「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第26回 小川邦和・前編 (シリーズ記事一覧>>)

 埋もれていた「昭和プロ野球人」の過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズ連載。巨人のV9末期から主にリリーフとして好成績を残した小川邦和(おがわ くにかず)さんは、わずか5年間の在籍であっさりと巨人を退団してしまう。

 その後、アメリカに渡ってマイナーリーグから日本人2人目のメジャーリーガーを目指したが、まだインターネットもなく海外情報の乏しかった当時、現地でどのようなプレーをしていたのか、ほとんど知られることはなかった。サイドスローの小気味いいピッチングさながら、自身で次々と道を切り開いていった軌跡を振り返ってみよう。


1974年、勝ち投手の小川と握手する長嶋。この年で引退し、翌年は監督に(写真=共同通信社)

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 小川邦和さんに会いに行ったのは2010年7月。雑誌の仕事で巨人の球団史を調べる途上、古書店で小川さんの著書を見つけたことがきっかけだった。1992年発行の『ベースボール放浪記』と題された一冊。手にした瞬間、少年時代の記憶が呼び覚まされた。

 右のサイドスローで、背番号45だった巨人の小川投手。新たに長嶋茂雄監督が就任した75年、チームが最下位に沈んだなかで"奮投"していた。主にリリーフで、連日のように登板していた印象がある。しかし次の年は出番が減り、やがてほとんど試合に出なくなった。僕は小学6年生で詳しい事情を知るよしもなかったが、77年オフのことは鮮明に覚えている。

 ある日、新聞を読んでいたら、小川投手がアメリカに行く、という記事があって「すごいな」と思ったのだ。その頃、1970年代後半、アメリカの野球といえば"助っ人"外国人選手か、日米野球で見る大リーグの選手。行くからには当然、大リーグだと子供心に信じ込んだ。

 当時、64年に誕生した[日本人初の大リーガー]マッシー村上の存在も知らなかった。だから、小川投手は自分のなかで「アメリカ大リーグに最も近づいたヒーロー」になった。それだけに後の85年、江夏豊が渡米して挑んだときも、95年、野茂英雄がドジャースに入団したときも、僕は「その前に小川がいたはずだけど......」と心のなかでつぶやいていた。

 ただ、その後に小川投手がどうなったのか、特に追いかけることはしていなかった。当然ながら、著書を読むほどに未知の事実が頭に積み上げられた。

 小川さんは広島県福山市に生まれ、64年、尾道商高3年時にエースとして選抜甲子園大会に出場して準優勝。早稲田大に進学して東京六大学リーグで活躍し、社会人の日本鋼管を経て、72年のドラフト7位で巨人に入団する。2年目の74年にはチーム2位の12勝を挙げ、翌75年はチーム最多タイの53試合に登板して8勝10敗4セーブ、防御率3.75という成績を残していた。

 が、76年は36試合の登板で3勝。わずか9試合の登板に終わった77年限りで退団すると、78年1月、30歳のときに単身で海を渡ったのだった。著書には『日・米・韓・メキシコ・カナダ』と副題が付くのだが、この5つの国名は小川さんの球歴に直結している。

 79年から2年間、北米のマイナーリーグで登板し、帰国後、広島に在籍した小川さんは83年限りで退団する。翌84年はメキシコでプレーして現役を引退したあと、韓国・三星、ロッテで投手コーチを歴任。2001年からはメジャーリーグ球団の極東スカウトを3年間務めた。野球で諸国を巡ったから『放浪記』なのだと合点がいった。

 一方、他の文献では、10年3月、小川さんが62歳にして高校球界復帰の条件を満たした経緯が伝えられていた。すなわち高校野球の指導者を目指し、大分の高校で教諭となって2年間、英語を教えていたという。(当時の元プロの復帰条件は教諭歴2年。その後、13年から大幅に条件が緩和され、学生野球資格回復制度の研修会を3日間、受講することで復帰可能となった)

 なぜ、還暦を過ぎてなお行き着こうとしている場所が高校野球なのか。そもそもなぜ、30歳の若さで巨人を退団したのか。そしてなぜ、アメリカはじめ諸外国を野球放浪することになったのか。知りたいことが次々に積み重なって、取材を申し込んだ。

 神奈川・相模原市のご自宅から近いというJRの駅。午後1時に改札で待ち合わせて、隣接するビルのカフェテリアで小川さんと面と向かった。面長の顔に黒々とした角刈りは精悍そのものだが、銀縁眼鏡の奥の眼差しは優しい。僕は取材主旨を説明し、まずは「なぜアメリカだったのか」、小学6年のときの記憶も交えて尋ねた。

「僕はもともと、中学生のときからアメリカへの憧れがあって、映画の西部劇も大好きで、英語の勉強もしたかった。大リーグにも憧れていたけど、僕はあのとき、巨人を退団した時点ではもう野球はやめるつもりだったの。だから、いざ現地に行ったときにも挑戦するという気持ちはなかったね」

