森川智之と野沢雅子と柴田秀勝

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 6月11日から映画『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』が公開されている。原作は1984年に『週刊少年ジャンプ』で連載がスタートした漫画『ドラゴンボール』(鳥山明/集英社)。説明不要だろうが、7つ集めると望みが叶う玉「ドラゴンボール」をめぐる冒険譚に始まり、終盤は地球に迫る脅威との戦いを描いたバトル漫画として人気を博した。テレビアニメは世界中で放送され、今も多くのファンに愛されている。

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 この『ドラゴンボール』でアニメシリーズの主人公・孫悟空とその子どもたち悟飯、悟天の声を長年担当しているのが、声優の野沢雅子(85)。彼女は“声優”という職業が浸透する前から、アニメーションや外国映画に声を吹き込んできた、“レジェンド声優”のひとりだ。

野沢から落とされた“カミナリ”

 野沢とともにその道を切り開いてきた柴田秀勝さん(85)は、彼女について「会うとパワーがもらえる存在」と話す。

「マコ(野沢の愛称)は本当に元気。思えば、彼女の悟空をモノマネする人が出てきてから、グンと若くなりましたね。会うたびに若返る、不思議な人です」

 まさに生ける伝説! まだまだ元気な声が聞けそうだ。そんな野沢を恩師と慕うのが、人気声優の森川智之さん(55)。

「僕が通っていた『勝田声優教室(後の勝田声優学院)』で、マコさんが講師をしていた時代からお世話になっています。偶然にも、マコさんのご自宅の近所に僕が住んでいたので、毎日一緒に帰っていたんです。僕が運転する自転車の後ろに彼女を乗せて、仕事やプライベートな悩みまで、何でも相談していましたね」

 下積み時代には、レジェンド・野沢雅子からは「帝王学」を学んだ、と森川さん。

「とてもありがたいことに、僕は新人時代から外国映画の吹き替えでも主役に選んでもらえたので、ある有名な音響監督さんに、どうして自分が主役を演じさせてもらえるのか聞いてみたんです。すると『おまえは主役をやる人間だからだよ』という返事が返ってきて、主役を担う責任の重さを感じました。

 その言葉を聞いて思い浮かんだのが、現場でのマコさんの姿。マコさんには『主役としてコンテンツを引っ張っていくぞ』というすさまじいエネルギーがあるんです。僕はマコさんの背中に“主役の立ち振る舞い”を教えてもらいましたね」

 普段から気さくに接してくれる優しいマコさんに、一度だけ本気で叱られた経験があるという。

「マコさんの授業は、課題として与えられたセリフに合った演技をして合格をもらう“即応力”を鍛える内容でした。当時の僕は、その課題を毎回一発で合格する優等生だったんです。最後の授業には、学生ひとりひとりをマコさんが総評する時間があるのですが『森川はこのクラスの中で、いちばん成長しなかった』と雷を落とされました。

 そのとき初めて『現状に甘んじて成長しようとしていない自分』に気づきました。それ以来、どんな仕事でも“成長”を意識しています。何より、僕の将来を真剣に考えて叱ってくれた気持ちが伝わってきたので、とてもうれしかったです。あのとき怒ってもらえなかったら、今の僕はいないですね」

 森川さんは「悟空にそんなこと言われたら、しっかりしないわけにはいかない」と笑顔で語った。ときに優しく、ときに厳しく、後輩としっかり向き合う姿勢も、彼女がレジェンドたる由縁なのかもしれない。

 声優の“伝説”はアフレコ現場で生まれる。'80年代の大人気野球漫画『タッチ』(あだち充/小学館)が1985年にアニメ化された際、ヒロイン・浅倉南を演じた日高のり子(60)は、アニメ評論家・藤津亮太さんの書籍『声優語』(一迅社)のインタビューで試行錯誤の日々をこう語っている。

レジェンド声優も「成長を止めない」

 幼なじみの上杉達也を南ちゃんが責めるシーンでは、アフレコ中にプロデューサーから「南ちゃんは……怒っても優しく!」と厳しい指摘を受けたという。「怒っているんだから、それは表現しないとやっぱりおかしいだろう。では、どうすればいいか。それで『タッちゃん、そんなことしちゃダメだぞ!』というセリフだったら、途中までは勢いで言って、最後の『ぞ!』だけ(力を優しく)抜くという方法を考えたんです。(中略)そうして演じてみたら手応えがあったんです。だから南ちゃんの基本は、何があっても語尾は優しく(笑)」

 確かに彼女の「◯◯だぞ」は印象的な語尾といえる。憧れのヒロイン、南ちゃんの魅力の秘密は語尾にあり?

