには2001年からマーリンズ、のちにパイレーツでも極東スカウトを務めた経験がある。そのときに「自分と同じ体格で同じ特徴を持っている投手を獲るだろうか」と考えてみたのだという。

「自分のことを悪いピッチャーとは言わないし、ノンプロでやったあと、巨人の場合は僕の力を認めてくれた。だけど、アメリカの場合、メジャーリーグの場合は認めてくれなかった。せめて、マッシー村上さんぐらい、背丈が180センチ以上あればね、ひょっとして『来い』って言ってくれたかもわからない」

 マッシー村上の名前が出た。小川さんにとっては先駆者だけに、一目置いている存在なのだろう。話はそれから体格の違いによる投球の違いへとつながり、「ピッチャーにとっていちばん大事なのはコントロール。スピード競争をやってるんじゃないの」という言葉を取っ掛かりに、子供の頃から故障しない正しい投げ方を覚える必要性が説かれた。

 正しい投げ方に関して力説したのは、リリースポイントを前、すなわち捕手寄りにするフォームがいかに大切か、ということ。

「リリースポイントを前、ということをものすごく大事にしたのは、尾道商のときの池田善蔵監督。ところが今、それを本当にわかっている人があまりいないんだよね」

 池田善蔵は尾道商高から慶應義塾大を経てプロ入りした投手。戦後間もない頃から太陽、金星、阪急(現・オリックス)で活躍し、引退後の1955年、母校のコーチに就任した後に監督に昇格した。61年の"柳川事件"によってプロ・アマの関係が断絶する以前、元プロが高校の指導者になるにあたって壁はなかった。

 その点、小川さんは高校時代に元プロの教えを受けて投手として成長し、またその経験があるからこそ、今度は自ら高校野球の監督になろうとしているのではなかろうか。小川さんの著書『ベースボール放浪記』に書かれていた池田監督の指導法が思い出された。

〈肩がおかしいと思ったら投げるのはすぐやめる〉に始まり、〈練習は短時間で中身を濃くする〉〈グラウンドで余計な声は出さない〉〈年上でも「さん」付けで呼ぶことは禁止〉といったことが書かれていた。当時としては先進性があったと思われる。

「確かに、周りから見れば、池田監督のやり方はちょっと変わっていたけど、僕はそれが普通で当たり前だと思う。アメリカでは誰も『さん』付けなんかしない、監督もファーストネームで呼ぶんだって実感したし。ただ、監督に『プロに行きたい』と言ったら、『貴様なんか中学生に毛が生えたようなヤツだ。うぬぼれるな』って毎日のように言われて参ったけどね。はっはっは」

 小川さんによると、池田監督に「うぬぼれるな」と言われ続けたことで反骨心が芽生えた。と同時に、合理的で進取の気風に富んだ指導を受けたため、早稲田大に進んでからは「時代が逆行したのか?」と錯覚したそうだ。

「毎日くたばるまで長時間練習して、理不尽な体罰を受けて、人格が歪められるほどだった。高校では『さん』付け禁止だったのが、1年生にとって4年生は天皇みたいな存在とされて......。

 これはね、戦前に早稲田で監督をしていた飛田穂洲(とびた すいしゅう)さん、この人が提唱した野球道、精神野球の影響なんだよ。ただ、飛田さんの時代はそうするしかなかっただけで、僕はすべてを否定するわけではないの」

 日本の社会が野球そのものを認めていなかった時代、野球部に選手を集めるためにも「精神を高揚させる」「協調精神を養う」などといった大義名分が必要だった。戦時下においては、軍隊教育に通じるような猛練習を課すことで、政府から"敵性スポーツ"と見られがちだった野球を守ろうとしていた。

 小川さんはそうした歴史的背景に理解を示しつつも、旧態依然だった早稲田大野球部に在籍中は、日々疑問を感じずにいられなかったという。

「高校まで、僕は普通のいい子だったの。ふふっ。それが早稲田に行ったら、生意気な異端者になっちゃった。もちろん、早稲田だってものすごくいいところはあるし、8割は否定しても2割は肯定するよ。

 ただし、この間、慶應大学監督(当時)の江藤省三氏(元・巨人ほか)と話したとき、『早稲田はいまだにやっとるらしいな』と言われてね。中央大学監督(当時)の高橋善正氏(元・東映ほか)にも同じことを言われたよ。『やっとる』ってのは体罰なんだけど、僕はそれを聞いてがっくりきて、恥ずかしくなっちゃってね」

 あきれ笑いが滲み出たあと、すぐに険しい表情に変わっていた。引き続いて巨人時代のキャンプでの行き過ぎた投げ込み経験が語られると、V9と阪神の"死のロード"の関係へと話題が移行し、川上哲治監督の采配論へとつながった。

「話がずれたけど、とにかく、いまだに体罰をやってるっていうことも含めて、やっぱり早稲田には間違えているところがある。日本からも宇宙にロケットがたくさん飛んでって、探査機がちゃんと戻ってくるような時代にさ、みんなに笑われちゃうよね?」