 著書にも〈挑戦とかいう気持ちはなかった〉と書かれていた。僕はその一文を読んで意外に感じていたが、あらためて目の前で聞くとなおさら意外で、少し残念な気もする。ただ、「野球をやめるつもりだった」とは書かれていなかった。巨人で二桁勝利を挙げた投手が、なぜそのような思いに至ったのか。

「それは使われ方の問題もあったし、長嶋さんの野球はしっちゃかめっちゃかだもの。二桁勝っても次の年、最下位になった年、僕の初登板は大差で負けてる試合だった。完封して4日後に敗戦処理で投げたり、体よく"便利屋"使いされた。

 もちろん長嶋さんは野球界に経済的にも貢献したすごい人で、そのパブリシティー、人気の高さは日本の有史以来でしょう。でも、本当はね、そういう人は監督をしなくても済むような野球界にしないと」

 いきなり球界全体への提言が出て驚く。そこは現役引退後、野球評論家として活躍した経験によるものだろうが、それはともかく、投手としては起用法でかなり苦労したようだ。

「前の監督の川上哲治さんも"便利屋"使いしたからね。でも巨人は、体の小っちゃい僕をテストみたいな形で獲ってくれて、川上さんが『プロ野球に入ってよかったな』って言ってくれたのは有難かった。結局、5年間しかいなかったけど、巨人OBっていうブランドはいろんな面で生きるから。他球団なら5年いただけじゃ、スポーツ紙の評論家には絶対なれなかったと思うし」

 小川さんは身長172センチと小柄な体格で、それゆえ大学卒業時には希望したプロ入りを果たせず、巨人入団もテストを経ていた。自ら望んで入った球団だけに、苦労はしても我慢の5年間だったのではないか。

「我慢は3年までだったね。12勝して、自分で得心できる活躍ができて、もういい、と思った。最下位の年も10勝の可能性があったけど、最後、あと十数試合が残ってたのに、グラブぶち投げたら『謹慎だ』って言われたんで、シーズン終了まで投げられなかったの」

 75年10月15日、広島がリーグ優勝を決めた一戦、小川さんは四番手で登板。1番打者・大下剛史のバントをファウルと判断し、捕っても間に合わないと思って見送るも、打球は一塁線上で止まった。すると、当時の守備コーチに「打球処理を怠った」と見なされ、交代後にベンチで叱責されてしまう。

「僕が『ファウルにしようと思った』と言ったら、『言い訳すんなー!』って言うから、『何が言い訳だよ、この野郎』って頭にきてグラブを投げつけた。こっちは正当な理由だと思ってるからね。その場は長嶋さんが止めてくれたけど、罰金10万円と謹慎をくらっちゃって......。それもあって次第に我慢できなくなって、もうやめようと思ったの」

 小川さんは「最下位の年」と繰り返している。名門球団にとって過去にない低迷がチーム内に軋轢(あつれき)を生じさせ、コーチと選手の間に溝ができていたのかもしれない。ただ、ひとつのプレーから謹慎に至った顛末には反骨心が感じられ、口調は厳しく、優しかった視線も鋭くなっていた。

 話はそこから当時のコーチ陣の指導法へと広がり、また自身の起用法へと戻り、外国人選手相手にワンポイントで投げることが多かったという。そのなかで大洋(現・DeNA)のシピンに強く、一時は「シピン・キラー」と呼ばれたそうだが、こうした特性も渡米につながったのだろうか。やめるつもりだった野球を、アメリカで続けようとした理由はどこにあったのか。

「最初は続けようと思ってなかった。それが、ロサンゼルス郊外のサンバーナーディーノという街にいるとき、お世話になっていた日本人の方の紹介でシアトル・マリナーズのキャンプに参加できることになったの。今思うと恥ずかしいけど、それだけでもう大リーガーの気分になってね」

 小川さんの世話をしたのは、日本の自動車メーカーの現地販売店を経営する副社長。巨人時代の同僚から紹介された人物で、サンフランシスコ・ジャイアンツともつながりがあった。名門球団のジャイアンツには断られた一方、当時のマリナーズは発足2年目だったからか、日本人選手に対する先入観がなかったようだ。「すぐスプリング・キャンプに来い」と言われたという。

「初めは調子のいいこと言ってたんだよ。球団代表が『シアトルは日本人のサポーターも多いから、ぜひ来てくれ』って。そこまで言われたら、MLBが獲ってくれる、ぐらいに思うわね」

 キャンプ参加の話がきただけで、実際に大リーグでプレーできるものと思い込んだ小川さん。「大リーガーたるもの身だしなみが肝心」と、ほとんどの有り金をはたくほどに洋服を買いそろえていた。それだけに、アリゾナ州フェニックスのキャンプ地に到着後、球団代表からの社交辞令を真に受けたのも無理はない。
  
「すぐ契約の話になるんだろう、と思っていたら、メル・ディディエというマイナーリーグの総監督(肩書は育成ディレクター)から『ユニフォームに着替えてグラウンドへ出ろ」って言われただけ。契約のことなんか一言も口に出さない。それでマイナーの選手と一緒に練習したんだけど、3日目までまったく同じ内容。4日目になってやっと、ピッチングコーチがピッチングを見てくれたんだよね」