 前出の柴田さんは『マジンガーZ』(1972年)で演じたあしゅら男爵のアフレコ秘話を教えてくれた。あしゅら男爵は、夫婦のミイラを組み合わせて造られたサイボーグで、右半身は女性、左半身は男性という特異なキャラクターだ。

「今なら男女の声優の声を別々に収録して、一緒にしゃべっているように調整できますが、当時はそんな技術はありません。ふたりで同時に声を吹き込むしかなかったんです。そこで僕は女性役の北浜晴子さんに『僕が台本を上げてから下げます。そのタイミングで一緒にセリフを言いましょう』と提案したんです」

 台本の上げ下げで“間”を調節したのだ。回数を重ねるごとに、ふたりの息はどんどん重なっていったという。

「僕がリードしているように思えるかもしれませんが、北浜さんは『奥さまは魔女』でサマンサの吹き替えをしていた憧れの大先輩。僕が合わせてもらっていたんです。北浜さんをはじめ、先輩方にはいろいろとフォローをしてもらいましたね」

 職人の技で、当時の技術の限界を乗り越えた逸話だ。そして、業界を牽引している森川さんもレジェンドたちとの仕事を通して、今も多くの学びを得ていると語る。

「マコさんはじめ、柴田秀勝さんや古谷徹さんなど、僕が子どものころにアニメで見ていたみなさんが、今も現役でバリバリ活躍しているのを見ると、恐ろしさすら感じます。自分もそうなれるかわかりませんが、マコさんの教えどおり、これからも“成長”を止めるわけにはいかないですね」

 今や憧れの職業となった声優。レジェンドたちが開拓してきた「道」は、次世代にしっかり受け継がれているようだ。

レジェンド声優に聞く! その1

柴田秀勝(しばた・ひでかつ)さん
1937年、東京都生まれ。麻布中学・高校から日本大学芸術学部演劇科を卒業後、俳優の道へ。『タイガーマスク』のミスターX役で本格的に声優デビューを果たし『宇宙戦艦ヤマト』『鋼の錬金術師』など人気作に出演。株式会社RMEの代表取締役会長として、後進の育成にも尽力。

“声優”という職業が確立していなかった'60年代から第一線で声の仕事をしている柴田秀勝さん。これまで、主人公の敵役や宇宙人、妖怪など幅広いキャラクターに命を吹き込んできた、まさに“レジェンド”だ。

「かつて声の仕事は、俳優のアルバイトでした。僕自身も俳優が本業で、テレビドラマにも出演していたころ『狼少年ケン』(1963年)という作品で初めてアニメーションに声をあてたんです。それから数年がたったころ、東映のプロデューサーになった大学の先輩から『タイガーマスク』(1969年)の敵役・ミスターXのオファーが来ました」

 その際、先輩から「声専門のプロダクションを作ってほしい」と打診を受けた柴田さんは、故・久保進さんとともに「青二プロダクション」を設立。青二プロは、今も業界最大手の声優事務所のひとつだ。

「『タイガーマスク』は、自分の声優人生の中でもターニングポイントになった作品です。僕は幼いころから“吃音症”で、とくに『タ行』を発するのが苦手でした。テレビドラマ出演時も苦労したので『声専門の俳優なんてできない』と思っていたんです。

 しかも、タイガーマスクも『タ行』なので『タイガーめ』という定番のセリフがどうしても言えない。そこで考えて試してみたのが“含み笑い”でした。セリフの頭に『ふふふ』と含み笑いを入れると『タイガーめ』が難なく言えたんです」