 1ヵ月前(2010年6月)に帰還した小惑星探査機"はやぶさ"が引き合いに出されるあたり、小川さんの話は縦横無尽で博覧強記の人だと感じ、〈練習の合間に坂口安吾の評論集やサルトル、アーサー・ミラーを読んでいた〉と書かれた文献資料を想起する。文学や哲学書を読むほど読書家の野球人にとって、高校教師になるのは特別に難しいことではなかったのかもしれない。

 そのとき、すでに取材開始から4時間近くが経過していたが、小川さんは疲れた様子も一切なく話し続けるなか、1984年に過ごしたメキシコ再訪への思いが語られた。僕はその国名で著書の内容に思い当たった。というのも、アメリカ以上にメキシコ野球のことが好意的に書かれていて、何か、小川さんにとって理想の世界だったのではないかと感じたのだ。

「そうですよ。メキシコはパラダイスみたいなもんで、僕はいろんな国に行ったけど、楽しい野球っていうのはあの国だけだったな。野球というより、毎日が運動会、イベントみたいなの。勝った負けたなんて関係ないんだよ」

 メキシカンリーグ、アグアスカリエンテスでの小川さんの成績は、25試合に登板して10勝11敗、防御率5.84。優秀な選手ほどメジャーリーグに流出してしまうため、日本に比べて野球レベルが高くなかったとはいえ、二桁勝利を挙げてチームに貢献したのは確かだ。

「でもね、僕が何勝しようが、二桁勝とうが、そんなこともどうでもいい話でさ。みんな純粋に野球を楽しむわけ。どっちが勝ったというより、どっちが楽しんだかっていうほうが重要なぐらい。はっはっは。

 だから僕自身、現役として最後の年は、本当にいい雰囲気のなかで野球ができてよかった。それで日本に帰ってきて、スポーツ紙で評論家をやらせてもらったけど、あの時点でもう、高校の先生になってやろうという気があればね......」


メキシコ時代はパラダイスと語る、取材時の小川さん

 思わぬところから高校教師の話が出た。現役を引退した当時、1980年代半ばから高校野球での指導を考えていた、ということだろうか。

「ああもう、僕は野球をやめるつもりだった時点、アメリカに行く前からね、教職を取りに大学へ行こうと思って、早稲田から卒業証書を取り寄せていたの。それで後々、ちょうど現役を終わった年、元プロでも高校の先生をやったら監督になれることになったけど、あのときは10年しなきゃいけなかったでしょう?」

 まさに84年、プロ・アマ規定が改訂され、教諭歴10年の元プロは高校で指導できるようになった。それが94年から教諭歴5年に短縮され、97年からさらに2年に短縮された。

「僕は最初、10年と聞いてあきらめて、5年から2年に短縮されたことを知ったのも6〜7年前だったのね。5年に短縮されたことをもっと早く知ってたら、僕はもっと早く先生になっていたと思う」

 大学の通信教育で教員資格を取った小川さんは、2008年、球友の紹介を受けて大分・柳ヶ浦高の英語教師となった。渡米以前から教師になる準備をして、アメリカで野球を続けながら生きた英語を勉強した経験が生きている。還暦を過ぎてなぜ高校野球なのか、というのはじつは愚問で、反骨心によって野球放浪が始まった30歳のときから、すでに道はできていたのだった。

「でもね、条件は満たせたけど、僕は頼まれもしないのに指導するつもりはないの。それだけは絶対にやりたくない。どうしても、ぜひ来てもらいたい、という話が来たら考えようと思ってる。ただ、僕はもう60過ぎて年齢的なものがいちばんのネックだし、たとえ話が来なくても、それはもう僕の人生と思ってるから、別にどうってことはないんだよ」

 それでも、と思う。ここまで小川さんの野球経験と考え方を聞いてきた者としては、ぜひ高校球児を指導してもらいたい。やはり、尾道商高で指導を受けた池田監督のような方針が軸になるのだろうか。

「監督になれるかどうかは別問題として、そうだね、練習時間は短くとか、ピッチャーは正しい投げ方で投げ過ぎないとか、あらゆる面で合理的にしたいと思う。いちいち一球一球、ノーアウトからベンチを見ないっていうのもそう。自分の考えてきた野球を、純粋なところでね、やれるならやってみたいね。

 ただ、確かに高校生の指導は『野球を通じた人間教育』が大事。それは僕、学校で先生を2年やらせてもらったからよくわかるんだけど、真実を言えば、甲子園に行くこと、プロ野球で活躍するような選手を育てることだって、監督の目指すところだと思うよ。

 元プロが私学に来て指導して、5年も甲子園に出られなかったら、『辞めてくれ』って言われても仕方ないぐらいの厳しさもあるってことも認識してる。だから3年に一回ぐらいは甲子園に出て、3年に一人はプロに行く選手が出るとか、それが本当、目指すべきところじゃないかと思う。まあ、まだなってもいないんだから、取り越し苦労なんだけどね。はっはっは」

(2010年7月14日・取材)