 毎日同じだった練習内容はキャッチボール、トスバッティング、軽いピッチング。3日目に打撃投手を務めたときは実力をアピールすべく、無理して速い球を投げたという。そうして、コーチがピッチングを見た次の日、ディディエ総監督が小川さんのところにやって来た。

「いよいよ契約か、と心が高鳴ったよ。ところが、総監督の言葉は『Sorry,We have no room』。つまり『悪いけど、空きがないから帰ってくれ』って。僕のピッチング、コーチはどこまでまともに見たんだ? と思ったけどね。

 僕はあのとき、アメリカで世話になる人にあげようと思って、3万も4万もするような兜を買って日本から持っていってた。で、それをディディエ総監督に進呈したら大喜びしてたよ。でも『空きがない』と。全然、話が違う。『ふざけんな!』って思ったけど仕方ない。そこで夢が消え去って、現実に戻ったんだよ。はっはっは」

 日本風の土産物を持参して渡米していたとは......。初めから総監督に進呈するつもりではなかったにせよ、時代の違いを感じずにいられない。時代の違いといえば、そのときの小川さんが大リーグでプレーできるものと思い込んだこと自体がそうなのだ。

「でも、現実に戻って、まあいいやと思ったのは、僕は最初から野球する目的で行ったわけじゃないから。1年だけでもいろんなとこを見て勉強して帰れればいい、っていう気であったから。ただ、当時はアメリカに滞在するにはビザが必要で、観光ビザが切れたら不法滞在になる。そのときによかったのは、英語の勉強のためにアダルトスクールに通えたことだったの」

 米政府が外国人のために無料で開放していたアダルトスクールは、学生ビザを発行していた。入学した小川さんは1年間のビザを得て、秋まで滞在できることになった。

「でね、アダルトスクールのビザの発行はその年限りで終わりだったの。だから運がよかったと思うし、もしもあのとき学生ビザがなかったら、僕の人生も大いに変わってたね」

 小川さんは英語の勉強に打ち込むかたわら、世話をしてくれた副社長の計らいにより、ジュニアカレッジ(2年制の短大)で臨時コーチとして野球をしていた。カレッジのリーグ戦が6月に終わると、今度はセミプロのクラブで野球を続けた。

 セミプロは日本のノンプロ=社会人野球とは違い、草野球に近いものだそうだが、大会になると米球団のスカウトたちが大勢やって来たという。実際、小川さんはトーナメント大会で3試合連続完投を果たすなど大活躍し、スカウトに声をかけられている。

「最初にフィリーズが来たけど、結局、直前になってまたも『no room』でね。それで来年はどうするか......ってなったとき、サンバーナーディーノに一軒だけあった日本食のレストランに勤めていた女性が、『ウチの旦那がスカウトを知ってるから』って、ブリュワーズのマイナーリーグのディレクター、レイ・ポイントベントという人を紹介してくれたの」

 ブリュワーズは小川さんをテストする意味で、ロサンゼルス近郊の大学との教育リーグで投げるように指示。すると、リリーフで2イニングを投げて無安打、無失点と結果を残すことができた。

「ディレクターのポイントベントがこう言ってきた。『メジャーリーグと契約するんだったら、本部に連絡しないといかんから、もう少し待ってくれ。そのかわり、マイナーリーグだったら今すぐにここで契約する』って。

 ただ、僕はそのとき31歳になっていて、『そんなトウが立ってちゃ雇ってくれない』ってんで、あるスカウトが『歳をごまかしておけ』と。今の時代なら、力があれば30過ぎても獲るけども、その頃は年齢で切られた。だから5つサバを読んで26歳ってことにしてたんだよ。ポイントベントは知らないふりして契約してくれたけどね」


渡米後のさまざまな出来事を振り返る、取材時の小川さん

 今では考えられない話だが、アメリカのサイト〈BASEBALL-REFERENCE〉には現在も北米での小川さんの全成績が掲載されており、本当は1947年生まれなのに〈Born:1952〉となっているのだった。それにしても、契約においては選択肢があり、ブリュワーズとはメジャー契約の可能性もあったのだ。

「でも、あのときの僕は、アメリカに残れることを最優先した。マイナーでもアメリカ野球を勉強もできるし、実地で実用的な英語を学べる。だから、メジャーとかそんなこと言ってる場合じゃない、喜んで契約しようと」

 あくまでも野球の勉強が主眼で、英語の学習と実用が小川さんの根底にあったのだ。初めに感じた意外さも残念な気持ちも解消され、「挑戦する気持ち」ではなかった理由が今ははっきりと理解できる。なおかつ「メジャーとか言ってる場合じゃない」という言葉には、時代の違いを超越した、小川さん独自の生き方が表れているように思う。

 そうして渡米2年目の79年、小川さんはブリュワーズ傘下の3A、カナダのバンクーバーに本拠地を置くバンクーバー・カナディアンズに所属することになった。

(後編につづく)