 作戦は功を奏し、全105話を終えるころには、含み笑いなしで「タ行」が言えるようになったという。

「今の自分があるのは『タイガーマスク』のおかげですね」

自ら解決策を見いだすだけでなく、先輩声優からの助言にも助けられた、と柴田さん。

「『ゲゲゲの鬼太郎』の初代ねずみ男を務めていた故・大塚周夫さんのアドバイスは一生忘れられません。僕が『水戸黄門』(25〜27部)のナレーションをしていたころ、大塚さんから『水戸黄門見てるぞ! いいよ、なかなかいい! でも、ターゲットが広すぎるよ。テレビの前で見ているのは1人だ。そんなイメージでしゃべってごらん』と言われたんです。今まで“テレビの前に何人いるか”なんて考えたことがなかったので、衝撃を受けました。それ以来、マイクの前に立つときの心持ちは大きく変わりました」

 創生期を支えた柴田さんは「いつの間にかレジェンドになっちゃったね」と笑う。

「昔は、声優が人気の職業になるとは想像もしていませんでした。しかし、作画技術の変化向上などで声優に求められる仕事もどんどん変わってきて、話芸という演技の“答え”は自分の耳で探すしかない。これからの声優は、時代の変化とともに求められるものを敏感に察知する能力が必要ですよね」

レジェンド声優に聞くその2

森川智之(もりかわ・としゆき)さん
1967年、神奈川県生まれ。トム・クルーズなどハリウッド俳優の日本語吹き替えも多く担当。アニメーションでは『鬼滅の刃』の産屋敷耀哉や『クレヨンしんちゃん』の野原ひろし(2代目)など、二枚目から三枚目まで幅広いキャラクターを演じる。

 トム・クルーズの吹き替えでおなじみの人気声優・森川智之さん(55)の原点は、勝田声優教室(後の勝田声優学院)にある。お茶の水博士の声優で知られる故・勝田久さんが設立し、多くの人気声優を輩出した伝説の声優養成所だ。

 森川さんは高校時代、アメリカンフットボール部に所属し、体育教師を目指していたが、部活中に頸椎を損傷してしまい教員の道を断念。友人のすすめで「声の仕事」に興味を持ったという。

「入学したきっかけは、夏休みに参加したサマースクール。そのときの授業が楽しくて9月に入学しました。すると、入学初日に『これから君は先生をやりなさい』と勝田さんに言われて、生徒として演技のイロハを学びながら発声の先生もする“二刀流”の学生生活が始まったんです」

 新入生ながらのどが強く、大きかった森川さんの声が勝田の耳に留まったのだ。

「それからは学校に通いつつ、勝田さんの現場や朗読教室についていく“鞄持ち”もしていました。新人では行けないような現場にも連れていってもらえて、とても勉強になりましたね。入学から3か月後には、プロの声優として仕事もいただきました。ただ、どんなに優秀な学生でもプロの現場ではいちばん下。監督に名前を呼んでもらえなかったり、全然OKが出なかったりして、仕事の帰り道はいつも足取りが重かったです」

 今年でキャリア37年目を迎えた森川さんは「すべての経験がつながっている」と話す。

「大先輩の故・石森達幸さんにいただいた『続けていれば大丈夫。やめたらおしまいだよ』という言葉は、今でも大切にしています。僕は今現在、養成所を運営して若手を育てていますが、もともと先生になりたかった僕が、巡り巡って教える側になれたのは不思議な縁ですよね。今はすぐに結果や答えを求める人が多いですが、演技の幅を広げるのは経験と年輪。これからもプロセスを大切にしていきたいです」

 そんな森川さんが、先達のレジェンド声優たちの“すごみ”が感じられる作品をひとつ挙げるとしたら、この作品だという。

「『ガンバの冒険』(1975年)ですね。7匹のネズミたちが、島を支配するイタチのノロイに立ち向かうストーリー。マコさん、内海賢二さんや富山敬さんなど、錚々たるメンバーが声優を務めているのですが、全員個性的なのに調和がとれている奇跡の作品です。

 誰ひとり欠けても成立しない、絶妙なバランスに匠の技を感じます。アニメ放送時は子どもだったので声優という仕事を意識していませんでしたが、当時もワクワクしながら見ていました。機会があれば見てほしい!」

取材・文/大貫未来(清談社) 撮影/佐藤靖彦(柴田さん)